いよいよ、史記の范雎(はんしょ)のお話も、今度こそ本当に最終回です。

 

 蔡沢(さいたく)はさらに、次のように語ります。

 

「昔、斉(せい)の桓公(かんこう)は、諸侯を集めて協力体制で天下を正そうとしましたが、葵丘の会盟(ききゅうのかいめい)の時には、驕慢な気持ちがあったので、たくさんの国が斉に背きました。

 

 また、呉(ご)王・夫差(ふさ)は、その兵力は天下に揺るがないほどでしたが、諸侯を軽んじて、斉や晋(しん)を敵に回したので、ついに自らの国を亡ぼしました。

 

 夏育(かいく)や太史噭(たいしきょう)は、大声を出せば、全軍にその命令が行き渡るほどでしたが、結局この二人は、雑兵によって殺されました。

 

 これらはみんな、自らの勢いが盛んなのに乗じて、道理に立ち返ろうとはせず、謙虚さを忘れたために起こった患禍(かんか)です。

 

 范蠡(はんれい)は、そういったことをよく心得ていたので、身をひいて世を避け、陶朱公(とうしゅこう)として、長く栄えました」

 

 范蠡というのは、范雎と同じ苗字ですが、直接血がつながっている訳ではありません。

 

 范蠡という人は越(えつ)の王・勾践(こうせん)を覇者に導きましたが、やがて「兎(うさぎ)を狩り終えた後の猟犬というのは、不要となって、煮て食べられてしまうものだ」と友だちに手紙を書いて、勾践の元を去って身の安全を保ち、老いてからも悠々自適の暮らしを送った人です。

 

 この格言はそのまま、韓信の軍師だった蒯通(かいつう)が、韓信に忠告するための言葉として使っています。

(2023/7/22ブログ「史記を読む・韓信の生涯その14」参照)

 

 蔡沢は、さらに話を続けます。

 

「あなた様は、博打をやっている者を見たことはございませんか。大金を賭けて一気に勝とうとする者もいれば、小金を少しずつ賭けて、安全に勝とうとする者もいます。

 

 これまで、あなた様は秦(しん)の宰相として謀略を巡らし、座りながらにして秦を強大にし、さらに六国が合従できないようにして、諸侯が秦にあがなえないようにしました。

 

 秦が欲することは全て成しとげられ、あなた様の功業は極まったのです。

 これからの秦は、少しずつ勝ちをつかんでいくべき時なのです。

 

 水を鏡にして、自分の姿を見ることができるように、人を鏡にして、自分の命運の吉凶を知ることができると、聞きおよびます。また『成功の下には、久しくおるべからず』とも申します。

 

 あなた様は、どうしてこの機会に宰相の印綬を返上して、それを賢者に譲りわたし、范蠡のように隠れて引退しようとなされないのですか。

 

 そうすれば、必ずや伯夷(はくい)のように清廉さを称賛され、長く応侯(おうこう)として人々に親しまれ、子孫に至るまで諸侯であり続け、謙譲の徳を認められて、仙人の王子喬(おうしきょう)や赤松子(せきしょうし)のように、長寿を保てるでしょう」

 

 伯夷とは、儒教で聖人とされている高名な隠者です。

 今、身を引けば、范雎はずっと「応候」と呼ばれる身分のままでいられる、と蔡沢は言っているんですね。

 

「今、この時にこそ、引退なさらなければ、商君(しょうくん)・呉起(ごき)・大夫種(たいふしょう)や白起(びゃっき)と同じことになりますぞ。

 

 もしも、今の地位を惜しんでしがみつき、疑って自ら決断することができないようならば、必ずやこの四人と同じ禍いがあるでしょう。

 

 易経には『亢龍(こうりゅう)悔いあり(乾為天 上爻)』とあります。これは、上ったまま下りてくることができない者、伸びるだけで屈することができない者、行ったきりで戻ってくることができない者の例えなのです。どうか熟考されてください」

 

 范雎は目に涙を浮かべ、「よくぞ、申してくださった。つつしんで、先生の教えを受け入れましょう」と、蔡沢にお礼を言いました。

 

 そして、蔡沢を邸内に入れて上客とし、後日、昭襄王(しょうじょうおう)に蔡沢を推挙しました。

 

「山東より参りました賓客がおりまして、名を蔡沢と申します。雄弁の士であり、三王の事蹟、五伯の功業、世俗の変化に明るく、秦国の政治を託するに足ります。私はこれまで多くの弁舌の士に会ってまいりましたが、彼に及ぶ者はなく、私でさえ彼に及びません」

 

 昭襄王は蔡沢と語らい合い、大いに喜び、その才を認めて、客卿(かくけい)に任じました。

 

 それを見届けると、范雎は病気と称して、昭襄王に宰相の印綬を返上したいと請願しました。昭襄王は范雎に翻意を促しましたが、范雎は重病だと言って、宰相を免ぜられることになりました。

 

 その後すぐに、蔡沢は秦の宰相の地位につくことになりますが、自分のことを讒言(ざんげん)している者がいると知ると、病気と称して、すぐに宰相の印綬を返上してしまいました。

 

「史記」 の作者の司馬遷(しばせん)は、范雎と蔡沢のことを次のように評しています。

 

 范雎や蔡沢は、世に言う一流の弁士である。秦に入るなり、卿相(けいしょう)の高位に就いて功業をなすことができた。

 だが、士にはまた巡り合わせというものがある。この二人に匹敵する賢者であっても、志を果たせない者は数多い。

 しかし、この二人も困難に遭遇しなかったなら、どうして発奮して成功することができたであろうか。

 

 范雎という人は、確かに才能あふれる弁舌家でした。

 しかしながら、范雎がここまでの成功を遂げたのは、やはり大きな運を持っていて、その運命に導かれたからでがないかと思います。

 

 もっと言えば、須賈(すか)や魏斉(ぎせい)によって辛酸をなめさせられ、悔しい思いをして発奮したからこそ、これだけの大成功を遂げたに他なりません。

 

 あのひどい出来事がなければ、范雎は故郷の小国の魏(ぎ)で、ただ使者として宮仕えするだけのちょっぽけな人生で、終わっていた可能性もあります。

 

 人生で起こる全てのことは意味があるし、そう考えるならば、たとえ気持ちが割り切れないことが起こったとしても、前を向いて歩いて行けるのかも知れません。

 

 今回、十二年ぶりに、この范雎・蔡沢列伝を読んでみたのですが、その時にはわからなかった全く新しい気づきがたくさんありました。

 范雎の生き方から学んだことを糧にして、日々の感謝を忘れることをなく、これからも精進していこうと思います!!