改めて「されこうべ」のこと① | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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今回は拙著『黄蝶舞う』所収の

「されこうべ」という一編について

 

 

本編が扱っているのは

頼朝の死なので

 

やや今さら感が

なくもないのですけれど、

 

なんか六月は忙しかったんですよね。

 

九月刊の本の最初の山場が来たり

インタビュー記事の翻訳があったりと

 

なかなかいろいろ落ち着かず。

 

ああ、きっちり半分で、

大泉頼朝の出番を

終わらせるんだなあ、などとは

思いながら観ていたのですが。

 

あ、もちろん『鎌倉殿の13人』の話です。

 

 

さて、では「されこうべ」です。

 

前回の更新でも書きました通り、

本作は収録全五編のうち

 

「空蝉」を書き下ろす直前、

すなわち最後から二番目に書きました。

 

いよいよ満を持して

頼朝の死に挑んでやるぞ、

 

みたいな気持ちは

なくもなかったかもしれない。

 

以下、ネタばれについては

ギリギリ回避するくらいの

匙加減で書くつもりですので念のため。

 

読んでからの方がいいや、という方は

上に戻ってリンク先に飛んで

ポチってください。喜びます。

 

 

さて、この短編の眼目というか

狙いみたいなものは二つあります。

 

一つ目は、

頼朝がまさに死ぬ場面を描くこと。

 

作中にも書いてある通り、

頼朝の死については

 

同時代のもっとも基本の史料である

『吾妻鏡』にも記載がありません。

 

厳密にいうと、当該期間については

写本が欠落して現存していない。

 

ですから、逆に僕らの立場からすると

むしろ多少好き勝手に書いても

割りと大丈夫、ということになります。

 

それでまあ、あそこまで

やっちゃったわけですね。

 

いずれ注意すべきは幾つかの

同時代人による日記の記載との

齟齬の有無くらいなわけですから。

 

しかもこの日記というのが

『玉葉』ですらなかったりする。

 

そのうえこの日記によって

頼朝の死とされている日付が

 

清盛が一番最初に

頼朝の処刑を予定していた日付と

まったく同じであると気づいた時には

 

ほとんど喝采を上げたくなりました。

 

あれはだから、史料的には本当なんです。

 

本当に本当かどうかは

もちろん誰にもわからないわけですが。

 

ちなみにこの問題の公家の日記というのは、

『猪熊関白記』というのですが、

 

その信頼性がどれほどのものかは

置いておくとして、

 

自分の着想が裏打ちされたような

手応えだったわけですよ。

 

すなわち「されこうべ」作中での頼朝の死は

清盛の怨霊によってもたらされているのです。

 

もっと有り体にいってしまえば、“祟り”。

 

これがですから、

先般ツイッターの方で

『黄蝶舞う』の全体は

横溝正史作品の影響下に

成立していると申上げた由縁です。

 

 

そして二つ目の狙いというのが、

問題の『吾妻鏡』の欠落に対し

一つの解釈を提示することでした。

 

後代のある人物が、

意図的に抹殺したのではないか、

というものです。

 

こちらも作中にも書いてある通り、

元ネタというのがいいのか、

 

林羅山がその可能性を

指摘しているという記載を

どこかで読んでいたので

 

それをまあ、物語的に

場面にしてみようというつもりでした。

 

 

さて、ところがこうなると

困ったことが起きるわけです。

 

というのも、問題の『吾妻鏡』の

当該箇所の写本が

燃やされていく場面を描くということは

 

作中で時間が一気に飛ぶというか、

全然異質な時間軸を

一編の中に共存させるということになる。

 

いや、そんなことをいえば、

『君の名残を』であれば

 

作中で八〇〇年もの時間が

流れてしまっているわけですが、

 

しかしながら今回やろうとしているのは

150枚程度の、短編に近い中編です。

 

この違和感をなるべく薄くするには、

あえて語り手の存在を

強く打ち出しておくのが一番いい。

 

そこであの、落語でいう枕のような

冒頭の箇所が出てくるわけですね。

 

章立てもなしに冒頭から

文庫本にして16ページも続く

この前段は

 

さすがに小説の文章とはいいがたい。

 

発話もなければ、感情描写も排してある。

登場人物さえ、本当の意味ではいない。

 

むしろ論文の形式に近い。

 

ですがこのパートの存在によって

読み手には、

作品の外に存在する書き手というものが

強力にインプットされるわけです。

 

それゆえ、ラストのある城での場面が

唐突に出てくることも許容範囲になる。

 

一応意図としては、

そんな感じで設計しています。

 

そしてまあ、こういうスタイルを

最初にもってくるのであれば、

 

必要な背景的情報はここで

極力全部提示してしまおう、

ということになりました。

 

清盛と頼朝の因縁、

文覚とのそれ、

それから真言立川流の存在ですね。

 

こうした、いわば

外枠の仕掛けを処理したうえで、

 

いよいよ僕は、僕なりの頼朝の死を

描き始めたわけです。

 

その本編についても、

こういう機会に

書いておきたいことならば

 

まだけっこうどころでなくあるのですが

もう大分長くなったので次回といたします。

 

だけどまあ「されこうべ」の冒頭が

こういう具合になったので、

これが書籍の巻頭では

あまりによろしくないなと思い

 

急遽「空蝉」を書き起こしたことは

この場で触れておくべきでしょう。

 

あちらが最低限の説明を交えながら

基本は小説的場面の方に

重きを置くように書かれているのは、

 

実はそう言った兼ね合いです。

 

 

それにしてもまあ、小池さんが

近頃悪夢ばかり見るというのも

なんだかつい納得してしまう。

 

 

『デイジー』も『ライブラリー』も

ここで取り上げたいとは思いつつも、

いっかな捗らぬままでおります。

 

関係各所には面目ないです。

 

新規に訳し始めている本もあり、

ちょっと新しい仕事の方法の

模索を始めつつあったりと、

 

なんか、いろいろ

とにかく押し気味のこの頃です。

 

でもそれはたぶん、本当に

ありがたいことなんだと思っています。