この三英傑のお話を最後に締めくくるのは、もちろん徳川家康です。
先日、高野山に行った時、徳川総家菩提寺である蓮花院にご縁をいただいて、宿泊させていただきました。
(2023/12/8ブログ「徳川家の菩提寺」参照)
ご住職と二人きりで、心ゆくまで朝のお勤めに参加させていただいたり、秘仏の家康公の木造を拝観させていただいたりしたのですが、その時に目に入った徳川家関連のお位牌の数は膨大な数でした。
ここに祀られている、ほぼ全ての御位牌が、家康の子孫なんですね!!
お江の方や久松松平家など、一部の御位牌を除いて……
この中には名君もいれば暗君もいたのでしょうが、江戸時代にはそれなりにこの国に影響力を持っていた人たちばかりです。
徳川家康は戦乱の世を終わらせて、平和な260年の江戸時代を築き上げるという偉業を成し遂げました。
もちろんそれは家康だけの力ではなくて、家康を支えた忠臣や数多くの家康の理解者がいたからこそ、できた話なのは言うまでもありません。
今日も、12年前のパリブログからの過去ブログ……
いよいよ三英傑のお話の締めくくりです。
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三英傑の話も、いよいよ今日が最後です。
この三人の天下の持ち回りのことを、餅(もち)にかけあわせて、
「天才である織田(信長のこと)が餅をついて、才人である羽柴(秀吉のこと)がこねて作り上げた天下餅を、何もせず座って食べたのは凡人の徳川(家康のこと)だった」
などと、言われたりすることがあります。
何か、家康だけ損な役回りをさせられていますが、まあ、一番おいしい所をいただけたことは確かですし、こんな風に皮肉られても、仕方がないのかも知れません。
それにしても「凡人」って……
頭の良さということでいえば、家康は信長を上回るくらいの冷静な知恵が回った人です。
この人は物事にソツがありません。いわゆる学校の優等生タイプです。
信長や秀吉というのは、たたき上げの創業者タイプですが、家康は明らかに官僚型ですね。
だから面白みがなくてつまらないし、こういった面で家康が嫌いな人もいっぱいいます。
物事の本質をつくようなことを言って、周囲を感心させることも多かったにもかかわらず、独特の要領の悪さやバカ正直な真面目さが、凡庸っぽいイメージを与えているのだと思います。
しかもそれによって、結果的に得をしてしまうので、腹黒いイメージさえ持たれることもあります。
家康の行動パターンの最もたる特徴は「損をする生き方」を見事に実践していた所にあります。
その傾向は、幼少の頃からありました。
13歳の頃、駿河の国で今川義元の人質になっていた時の話です。
墓参という名目で、義元から一時的に本国である三河の岡崎城へ帰参を許されたことがありました。
岡崎城は先祖代々からの松平家(のちの徳川家)の持ち城、いわば自分の城です。
ところが家康は、岡崎城に入っても、本丸へは決して上がろうとせず、ずっと二の丸で過ごしたのです。
「元信(家康)は未熟者ゆえ、二の丸にとどまりたいと思います」
この家康の発言を聞いた今川義元は、
「松平元信(家康のこと)は未熟者なものか、何とまあ思慮深い人物だ。大人になったら、どんな素晴らしい人物になるか計り知れない」
と、周囲の者につぶやいたそうです。
一般的に、家康は今川義元から人質としてぞんざいに扱われていたみたいに思われていますが、それは必ずしも正しいとは言えません。
(例えば孕石元泰(はらみいもんど)のような義元の家臣から、ぞんざいに扱われたことは事実ですが……)
あまり知られていませんが、今川義元が桶狭間(おけはざま)の合戦により、織田信長に命を奪われると、家康は今川義元の弔い合戦と称して、織田の城を必死になって攻めたてていました。
「今川殿の恩義に報いるために戦わねばならぬ」とか言いながら、懸命に織田陣営の城を攻め落とそうとしていたのです。
今川義元の息子である氏真(うじざね)をはじめ、誰一人弔い合戦などする気もなかったのに……
結果的に家康が三河で独立したのは、今川氏真があまりにも無能だったからです。
後年、豊臣秀吉の天下となって、江戸に領国が移ってからも、東海道を通って桶狭間に立ち寄った際には、家康は必ず義元の墓前に立ち寄って手を合わせたと言います。
そして家臣にも、同じことをするように指示していました。
歴史に If(イフ)などないのですが、仮に桶狭間の奇襲が成功せず、今川義元が京に上洛して、早々と天下を取っていたら、やっぱり家康はそのNo.2ぐらいにはなっていたでしょう。
仮に信長という存在がなくても、家康という人物は天下に君臨する定めだったに違いありません。
元々生まれながらにして、そういう素養を持っていますから……
これは、豊臣秀吉に関しても同じことが言えると思います。
家康は子供の頃から、「史記」とか「易経」とか小難しい本をいっぱい読んでいました。
この家康の「損をする生き方」は、多分「易経」を読んでいた影響によるものではないかと思うのですが、この後も、天下を目の前にするまでずっと、この家康のスタイルは続きます。
姉川の合戦で、織田信長と連合を組んで浅井軍・朝倉軍を相手に戦う時も、信長が珍しく気を遣って、
「三河殿(家康のこと)は二番備え(にばんぞなえ/戦況が不利になった時に出向く予備軍)をされよ」
と言っているにもかかわらず、
「それがしはそんなことをする為に、ここへ来たのではありません。敵と正面から戦う為に来たのです」
と言って、自軍の二倍もある兵力の朝倉軍と戦って見事勝利しています。
たまたま勝ったからいいようなものの、普通の人から見たら、かなり馬鹿っぽいです。
信長の指示に従って、二番備えをしていれば、うんと楽ができたのですから……
豊臣秀吉が台頭して諸大名の前で臣従の礼をする際には、これでもかとばかり秀吉の前で低頭しました。さらに、秀吉の陣羽織を所望したいと願い出て、
「今後は殿下に陣羽織を着せて、合戦の指示を取らせるようなことはいたしません」
と誓っています。
家康にとっては、かつての秀吉は朋友・信長の部下だった訳で、普通ならプライドが邪魔して中々ここまではできないと思うのですが、家康にはこういうことができてしまう……
どんな時でも、常に自分を空(くう)にできる強みを家康は持っていました。
家康が本当に「凡人」だったなら、絶対にできないことです。
最晩年、家康は後継者である息子の秀忠に、天下をおさめるにあたっての「訓戒の書」をしたためました。
これは「堪忍」ということについて、書かれたものですが、その中で織田信長と豊臣秀吉のことを記している箇所があります。
「織田殿(信長のこと)は近世の名将にて、人をよく使い分け大きな器にて智勇が優れた人であったけれども、堪忍というものが(十ある内の)七つ八つぐらい破れてしまったゆえに、光秀の件が起こった。
太閤様(秀吉のこと)は、生まれながらの大きな器と智勇があって、堪忍というものがしっかりできていたゆえに、卑賤の身より二十年の内に天下の主にもなられたが、余りにも自信家ゆえ、分限の堪忍というものが破れてしまった。そうなる前はうまくいっていたにもかかわらず、身の程をわきまえなくなってからの万事華麗なまでの過分の知行や、行いや施しは、もはや奢り(おごり)というものである……」
(清水橘村 「家康教訓録」 より)
信長は、十ある内の堪忍の七つ八つが破れていた。
秀吉は、ほぼ完璧だったが、最後になって 「奢り」 というものによって、堪忍の一つが破れてしまった。
「堪忍」などというと古めかしく聞こえますが、「自分を律する」とか「自分に打ち勝つ」とかいった言葉に置き換えるとわかりやすいかも知れません。
戦国の最後の覇者・徳川家康の言葉は、実際に苦労してきた人だけに、やはり重みがあります。
占星術師アラン・レオは、未来というものは、その人の持っている性格や考え方の中にある素養によって、決まってしまうと言います。
信長も秀吉も家康も、やっぱりそれぞれがああいう人生を歩むのは、大方決まっていたと思うんです。
逆にいえば、性格や考え方といった心の中の素養を磨いて、より素晴しいものに変えていけば、人生はどれだけでもレベルアップさせていくことができると言えます。
可能性に満たされたこの世界に生を受けている今、三英傑に負けることなく、精一杯やれるだけのことをやってみようと思いました。
(2012/7/30パリブログ「堪忍を全うした偉人」をリメイク)