アレクセイ・スルタノフ  悲劇に口づけされた男. 4 | タクトTVのブログ

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「疾風のごとく駆け抜けた人生」
「天才は夭折する」
「すべてにおいてスケールがちがう」「魔人」…、
どんな形容を用いても、この人の真の姿をいい表すことは不可能だと思う。
強いて言うなら、このシリーズのテーマともいうべき「不世出」が、相応しい言葉?
でもまだ、なんか軽い気がする。
この人のすごさを感じてもらうには、まず演奏を見てもらうしかない。
曲はベートーベンのピアノソナタ第23番ヘ短調 op.57 「熱情」の第三楽章のフィナーレ部分。1986年第8回チャイコフスキーコンクールの第1次予選でのライブ演奏だ。


激しい衝動をぶつけるような演奏。怒りにまかせて弾いているようにも見える。
弾いているのはアレクセイ・スルタノフ16歳。青年はなぜ、これほどまでに憤慨しているか…。

ぼくはアレクセイ・スルタノフというピアニストを、ここで紹介したくてしょうがなかった。
「悲劇に口づけされた男」に相応しい人だと思っていたし、なによりもぼくが大好きなピアニストだから。
だからこそ、緊張もしたし、文章にする難しさも感じた。
はたして、この人のすごさをちゃんと伝えることが、ぼくにはできるのか、と。

アレクセイ・スルタノフ(Алексей Файзуллаевич Султанов)
・1969年8月7日、チェリストの父、ヴァイオリニストの母より、旧ソ連で現ウズベキスタンの首都タシケントにて生まれる
・3歳より音楽を開始、6歳よりタマーラ・ポポーヴィチ女史に師事
・1977年5月 7歳にモーツアルトのピアノコンチェルト(ピアノと管弦楽のためのロンド ニ長調 K.382)にてデビュー。9歳時に、ベートーベンピアノ協奏曲第1番を演奏
・1986年 第8回チャイコフスキーコンクール参加。2次予選後、右手小指の怪我のため辞退
・1989年 第8回ヴァン・クライバーンコンクール優勝
・各地でコンサート活動。1991年2月に初来日公演
・1995年 第13回ショパン・コンクール最高位(一位なしの二位)
・1998年 第11回チャイコフスキーコンクール特別賞受賞
・2001年2月 硬膜下血腫にて入院。その後ピアニスト復帰へ向けてリハビリ生活を送る
・2005年6月30日 フォートワースの自宅にて逝去(享年35歳)

1985年のショパンコンクールにソ連代表として参加するはずだったスルタノフ。年齢が15歳であったために17歳以上というコンクール規約に反し、ポーランドのコンクール組織委員会から出場が認められなかった。
結局、ショパンコンクールを制したのは同国代表のスタニスラフ・ブーニン。ブーニンはこれがきっかけで大フィーバーし、ブーニン現象が特に日本で起きた。
もしスルタノフがこのときのショパンコンクールに出ていたら、歴史は変わっていたかもしれないと思うのはぼくだけか。
フィギュアスケートの浅田真央が、圧倒的な実力を持ちながら年齢が規定に達せず、トリノオリンピックに出ることができず、同国の荒川静香が優勝し脚光を浴びたのと、なにか似ている。

前年に悔しい思いをして、やっとつかんだ桧舞台、4年ごとに自国ソ連で催されるチャイコフスキー国際コンクール、その第8回大会。
上記の映像は、その第1次予選でスルタノフが弾いた「熱情」。
じつはスルタノフは致命的な怪我をしていた。直前に右手の小指を骨折していたのだ。理由は、ストレスがたまって壁を叩いたため、と言われている。ただし本人に言わせれば、
「ピアノの蓋に挟んだから」
こんな大事なときに怪我をするなんて。
スルタノフは自分自身に憤慨していたのかもしれない。
でもこれを見る限り、指の負傷など微塵も感じさせずに見事に演奏している。
このときスルタノフ、16歳!
少年のようなあどけなさ。
スルタノフは圧倒的な演奏を披露し第2次予選に進むが、多くのソ連人審査員から辞退するように促され、2次予選演奏終了後に審査員に従い会場を後にする。
スルタノフより2歳年下、旧ソ連時代からの仲良しだった、今では世界最高のピアニストの一人エフゲニー・キーシンは、後にこう言っている。
「そのとき私たちは2人とも子供であり、アレクセイ・スルタノフの名前は、かつてのソ連の音楽家グループでどんどん有名になっていった。私の記憶の中には「途方もない表現力を持った非凡なピアニスト」という思いがある。
 さらにモスクワの第8回チャイコフスキー国際コンクールで、称号受賞者のコンクールを受けなかったにもかかわらず、アリョーシャ(スルタノフのこと)は英雄になったのだ。
2年が過ぎ―フォートワースではヴァン・クライバーン国際コンクールがあり、スルタノフに世界的高名をもたらした…」

1989年5月27日から6月11日までテキサス州のフォートワースで4年に1度行われる、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールの第8回大会に出場した。
今年、辻井伸行氏が日本人として初優勝したことで日本でも一躍脚光を浴びた同コンクールだが、政治的な駆け引きがなく公平に評価することでも有名だ。
世界中から集まった俊英を破り、最年少19歳のスルタノフが圧倒的な結果で優勝。同コンクールのロシア人優勝は初めてというおまけ付き。
Alexei Sultanov, Rachmaninoff Piano Concerto #2, 3rd movement part 2, 1989



スルタノフは19歳で時の人となるが、ここで落とし穴にはまる。
このヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールは、他のコンクールと違ってかなりの数のコンサートが保障される。聞こえはいいが、優勝の条件に、契約として多くのコンサートを強いられる。
キャリアアップと莫大な収入が約束されるわけだが、それがいつまで続くかわからず、結果的には使い捨て。
アメリカらしいと言えばそうかもしれない。
それを今後待っているであろう辻井伸行氏に危惧するのは、ぼくぐらいなものだろうけど。
じっさい、名前は出さないが多くのコンクールの覇者が、その後消費され、輝きを失ない、第一線から去っている。これは自然なことで、ヴァン・クライバーン自身もその道程をたどっている。
繰り返す愚行を戒めた先人もいる。1942年生まれのマウリツィオ・ポリーニ。
1960年、18歳で第6回ショパン国際ピアノコンクールに優勝するやいなや、その後10年近く、さらに勉強が必要と自覚し演奏活動を一切しなくなる。直ちに多忙な演奏生活に入ることを避けたことが、ポリーニを息の長い巨匠ピアニストに押し上げたという人も多い。
しかしスルタノフにはそれが許されなかった。なぜなら制したのがヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールだからだ。
クライバーンコンクール優勝ツアーに始まって、次の2年間はめまいがするほどの演奏数、200に及ぶコンサートツアーを消化している。
コンサートの後はトークショー、晩餐会も目白押しで、後援会は瞬く間に巨大化した。
19歳のアイドル。
愛想がよくて、好奇心が強い青年は、長髪で小柄なこともあって、多くの大人が彼の本質である演奏よりも、無邪気で自由な言動に魅せられ、少年のようなキャラクターを追いかけ回した。
スルタノフは1993年までに、クライバーン財団によって完全に管理され、8枚のCDを出し、ファンを獲得した。
そして契約したコンサートをこなし、その後はきれいに独立している。
原点に戻り、スルタノフは研鑽を積む。
2年後の1995年、世界はまたスルタノフを仰ぎ見ることになる。

1995年、スルタノフは5年に1度開催されるピアノコンクールの最高峰、第13回ショパン国際ピアノコンクールにエントリーした。
1989年ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールの覇者、アレクセイ・スルタノフが参加するということで多いに話題になった。
チェルニー・ステファンスカをして「こんな凄い革命は聴いたことがない」と言わせた衝撃的な第1次予選。
第2次予選では、華麗なる大円舞曲の終了後、プログラム中にもかかわらず拍手と歓声がおき、演奏終了後はアンコールで大騒ぎになり、収まるのに15分も要した。
第3次予選、本選と勝ち進み、スルタノフが決勝戦で弾いたショパンのピアノ協奏曲第2番ヘ短調は、コンクール史上最高の名演奏と称えられた。
ワルシャワの"ジチェ・ワルシャヴィ紙"はその模様を、「スルタノフが目ざましく華麗にコーダを弾き終えたとき、ピアニストとして自信をなくした人はひとりやふたりではなかったろう」と報じた。
しかし、コンクールは優勝者を出さなかった。
結果はフランスのフィリップ・ジュジアーノとスルタノフが二位をわかちあうことになった。観衆は大ブーイング。
スルタノフは10月20日の授賞式をボイコットした。
スルタノフのとった行動は、社会的事件として世界中で報じられた。

あれだけ圧巻な演奏をし、優勝まちがいなしと目されたスルタノフが、なぜ審査員に認められなかったのか。
考えられるのは、ショパンコンクールの自国審査員の長老は、ショパンの演奏には規範があって、スルタノフはそれを逸脱していると思ったこと。
スルタノフの超人的なテクニック、想像の範疇を超えた解釈は、歴代の覇者と並べても群を抜いていた。スルタノフはうま過ぎた。
一人歩きをしたスルタノフのショパンに、ワルシャワの聴衆は毒され、伝統を守りたい審査員は怖れた。
スルタノフに冠を与えないことで、権威を守ろうとした。
スルタノフはメッセージを残している。

「Leter form Alexei Sultanov:
I am very sorry, that I am not here tonight! I will be back very soon to play for my belloved people of Warsaw!
Please, understand me, and thnk you very much for your support.
Allways yours!
Alexei 20.10.95」

Alexei Sultanov -Warsawa Recital part.4,Chopin Fantasie Impr


次の映像はその12年後の1998年、スルタノフがじゅうぶんにキャリアを積んで、満に持して再挑戦した第11回チャイコフスキーコンクール。その第2次予選での演奏。曲はプロコフィエフのピアノ・ソナタ第7番「戦争ソナタ」のクライマックス。
特に2分45秒あたりから注目してほしい。
人が神の領域に踏み込んだ瞬間が見えるだろう。



スルタノフのテクニックは、この頃には世界でも比肩できる者はいないレベルに達していた。ただあまりに個性が強く、賛否両論の演奏スタイルは、減点法、消去法のコンクールには不利になるのはしょうがなかった。
なぜ、スルタノフはこの時期になってもコンクールに出続けたのだろう。チャイコフスキーコンクールに再挑戦したのは、なにか忘れ物を取りに行ったのか。
結果、スルタノフは第1次予選を通過者33人中32位で通過した。それは審査委員の評価は非常に高いか低いかの完全に2つに分かれてしまったから。
チャイコフスキーコンクールは、各予選得点を合計する仕組みだから、第1次予選を終わった時点で、スルタノフが本選の場に立つことができないのは明らかだった。
圧倒的な人気を誇るスルタノフが、本選に通過していないことを知った聴衆のブーイングはすさまじかった。荒れ狂う審査結果。
結局コンクール側はこの状況に配慮し、スルタノフに特別賞が送られた。
この映像はすでに本選出場がダメなことがわかっていたスルタノフが、それでも第2次予選で圧倒的な演奏を披露した、プロコフィエフのクライマックスだ。

1999年にスルタノフは、エリザベート王妃国際コンクールに出る。
ショパン、チャイコフスキー、エリザベート王妃と3大コンクールすべてに出たことになる。
結果は第一次予選で予選落ち。
録音はセミファイナルより開始したため、スルタノフの演奏は録音すら残っていない!
個性的すぎる演奏や、選曲ミス(シューベルトはコンクールで弾くには難易度が低いと審査員は判断されやすい)もあるだろうが、審査員もスルタノフの処遇には困っていたのではないか。

あれだけ世界を駆け回ったスルタノフも、この頃にはどんどん演奏活動が減って、忘れ去られる存在になってきた。
しかし最後まで、熱狂的にスルタノフを迎えた国が2つある。
ポーランドと日本だ。
スルタノフも日本に来ることを楽しみにしていたようで、いつもやんちゃで少年のような愛らしい表情は変わらず、日本のテレビゲームやテコンドー、お寿司も大好きだった。
ファンとの交流も大切にし、多くの日本人がスルタノフを愛した。
透明感のある音色の美しさにますます磨きがかかり、作品についての掘り下げも極みの域に達してきて、いよいよ尊敬するホロヴィッツのようになるかと思われた矢先、2001年に脳溢血で倒れる。
スルタノフはあきらめない。
懸命なリハビリをし、左半身麻痺のまま、右手一本で演奏し続けた。
「自分の演奏する姿が、励みになれば…」
その様子はドキュメントになったり、動画でも見ることができた。
しかし2005年6月30日、二度目の脳溢血によりスルタノフは亡くなった。享年35歳。
スルタノフの精神は基金となって生き続けている。

「アレクセイ・スルタノフ基金」- アレクセイの精神 -

【目的】
アレクセイ・スルタノフ基金は、励ましと愛とネバーギブアップの基金です。
基金の使命は、重い病気や怪我で演奏活動や生計を立てることのできなくなった音楽家や演奏家に、金銭面や感情面、心理面での援助を提供することです。
アレクセイ・スルタノフ基金は、このような途轍もない難局に直面した家族を、その苦しい時期を通し愛する人を支え、決して投げ出さず、決してあきらめないようにと、思いやりあふれるケアと援助で励まします。
愛がすべてなのです。結婚式で「誓います」と言った時に、「良い時も悪い時も共に」と一生の約束をしたのです。

【その背景】
アレクセイは彼の35年の人生で多くの人々を動かしました。彼が健康なとき、演奏上の輝く才能は大勢の人の賞賛を得ました。
また彼の激しいピアノへの精進は、全力を尽くして優れた演奏を追求しようと他のピアニスト達を突き動かしたのです。
晩年の二年間は左半身麻痺のため車椅子の上で過ごしました。
身体的障害にもかかわらずアレクセイは、大学や介護施設、病院や診療所や教会で、右手だけでの演奏活動を再開したのです
アレクセイの決してあきらめず、困難を苦にせず、前進し続けようとする決意に人々は驚き、励まされたのです。
彼は演奏によって人々を勇気づけ励ますことで、大きな喜びを見出したのでした。

【奨学金】
アレクセイ・スルタノフ基金は、音楽の勉強を続けるため金銭的援助を必要としている、才能ある若いピアニストに奨学金を提供します。
基金は、アレクセイのように夢を追い、大いなる頂点を極め、人々を感動させようとする彼らを勇気づけるでしょう。
彼の生涯が示すように、目標を達成するために全身全霊を傾けるなら必ず成し遂げることができるのです。ネバーギブアップ!

Alexei Sultanov -Warsawa Recital part.3,Chopin Waltz No.1