金峯山寺(きんぶさんじ)蔵王堂の仏像や建築物に夢中になって、いつしか時間が昼過ぎになっていることを忘れ、月美結貴さんから、𠮷水神社に参拝する時間がかなりギリギリであることを告げられた僕ですが……

 

 10秒ほど思案したものの、何とかなるんじゃないかという気がして、「速攻で、𠮷水神社を参拝してしまいましょう」と月美さんに提案しました。

 

 この時間に追われる展開、まさに僕のいつもの人生パターンです。

 

 こういう時には、考えるよりも早く行動してしまうに限ります(笑)

 

 月美さんも「𠮷水神社の境内を巡るのはそんなに時間も掛からないので、急げば何とかなるでしょう」と同意してくれました。

 

 

 

 ということで月美さんを巻き込んで、急ぎ足で蔵王院を出て𠮷水神社にたどりつきました!!

 𠮷水神社については、小田原の朱紅先生のブログに書かれていたのを読んでいたので、事前情報をある程度つかんでいます。

 

 元々、𠮷水神社は「𠮷水院(よしみずいん)」という僧侶専用の宿坊で、この場所は後醍醐天皇の南朝の皇居でもあり、そういった事情から、明治時代の神仏分離令によって神社となりました。

 

 とはいえ後醍醐天皇の他にも、源義経や静御前、太閤豊臣秀吉の愛用の品など、蒼々たる歴史の著名人の遺品や手紙やゆかりの品が展示されているんです。

 

 

 

 ここは表門を入ってすぐの所にある一目千本(ひとめせんぼん)……

「必見桜スポット」とされる場所です。

 

 もちろん、桜はとうに散ってしまっています。

 でも、桜もとても素敵ですけど、僕はこの新緑のまぶしい緑の方が好きですね。

   緑フェチです……

 

 さらに奥へと進むと、𠮷水神社の本殿にたどりつきます。

 

 月美さんが「ここには後醍醐天皇と楠木正成公が祀られているんですよ」と教えてくれました。

 

 お賽銭箱の上の「参拝作法」の立て札を見て驚きました。

 何と「二礼 十七拍手 一拝」と書いてあります!!

 

 十七拍手の柏手(かしわで)は、「四・四・四・四・一」と打つそうです。

 

 出雲の神様には、四柏手とか八拍手とかしたりしますが、それにしても、十七拍手というのは初めてです。

 

 この十七拍手の意味は、日本神話の天地開闢(かいびゃく)に登場する造化三神(天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神)から伊邪那岐(いざなぎ)伊邪那美(いざなみ)までの十七柱の神様の数を表しているようです。

 

 でも、実際に十七拍手をやってみると、意外と違和感なくできるから不思議です。

 もしかしたら、神道の拍手というのは十七回が正式なのかも知れないという気もしてきました。

 

 朱紅先生のブログにある部屋や様々な展示物は、𠮷水神社の書院にあり、書院へは拝観料600円で入れます

 

 

 

 こちらは、後醍醐天皇の玉座……

 壮麗な部屋ではありますが、家臣たちが天皇で拝謁するための部屋としては、あまりにも質素です。

 

 後醍醐天皇もきっと元の住まいの京都御所に戻りたかったのだろうな…… と思いました。

 

 

 

 こちらは、源義経と静御前が最期の時を過ごした「潜居の間」と呼ばれる部屋です。

 

 その後、兄の源頼朝の追手を逃れるために、義経は山伏の姿に扮して、弁慶と共に山に入りました。

 

 関所を守る富樫左衛門に怪しまれて引き留められ、疑いを晴らすために弁慶が涙ながらに主君の義経を杖で打ったという「勧進帳」のストーリーは、この壮絶な逃避行の時のものです。

 

 義経が山伏の姿に扮した際、それまでに身につけていた武具などは、この場所に隠しておいたのですね。

 

 

 

 これが義経が着ていた色々威腹巻(いろいろおどしはらまき)です。

 

 こんな小さな鎧を身につけられるほどに、義経は痩せてたんですね。

 

 部屋を出て、廊下を歩いていると、達筆の見事な掛け軸に出会いました。

 

 

 

 これを書いたのは、何とあの一休宗純です。

     好き 好き 好き 好き 好きっ好き、一休さん♪

 

 逸話に事欠かない、人情味あふれる破戒僧の一休宗純ですが、この文字の気迫はすごいです。

 

 やっぱり、本物だと思いました。

 

 

 

 これは、豊臣秀吉愛用の金屏風……

 

 かの太閤が「吉野の花見」を行った際の本陣も、この𠮷水神社(𠮷水院)でした。

 

 徳川家康、前田利家、宇喜多秀家や伊達政宗といった当代きっての武将に、公家、茶人など約5,000人を招待しての一大イベントだったそうですが、吉野に着くなり、あいにくの三日続きの雨……

 

 それにキレた秀吉は「雨が止まねば、山に火をかけて下山する」と言ったために、慌てて吉野の僧侶たちが晴天祈願をした所、翌日にピタッと雨が止んだそうです。

 

 この出来事は文禄三年(1594年)の話で、この頃は朝鮮出兵の真っ最中で、戦場の朝鮮ではひどい有様だった頃です。

 

 その後の天下が豊臣政権から徳川家康の手にわたっていくのは、僕には当然のように思えてきます。

 

 この𠮷水神社の書院には、弁慶の槍や籠手だったり、静御前の鎧だったり、楠木正成所持の銅像毘沙門天の他にも、百人一首で有名な蝉丸の琵琶だったり、水戸光圀の家臣の「助さん」こと佐々木助三郎が書いた書状なんかもあります。

 

 また、伝教大師最澄が作ったと伝えられるダキニ天や、弘法大師空海が作ったと伝えられる灰佛弁財天も展示されています。

 

 どれ一つとっても、歴史好きにはたまらない展示品ばかりですが、驚くことに写真撮影OKなんです。

 

 速攻で中を回るつもりが、かなり遅くなってしまいました。

 

 吉水神社の北闕門(ほっけつもん)で邪気払いができると聞いていたので、書院を出てその場所に行ってみました。

 

 

 

 立札に、邪気払いの作法が書いてあります。

 

 両の手で「刀印」を作り、「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」の発声と共に、図のように九度大きく空を切る……

 

 そして最後に「曵(えいっ)」と斜めから袈裟切りにする……

 

 

 

 見よう見まねでやってみました(^^)

 

 う~ん、本当に祓えたのでしょうか……

 

 かなり時間を取ってしまったと自分では思ったのですが、意外とそんなに時間は過ぎていなくて、何とか帰りのロープウェイの時間には間に合いそうです。

 

 この後、荷物を置かせていただいた吉野館へ戻り、いよいよこの吉野の地を後にします。

 

 その話はまた、明日のブログで書きますね。