いつも東京から岐阜に帰る時には、新幹線で名古屋まで行って、そこから東海道線に乗り換えて岐阜に向かうのですが、たまに名古屋駅で途中下車することがあります。

 

 名古屋駅の太閤通口の所にある「驛麺(えきめん)通り」には、美味しいラーメン屋さんが並んでいるので、そこでお昼にラーメンを食べるんです(^^)

 

 この太閤通というのは、言わずと知れた太閤・豊臣秀吉にちなんだもの……

 

 豊臣秀吉は尾張中村の生まれ…… これは現在の名古屋市中村区にあたり、この名古屋駅のある周辺の地域です。

 

 名古屋駅を出て太閤通をまっすぐ進んでいくと、秀吉の生誕地・木下屋敷跡である豊國神社や常泉寺につながる豊國参道にぶつかります。

 

 このあたりには、秀吉が馬印にしていたの象徴である「千なり瓢箪(びょうたん)」がいっぱい飾ってありますね。

 

 つい先日、吉野山の𠮷水神社に参拝した時には、期せずして豊臣秀吉愛用の金屏風を見ることができました。

(2024/4/29ブログ「吉水神社での邪気祓い」参照)

 

 今日も12年前のパリブログから、過去ブログを一つリメイクします。

 

 豊臣秀吉と徳川家康は、性格こそ対照的ですけど、二人とも共通点はいっぱいあります。

 

 その共通点こそが、成功者の条件とも言えるでしょう。

 

 この二人の共通点がわかれば、いかにしたら成功者になれるかということも見えてくるような気がします。

 

 まずは、二人とも真面目で努力家です。何をやるにも、ひたむきで一生懸命……

 しかも、人に対してとても気を遣います。

 

 悪く言えば、小心者ということです。

 

 この辺は、織田信長には絶対にない部分です。

 

 この二人の違いを言えば、秀吉は楽観的で開放的、家康は極端に用心深くて慎重です。

 

 秀吉のこの陽の部分というのは、本当に気持ちいいです。

 

 絶対的に自分を信じているというか……

 というよりも、自分の運命とか天命みたいなものを、信じていたのかも知れません。

 

 そして、素早いです。チャンスは、決して逃さない……

 

 本能寺の変の後の秀吉の一連の行動は、まるで神業と言えるくらいの素早さです。

 

 だから、後世の歴史の研究家の中には「実は信長を死に追いやった黒幕は秀吉ではないか」みたいな仮説を立てる人もいます。

 

 それはともかくとして、豊臣秀吉の真骨頂は、必要以上に敵を作らない所にあります。

 うまく相手を丸めこんで、自分の味方にしてしまう……

 

「みんなで一緒にやっていこうよ」というような感じです。

 

 もちろん、人間同士が命をしのぎ合う戦国時代ですから、そんなやわな言葉は出てきませんが、きっと心の中にはそんな部分があったのではないかと思います。

 

 豊臣秀吉が天下統一を決める最後の戦いである小田原の陣に、伊達政宗が参陣してきた時のことです。

 

 伊達政宗は東北地方を統一していた実力者で、おそらく計算に計算を重ねて、秀吉には従っておいた方が良いだろうと思い、やっと参陣してきたんですね。

 

 つまり、秀吉にとって絶対的に油断ならない相手です。

 

 それにもかかわらず、秀吉は何と小田原城を見下ろす崖の上で、政宗に刀を持たせて二人きりになっているのです。

 

 伊達政宗が、背中からドーンと秀吉を崖から突き落としていたら、天下は明らかに変わっていました。

   太閤殿下が崖から落っこちました…… とかいう話になって(笑)

 

 こういった芸当は、徳川家康には絶対に真似できないですね。

 

 家康は、余程信用している家臣以外は疑って心を許しませんから……

 

 こういう所が秀吉のすごい所です。

 

 人を信じるということができる……

 

 サラリーマン社会でも豊臣秀吉みたいな上司がいたら、その部下はとても幸せだと思います。

 

 こういったことが自然にできるのが、本当の意味での統率力のような気もします。

 

 だから、本能寺の変以来、秀吉のことをずっと牽制していた家康でさえも、毒気を抜かれて秀吉に従ってしまいました。

 

 秀吉というのは、自分の出自や身分にコンプレックスを持っていました。

 

 現代は、生まれながらの身分などというものは存在しない時代ですが、この当時は家柄とか血統の貴賎みたいなものが、かたくなに信じられていた時代です。

 

 とはいえ、この戦国動乱時代は、そういった価値観に対する変革期でもあったのですが……

 

 そして秀吉は、そのコンプレックスを見事に武器にしました。

 気難しい信長の心を見事に惹きつけ、足軽から天下人にまで上り詰めた英雄です。

 

 秀吉という人は、明るくて裏表がなく、細かい所にも気がついて自分から率先して動きまわることができる人です。

 

 庶民の出だから、弱者の気持ちや苦労も良くわかったりします。

 

 夏の猛暑の賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦の際、照りつける太陽に苦しむ負傷兵に、敵も味方も関係なく、近隣の農家から買い上げた すげ笠をかぶせて回ったといいます。

 

 こういった行為は、決して計算ではなく、秀吉の持っている優しさからにじみ出たものであることは言うまでもありません。

 

 まさに安国寺恵瓊が言う「さりとての者」……

 天下をおさめる器を持った偉人であり、慈愛の心を持った優しい英雄でした。

 

 僕は、ここまでの秀吉は大好きですし、とても尊敬しています。

 

 しかし、油断したんですね。

 

 天下を取ってしまってからの秀吉は、本当に愚かな老人になり下がりました。

 

 まるでもう別人です。人間はここまで変わってしまうものなのか…… というくらいに。

 

 晩年期の豊臣秀吉は、朝鮮半島へ度重なる侵略軍を送ったり、甥であった豊臣秀次を切腹させ、その側室や侍女など、何の罪もない29名を京都三条河原で惨殺したりと、以前の秀吉だったら絶対にやらないような蛮行を繰り返しています。

 

 しかも朝鮮出兵の真っ最中で、戦場ではひどい有様だというのに、吉野山や醍醐寺で盛大な花見を催して、興に浸っているような有様です。

 

 自分が何をやっても許されるような状況になると、人というのは自分を制御できなくなって、道を誤るものなのかも知れません。

 例え、秀吉ほどの者であっても……

 

 前半期の人生が立派であっただけに、本当に残念です。

 

 もし、秀吉が道を誤ることがなければ、歴史の流れは別のものになっていたと思いますし、きっと秀吉は本当の意味での英雄になっていたに違いありません。

 

 (2012/7/29パリブログ「気配りの優しい英雄」をリメイク)