室谷信雄  悲劇に口づけされた男. 1 | タクトTVのブログ

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「なんでや、もっとおもろうできるやろ!」
「自分がおもろいと思うんやったら、舞台では先輩も後輩もあるかい、遠慮せんとどんどんいったらんかい! でも、板降りたら礼儀は大事やで」
「そうや、それやがな!それ、わし待っとったんやがな。 よ~し、次はもっと、客を笑かしたろうやないかい!」
自分が絡む舞台は、どんなことをしてもむちゃくちゃおもろうしたる。
あきらめへんで、かかってこんかい、わーれー!

「もう古い」「ワンパターン」「衰退の一途」「誰も見てへん」
そんな悪態をつかれて久しい1980年代初めの吉本新喜劇。
お笑い界が沈んでいるわけではない。その証拠にこの頃は空前絶後の漫才ブームが世を席巻し、一大ムーブメントを起こしている。
オール阪神・巨人、紳助・竜介、ザ・ぼんち、のりお・よしお、太平サブロー・シロー、今いくよ・くるよ、そしてやすしきよし…。
吉本漫才ブームとも言える、その代名詞たちが熱狂的な声援のなかで舞台をせわしなくつとめたあと、いったん緞帳を降ろし、芝居の準備をする。
5分ほどすればブザーが鳴り、場内アナウンスが流れる。
「ただ今より、吉本新喜劇「いつものパターン」を開演いたします。出演は花紀京、岡八郎、原哲男、阿吾十朗、中山美保…」
そして吉本新喜劇のテーマ音楽が流され、緞帳が上がる。
潮が引く。
まさしくそんな表現がピッタリな状態。千人はいたであろうお笑いを見に来た人々は、その数分の間が去り時とばかりにものの見事に帰ってしまった。
「ごっつぁん、おっちゃん、なんぼ?」
「五百万円~」
ドテッと若手団員がこけると、いっしょに落ちたお盆と受身の音だけが花月中に響き渡る。
「客よりも出演者の方が多いんちゃうか…」
入場口では「ただ今割引800円」と書いた札が立てられている。
そんな中でも、いつも気を吐き全力投球する男がいた。
室谷信雄(むろやのぶお)。
異彩を放つその男の独特のおもしろさを世間が気づくのには、あまりにも時間がかかり過ぎた。
昭和21年(1946年)2月11日生まれの室谷が苦労し、座長に登りつめたのが昭和57年。
遅れてきた天才が才能を開花させ、新座長になった室谷信雄。しかし、その3年後には舞台を去ることになるのであった。

1959年3月に梅田花月劇場開場と同時に「吉本ヴァラエティ」として発足した吉本新喜劇。創設者でのちの吉本興業社長になる八田竹男は激を飛ばした。
「うちはとことんくだらなく、バカバカしくやっていく」
なんせ目の前には牙城、松竹新喜劇が燦然とそびえ立っている。同じことをやっても勝ち目はない。
吉本新喜劇よりも11年も前、1948年に中座で産声をあげた松竹新喜劇は、翌年に東証一部に上場する松竹の傘下にあり、役者の層も厚く、大衆演劇や新国劇などの要素もたぶんに採り入れ、分かりやすい筋書きの人情喜劇を売りにしていた。そして1956年頃からは藤山寛美がテレビを介して圧倒的な人気を得ていた。
「向こうが舞台重視なら、こっちは後発部隊、これから必ず来るであろうテレビを念頭におく」
花菱アチャコ、佐々十郎、大村崑、芦屋小雁、中山千夏、森光子、雷門五郎、笑福亭松之助の初期の達者なメンバーには固執せず、八田はあえて舞台経験の少ない、まだ色に染まっていない若い新人をどんどん抜擢していく。また他劇団などからの引き抜きも仕掛けていく。
吉本の「テレビ時代到来」の読みは当たり、梅田花月と毎日放送テレビ(MBS)、難波花月とABCテレビ(朝日放送系)のタイアップはその後、白木みのる&平参平、ルーキー新一&白羽大介、桑原和男&財津一郎、花紀京&岡八郎、原哲男&谷しげる、船場太郎&山田スミ子、木村進&間寛平など名コンビを次々と誕生させていった。
ライバルの松竹新喜劇がほぼ半世紀、1990年に肝硬変で死ぬまで藤山寛美ひとりのワンマン体制、ノースター制を敷いていたのとは好対照の歩みである。
そしてギャグ。「バカバカしく、同じことをずっと繰り返す」と言われる吉本新喜劇のギャグは、ほんとうはかなり練り込まれているのもあり、必ずしも個人技だけではないのだが、それでも身体的特徴、欠点を逆手にとるギャグや、自虐ギャグ、芝居の流れを無視し芸風を前面に押し出すギャグなどは、出演する芸人のキャラクターは定着するが、賛否両論もある。
「イッイッイッイッ」といやらしく笑う木村進、ひたすら笑顔で首を振る淀川五郎、「おじゃましまんにゃわ」で出てくる井上竜夫、「やんのんかい、俺はこう見えても、ピンポンやってたんやぞ、しかも通信教育や」「くっさーっ」の岡八郎、「あーいそがし、いそがし」の谷しげる、「われこ、われこ、いや、これは、これは」の由利謙、舞台の上手から下手へ思いっきり腹ですべって「あつーあつー」の高石太、サラサーテのチゴイネルワイゼンが突如かかり「かみさまー!」と長々と泣き言を言って最後に「ご静聴ありがとうございました」と素に戻り緞帳キッカケを作る桑原和男、「ブルブルブルブル」と唇を震わし首を振る泉ひろし。「いや~ん、いやん」のルーキー新一…。
確かに吉本新喜劇では、ギャグは重要なファクターではあるが、花紀京などは自分が出演する芝居では、他の出演者が意味のないギャグをするのを極端に嫌う。
「太、その腹ですべるの、芝居に関係あるか? やめ」
ギャグを稽古段階で禁止された高石太が陰で一言。
「京やんがおったら、なんもできひん…」
明るさを前面に出し、マンネリズムを具現化していた吉本新喜劇も、毎週土曜日に昼から夕方まで局をずらしながら同じパターンを同じメンバーで湯水のごとく繰り返し流し続ければ、飽きられてくるのは当然。
木村進と間寛平という天才肌がアイドルにはなっても、いっときの起爆材にしかならず、昭和50年頃からは深刻な停滞期に入る。
借金地獄と野球賭博容疑で、座長も含めたかなりの団員が蒸発したり逮捕されたりする。
出演者が高齢になり、体を張ったドタバタコメディよりもシリアスな人情劇を好むようになり、結果劇団の持ち味がなくなり、台本の質的低下が見えてくる。
この頃には関西のファン層でも、好きな新喜劇は吉本派と松竹派に分かれていて、若い人はテレビでよく見る吉本を、劇場に足を運ぶ通の人は満員御礼記録を更新し続ける寛美の松竹を好んでいた。

室谷は浪速高等学校を卒業した後、吉本興業に入る。白木みのる、ルーキー新一に付きながら吉本新喜劇の団員となる。
目だって華があるわけではない。個性があるわけでもない。
室谷が入った頃の新喜劇は、劇団として黄金期を迎え、団員の多くはある程度の地位を築き、室谷が上がっていく隙間はなかった。
いつしかルーティーン化していく毎日。

しかし数年後に入ってくる、年下の天才2人が室谷の運命を変えた。
木村進と間寛平。既成に捉われない2人は、芝居を破壊しかねないパワーで暴れまわる。最初はセリフが一つか二つなのだが、天丼を繰り返し、受け続ける限り遊び続けるので、10日間の舞台が終わる頃には、すっかり2人が芯であるかのような喜劇に変わっていた。
この異端コンビにまず若い子が飛びついた。人気に火がつくと、会社もそれを後押ししたので、2人は一気に若手座長としてスターダムに駆け上がった。
コツコツやってきた室谷が刺激されないわけがない。
後からきた若いもんに抜かれて、黙ってられるかい。しかし自分には華がない。じゃあどうするか。
ここの集団はみんな、自分が、自分がの世界。しかも劇団はもう固まっている。自分はバイプレイヤーになろう。
どんな相手でも受けて絡んでおもしろくしてやろう。相手を輝かせて自分も光る。
誰よりも早く楽屋入りし、率先して楽屋で明るく振舞い笑いをとる。機転を利かして用事をする。先輩の望む準備も怠りなくする。だから先輩の室谷への信頼はすこぶる厚い。
また兄貴肌の室谷は、若手の面倒見がとにかくいい。
「おい、腹減ってへんか? なんか食おうや」
「ありがとうございます。ではすうどんを…」
「お~い、みんな、こいつ、すうどん食うてまっせ~!」と大きな声で楽屋に響き渡らせ、「先輩が出したる言うときは遠慮すな。同じもん食うたらええんや!」
芝居をどうすれば、もっとおもしろくなるか朝まで論議する。
楽屋で相手との間合いを作り上げ、信頼しあって、おもろいやりとりを舞台にかける。舞台でも自然と室谷の暖かい人間性が滲み出て、客にも伝わっていく。
昭和54年に室谷は副座長になる。ここまでくれば、かなり自由が利く。
テレビ番組『モーレツ!!しごき教室』にレギュラー出演し、『あっちこっち丁稚』では小番頭の役で人気を博する。
「この頭、たたりやたたり、たまねぎの食いすぎのたたりや。泉佐野のたまねぎの食いすぎや~」
「ごちゃごちゃ言うとったら、しゃーきまっそー、わ~れ~」
しゃーきまっそーとは、しばきまわすぞの意味。
トイレや流しが詰まった時に使う吸盤を、禿げぎみの頭にくっ付けるギャグで、吉本に禿げキャラを浸透させ定着させたのも室谷。その流れは中川一美(今は九州で寿一実)に引き継がれていく。
室谷はギャグはするが、けっして芝居を壊さない。
「汗水たらして、一生懸命しょうもないことをやるから、人間はおもろくなるんや」
3年後に座長になるのは当然の流れだった。
座長になってからの室谷はますます冴え渡った。
芝居全体を見渡し、最後の最後までもっとおもしろくできないかをギリギリまで模索し続ける。
室谷の出る芝居はとにかくおもしろい。室谷が絡むとどんな芝居でも、むちゃくちゃおもしろくなっていく。
「あきらめない室谷」の評判は、いつしか人気凋落の吉本新喜劇でも室谷が出るならとそれ目当てに客が集まるようになる。団員もみんな室谷との共演を望み、作家は新しいアイディアを提供した。
よく喜劇役者がバラエティやトーク番組に出るとおもしろくないと言う人がいる。それは当然。トーク番組で活躍するタレントは、破壊するセンス、アドリブを利かせることを日頃から磨いている。しかし役者は基本、裏切らない。構築しながらおもしろさを追求し、客に受けた感覚を自分の身に染み込ませ、何度も同じ間合いで引き出すことができるようにする。
セリフの行間に、いかにおもしろい宇宙があるかを発見し形にすることが業の喜劇役者。
室谷は芸人か喜劇役者かと聞かれれば、後者だと言えるのではないか。

ある日、異変が起きた。
最初は酒焼けかなと思っていた室谷の喉が、どうも調子がおかしい。
ざらざらした声、声がれがいつまでたっても治らない。そのうちに喉に異物感が出てくる。なんか食べると、物を飲み込んだときに痛みが走り、イガイガするかんじが取れない。
結果、咽頭癌。
ぎりぎりまで症状を甘くみ、舞台に立ち続けようとしたことが不治にした。
それまで病気で新喜劇を休演することなど一度も無かった室谷。1985年に声帯を切除する手術を行った。そのため声が出にくくなり、ついに引退した。
いくつかの目撃情報はあるが、目立つことを極端に嫌う室谷の現在を知る人は少ない。

「ほんま、ええ人やった。素晴らしい喜劇人やった…」
室谷信雄を知る人は、みんなそう言う。
「一番尊敬している先輩はクロ兄さん(室谷信雄さん)」
何人もの新喜劇の後輩は断言している。
こんなにも先輩からかわいがられ、同期から信頼され、後輩から慕われ、お客から愛された室谷信雄。
つねに全力投球、声をめいいっぱい出し続けた室谷は、今もどこかで声を枯らしながら言っているかもしれない。
「甘えたことぬかしよったら、しゃーきまっそー、わ~れ~」


※登場する人たちは大先輩ばかりなのですが、敬称は省かさせていただきました。ご了承ください。
「悲劇に口づけされた男」シリーズは、それぞれのジャンルで不運がなければ天下を取っていたかもしれない不世出の人たちを、ぼくの好みで取り上げてみました。
写真は昭和61年にぼくが出た新喜劇の台本。ちょうど室谷さんが辞められた後で、共演できずすごく残念でした。出演者の名前の最後に、ぼくが本名の好田誠一で出ているでしょう。