僕が思うに、この韓信という人は、立派な人物には違いないのですが、少し脇が甘いというか、真面目なのにそれと同時に危うげな部分を持っているというか……
 だからそこに人間臭い親しみを感じたりもします。

 

 しかし、運命というのは皮相なもので、この韓信の危うげな性質が、結局、彼の運命を狂わせてしまうんですね。

 

 今や天下の情勢は変わり、漢の劉邦と楚の項羽との一騎打ちとなりました。しかしながら、以前とは違い、断然漢の方が有利です。

 

 ただし、もしも斉の国の韓信が、劉邦の漢から寝返ったのなら、話は別です。

 

 そんな折、あの悪魔のささやきをする蒯通(かいつう)が、韓信の元へとやってきました。

 

 「手前は昔、人相を見る術を学んだことがあります。お二人だけでお話ししたいので、お人払いを……」

 

 韓信は、二人きりで蒯通の話を聞く事にしました。

 

 「大王様(韓信のこと)のお顔を拝見しますに、位は大名まででございますな。それに危なっかしくて落ち着きません。ところが、大王様のご主君の御顔を拝見しますに、その貴さは言葉には表せませんな」

 

 「それは何をおっしゃりたいのですかな」と韓信。

 

  蒯通は、身を乗り出して言いました。

 

 「今や天下の動向は、漢の劉邦と楚の項羽の二つに分かれています。そして、この二人の君主の運命は大王様の手に握られています。大王様が漢につかれれば漢が勝ち、楚につかれれば楚が勝つでしょう。
 私は腹をうちわり、心の底をお目にかけ、愚かながら方策を献上したいと思います。もし私の計略をお取り上げ下さるのなら、両方を利用し、どちらも存続させ、天下を三分に分け、鼎(かなえ)の足のごとく三者併立させることができます」

 

 まさにこの蒯通の話も、前回の武渉の言葉と同じく「天下三分の計」です。
 もちろん韓信には、劉邦を裏切る気はありません。

 

  「人がわしを親愛と信頼で扱ってくれるのに、それを裏切るのは良いことではない」と言って、蒯通の意見を退けました。

 

 それでも、蒯通はあきらめません。

 

 「大王様は、ご自身では漢王と親しいとお思いのようですが、恐れながらそれは間違いだと思います。災いというのは、過度の欲望から生まれ、人の心は予測しにくいからです。あの張耳(ちょうじ)と陳余(ちんよ)のことを思い出してみて下さい」

 

 韓信は言葉に詰まりました。
 確かに最初、張耳と陳余は「死ぬ時はともに死のう」と言って誓い合っていたほどの仲の良さだったのです。
 ところが結局、二人は憎しみあうこととなり、ついこないだ、張耳と一緒に趙(ちょう)の国を攻め、陳余の首をとったのでした。

 

 蒯通はさらに続けます。

 

 「狩りで獲物を狩り終えれば、猟犬は不要となって、煮て食べられてしまうものなのです。楚の項王が倒されたら、次は大王様の番かも知れません。勇気と智謀がその君主を震え上がらせるものは、身に危険が迫り、功績が天下を覆うものは恩賞にあずかれないと言います」

 

 蒯通の悪魔のささやきも、確かに筋は通っています。このまま主君の劉邦が心変わりしない保証は、どこにもありません。
 韓信の動揺を見てとった蒯通は、今度はほめ殺し作戦に出ました(笑)

 

 「私が大王様の功業を数えてみましょう。大王様は黄河をお渡りになり、魏(ぎ)王を捕え、趙に入り陳余を処刑し、燕をおどかし従え、斉を平定され、楚の軍二十万を破り、漢王様にご報告されました。
 功績は天下に比類なく、智謀は世にまれ、とはこのことです。大王様の名声は、すでに天下になりひびいているのですぞ」

 

 どんなに謙虚なつもりでも、こういう言葉を聞いていると、おかしくもなります。

 

 蒯通はこの後もしつこく、劉邦から寝返って独立することを進言しましたが、韓信は話は聞くも、やっぱり蒯通の献策を取り上げることはありませんでした。

 

 仕方なく蒯通は、自分の身に危険が及ぶのを怖れ、気がふれたフリをして、韓信の元から去って行きました。

 

 とはいえ、韓信の心の中はすっかり悪魔の毒が浸透してしまったようです。
 そして、この毒により最後は身を滅ぼしてしまうことになるのです。

 

 (2013/04/09パリブログ「項羽と劉邦と……」をリメイク)