誰かの弱さに寄り添うための強さを | ほんさんブログ

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㈱Snailtrack(朝日新聞販売店 ASA淡路・豊里)社長のほんさんが、「新聞販売店と学びの日々、ときどき子育て」を綴ります。

 

 

最近よく考えるんですが、僕は社会に出てからずっと「自己責任論」を植え付けられてきたし人にも植え付けてきました。

 

 

 

「他責になったら終わり」

「矢印が自分に向いていない人間と仕事をするな」

 

とか。

 

 

それは今でも間違っていないと思ってるんですが、でも「今現在弱ってる人」や「社会的弱者」と呼ばれる(のは嫌だろうけど客観的にそういう)人たちに対してその言葉を使うのは悪だし、違和感しかないですよね。

 

 

 

「置かれた場所で咲きなさい」

 

という教育もたくさん受けてきました。

 

 

「環境問題や世界的な課題、政治や他の業界、他社や他部署のことを考える暇があったら自分が目の前の仕事で最大限成果を出すことに集中せよ」

 

みたいな文脈でその言葉を使う人が多かった。

 

 

「置かれた場所で咲きなさい」

 

はそのタイトルの著書があるのですが、そこにはこう書かれています。

 

「置かれた場所に不平不満を持ち、他人の出方で幸せになったり不幸になったりしては、私は環境の奴隷でしかない。

人間と生まれたからには、どんなところに置かれても、そこで環境の主人となり自分の花を咲かせようと決心することができました。」

 

 

この精神はとっても大事だと思うのですが、これも先ほどの自己責任論と同じで、「今現在弱ってる人」や「社会的弱者」と呼ばれる(のは嫌だろうけど客観的にそういう)人たちが、壊れてしまうかもしれないのに「その場所で踏ん張れ」みたいな意味で使ってしまったら終わりですよね。
 

 

 

ポジティブな言葉や考え方は「前の向き方」の1つであって、それだけが正解ではないし自分がそう考えることができるから誰かにもそう考えることを押し付けていいものではない。

 

 

というごく「当たり前のこと」を考えられるようになったのは実は最近でしてえーん

 

 

僕は小さな組織でも一応はリーダーなので、強者であらなければならないと思ってたし、誰かを前向きにさせることにやりがいを感じるタイプだったので。

 

 

 

でもね、それが「なんか違うぞ」ってなったのは理由があって、最近はSDGsってワードが流行語大賞を獲ったかのように飛び交い、その流れで誰もが

 

「社会課題解決!」

 

って言うじゃないですか。

 

 

もちろんそういう機運が高まるのは大賛成で僕も言うことあるんですが、「じゃあそれをどうやって進めていく?」みたいな話になった途端、急に自己責任論や「置かれた場所で咲きなさい理論」が出てきたりするんですよ。

 

 

一緒にプロジェクトを進める仲間同士に対してもですが、それよりも例えば「ホームレスや服役経験者の就労支援」とか「生活保護受給家庭」とかの話になると、

 

「でもそれは本人がそうなることを選んだのだから仕方なくない?」

 

みたいな。

 

 

「いやいや、社会課題解決ってつまり弱者救済なんじゃないの?」

「弱者救済するのに自己責任論出したら終わりじゃね?」

 

 

って言うと、

 

「俺も今まで色々あってなんだかんだ苦労もしたけど、こういう努力をして・・」

 

みたいな体験談を話し出す人とかもいて・・・

 

 

勇気を出して、

 

「あなたが強い(もしくは頑張って強くあろうとしている)のはわかったんだけど、じゃあ何のために強くありたいの?」

 

って聞いてみたのだけれど、それには明確な答えがなかったりして。

 

 

 

なんか「日本が生き辛い国になってるのはこういうとこだよなぁ」と。

 

そして何よりつい最近まで自分もほぼ似たような価値観だったし、その価値観の下でがんばってこれた側面もあるという事実に、間違った「キリトリ方」で植え付けられてきたことへの根深さに怖さを覚えたというか。

 

 

もちろん「強い人」や「強くあろうとする人」には今でもガンガン強い言葉使ったりするんですが、でもそこの見極めをしっかりできないと知らない間に人を追い詰めてることもあるだろうな・・と、帰りに1人反省会をしました。

 

 

※写真は「一人反省会」のイメージです

 

 

 

 

強くはありたいけど、それは誰かの弱さに寄り添うための強さでありたい。

 

 

時には真面目に、そんなことを思うこともある。