ブログラジオ ♯185 I Always Love You | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

さて今週は
ホイットニー・ヒューストンである。

ザ・グレイテスト・ヒッツ/ホイットニー・ヒューストン

¥3,600
Amazon.co.jp

しかし気がつけば、
あの突然の訃報から
いつのまにかもうすでに
五年余りもが過ぎている。

マイケルの事故の余韻が
まだすっかりは
消え去らぬうちだったから、

唖然としたし、またかと思った。

今となってはもう
あちらにたぶんあるはずの
そういった場所で

心安らかであられることを
祈るしか術はないのだけれど、

どうにもことは
すぐさまそう簡単には
運んでくれないようでもある。

この点については
今回のテキストの最後の方で
多少ながら触れることにする。


さて、80年代に入って以降、
この方ほど圧倒的で
強烈なデビューを飾った方は

たぶんいないのでは
なかろうかと思われる。


たちまちにしてスターダムに
駆け上がってしまったという
そんな印象であった。

なんとなく名前が
耳に入り始めたところで

Saving All My Love for Youが
じわじわとあちこちで聴こえ始め、

あれよあれよという間に
一位にまで昇り詰めてしまった。

しかもこれが決して
派手な曲ではなかったのである。


割とオーソドックスな
甘めのロッカ・バラードで

なんとなくどこかで
聴いたことが
あるようなないようなとでも
いった感じの手触りであった。

ただヴォーカルと
サックスの不思議な絡み方と

それから中盤から
終盤にかけての

盛り上がり方には確かに
はっとさせられるものがあった。

ちなみにこの曲、
そもそもは78年の
マイナー・ヒットなのだそうで、

前回のダイアナ・ロス(♯184)の
Theme from Mahoganyと

同じソングライター・チームの
手によるものなのだそう。

それをピックアップして、
この新人ホイットニーに歌わせ、

ある意味では新たな
スタンダードにしてしまう。


こういうのを
プロデュースの妙とでも
呼ぶべきなのだと思う。


さて、このホイットニーを
見出したのが
当時のアリスタの社長であった

クライヴ・デイヴィスという
人物であったことは
たぶん有名な話であろう。

この方、まずは
法律顧問として就任した
コロンビア・レコードで、

いつしか社長に抜擢されて
以来どっぷりと音楽の業界に
足を踏み入れてしまったという


まあなかなかにめずらしい
経歴の持ち主であったりする。

ちょうど60年代の終わりから
70年代の開幕の時期のことで、

同社のカタログを
ロックというか
ポピュラー・ミュージック中心へと

切り替えていくその舵を
先頭に立って切ったのが
この方だったのである。

今となっては当たり前だが
ビートルズ(♯2)以前の時代には

レコード会社の売り上げの
柱となっていたのはほぼ
クラシックだったはずである。

その状況を変えていく
決断をした一人が
この方だったという訳である。

だからそういう意味では
ボブ・ディランもあるいは
スプリングスティーン(♯146)も、

このディヴィスがいなければ
今のようなポジションに
いることになったかどうかは

ひょっとして疑問符を
つけざるを得ないかも
知れないのだということになる。


その証拠という訳でもないが、
彼はすでに前世紀のうちに
ロックの殿堂入りまで
果たしているという大物なのである。

ところがこのディヴィスは
73年に横領を告発され
突然コロンビアを解雇される。

当時は結構な
スキャンダルとなったらしいのだが、

おそらく背景には
社内の内紛が
あったのだろうと思われる。

ただ、すでにもう十分な
実績のあった彼には
すぐに別の会社から声がかかり、


彼の次の職場となった
このベルというレーベルが

社名を改める形で成立したのが
アリスタ・レコードであった。


さて、一方のホイットニーだが、
彼女の母親がやはりシンガーで、

幼少から彼女には
歌うことを教えていたそうである。

11歳の時にはもう
教会のコーラス隊で
ソロを取るようなこともしており、

また同時期頃からと思われるが、
母親のツアーというか

営業の舞台に一緒に立つことも
すでに始めていたそうである。

14か15の頃にはもう、
エレクトラなどからの

レコーディング契約の
オファーもあったらしいのだが、

本人が高校を出るまではと、
母親がこれをすべて
固辞していたのだそうである。


それでもチャカ・カーンを初め
幾つかのレコーディングに

バック・コーラスとして
参加する機会は
この頃には得ていた模様である。

そして83年、
彼女が二十歳になろうかという時、

ニューヨークのナイトクラブで
母親と一緒にステージに立つ
彼女を見た当時のアリスタの
A&Rの一人がこれに感銘を受け、

社長のデイヴィスを説き伏せて、
彼にもこのステージを
見させたところ、


彼もまたただちに
ワールドワイドの契約を
親娘に申し出て、

いよいよホイットニーも
これにサインしたという
次第であったらしい。

デイヴィスはこの夜の
彼女の声について、

すでに驚くべき美しさを
備えていたと形容している。


この直後彼は、
ホイットニーを伴って、

とあるテレビ番組に出演し、
まず自ら全米に彼女を紹介する。

早速社長自身が真っ先に
陣頭に立ったという形であろう。

しかしながらそれからディヴィスは
ファースト・アルバムの発売までに、

慎重というか、むしろ十分な
時間をかけて臨むのである。

今にして振り返ってみると、
確かに実に
いろいろなことをやっている。


アリスタではまず、
テディ・ペンダーグラスという
男性歌手とのデュエットで

84年に一枚のシングルを
リリースすることから着手する。

もちろんこれは
アルバムをリリースする前に

ある程度名前を
浸透させておくための
方策の一つだったのであろう。

これはまるっきり
余計な話になるけれど、


ドリフの「ヒゲのテーマ」の
元歌を歌っていたのが
このペンダーグラスであった。

それから、ホイットニーの
デビュー・シングルも

実はアメリカとヨーロッパでは
曲を変えていたりもする。

しかもヨーロッパではさらに
国によって異なる

二種類のデビュー曲が
存在しているらしい。

いや、率直にいって
さすが社長の肝煎りだなあと
まあそんなふうに思った。

普通の新人の扱いでは決してない。

そして、これだけの施策が
たぶん功を奏したと
いってしまっていいのだろうが、

だから前述のSaving~の
一位獲得という形に
見事結実したという訳である。

そしてそこからの進撃がまた
たとえようもなく凄かった。


このSaving~を皮切りに
ホイットニーは
全米のシングルチャートで

実に七曲連続の
トップワン・ヒットを
記録してしまうのである。

これは当時ビートルズ(♯2)と
ビージーズ(♯129)が
分け合っていた

六曲連続という記録を
塗り替えるものであり、
未だに破られてはいない。

しかもこれが、
デビューアルバムから三曲、


その次から四曲という
内訳なのである。

つまりセカンド・アルバムも
周到に準備しただろうデビュー作に

勝るとも劣らぬほど充実した
内容だったということである。

さすがにこの第二作からの
五枚目のカットは
一位こそ逃してしまうけれど、
それでもトップテン入りは果たし、

続いたサード・アルバムからも
二曲が一位にまで昇り詰める。

ここまでですでに
トップワン・ヒットが
9曲を数えている。

この前紹介したばかりの
Lリッチー(♯183)の実績さえ
たちまち霞んでしまうではないか。

そしてこの辺りまでが
ちょうど90年代に
入ったばかりまでの出来事となる。

80年代後半の
アメリカのシーンは
彼女に席巻されていたと
いってしまっていいだろう。

しかし、神話はまだまだ終わらない。


史上最高といわれる
あの国歌斉唱を挟んで、

92年にはいよいよ
今回の表題にした

I Always Love Youが
登場してくるのである。

いまさらいうまでもないが、
これは本人も出た映画
『ボディーガード』の主題歌で、

そのサントラへの
収録という形になったのだが、


本当に目を見張るほどの
大ヒットとなった。

とにかく全世界で売れに売れた。

たぶん今でも
記録は破られていないはずだが、

女性シンガーによるシングルで
史上最も売れた一枚となっている。

サントラそのものもまた
この大ヒットに引っ張られて
やっぱり飛ぶように売れ、

同年のビルボードの
アルバム年間チャートで
見事一位に輝いている。

デビュー作もまた
同じ記録を残していたものだから、

これによりホイットニーは
女性では史上唯一アルバムでの、

年間チャート制覇を
二度果たした
アーティストともなっている。

この記録を越えているのは
エルトン・ジョン(♯5
唯一人であるらしい。


そしてこのサントラ、
本邦でもやはり
ものすごい勢いで売れたのである。

98年にマライア・キャリーの
ベスト・アルバムに抜かれるまで、

こちらもまた、
本邦で史上最も売れた
洋楽アルバムの座に
君臨していたものだった。

時代も時代だったけれど
当時僕自身も業界にいて

洋楽のアルバムが
こんなに売れることがあるのだと


唖然とするやら嬉しいやら
そういう不思議な感動さえ
分けていただいたものである。


さて、なんか思わずここまでは
数字ばかりが続いたような
様相になってしまったけれど、

とにかくこれほどまでに彼女が
人々を魅了した一番の要因は

ディヴィスが最初にいったように
やはりその声と
それから歌い方だったことは
断言してかまわないだろう。

迫力があり、しかも十分に
感情表現に富んでいる。

前回のダイアナ・ロス(♯184)には
なんとなく使い難いとまで
いってしまっているから

すぐにこの言葉を使うと、
なんだかどこかに
角が立ちそうでもあるのだが、

まさにディーヴァという言葉で
呼びたくなってくるのである。

こういう歌唱法をきちんと
自分のものにしている
シンガーというのは
実はなかなか見つかってはこない。

名前が挙がるのはまず
アレサ・フランクリンであろう。


実際ホイットニーについては
彼女との比較の文脈で
語られることがしばしばだった。

それからこちらは白人だが
ジャニス・ジョプリンにも
こういう種類の迫力があった。

少し時代を下ると
ユーリズミクス(♯26)の
アン・レノックス、

ハート(♯145)の
アン・ウィルソン辺りには、
似たパワーを感じないでもない。

近年ではおそらくアデルが
この系譜に連なってくるの
かもしれないなと
なんとなく思ってはいるのだが、


でもどうやらその辺りで
数える指が
ほぼ止まってしまうのである。

いや、僕の勉強不足だったら
実に申し訳ないのだが。

いずれにせよこの方が
80年代という時代に燦然と輝く

一つのイコンであったことは
異論を差し挟む余地はないだろう。

そんな彼女に
So Emotionalなんて
タイトルの曲を歌わせた

デイヴィスの含み笑いが
今にも目の前に
浮かんできそうである。


では締めの小ネタにいく。

いやしかし、今回ばかりは
トリビアとかネタという言葉が
全然相応しくない気もする。

実をいうと、
あまり自分でも文字にして
留めてしまいたくない種類の
内容を拾ってしまったのである。

正直気持ちのいい話ではない。


だったら触れなければ
いいのかもしれないが、

でもそれはそれで
ちょっと違うような気もして
やはり扱うことにした。


さて、このホイットニーには
ボビー・ブラウンとの間に、

ボビー・クリスティーナという
娘さんがいたのだけれど、

いや、ここですでに過去形で
書かなければならない時点でもう
なんともやるせないのだけれど、


実はこの方までもが、
母親の死からわずか三年後
一昨年の15年に

鬼籍に入られてしまって
いるのである。

享年22歳ということになる。

ジョージア州の自宅で
まるで母親の
最期と同じようにして、

バスタブの中で意識不明に
なっていたのを発見され、

その後半年余りをほぼ
昏睡状態のままで過ごした後、

ついには同年七月に
息を引き取られてしまったらしい。

ここから先、どう書いても、
なんとなく差別的に
なってしまいかねないのだが、

実はホイットニーの
家族というか、

これを家庭と称するのが
正しいのかどうかすら
正直よくわからないのだが、


とにかくそういうのは
ちょっと複雑というか、

普通ではやはり
有り得ないことだろうと
僕にはそう思われるのだけれど、

この彼らの家には養子的な存在が
一緒に暮らしていたのだそうである。

的、とここで
書かなければならないのは、

幼少から引き取って
養育こそしていたようなのだが、


この彼に関して
養子縁組といった類いの
法的に正式な手続きは

まったく為されて
いなかった模様なのである。

そしてホイットニー本人が
ああいうことになってしまえば
当然遺産というものが発生する。

しかもそれは
まさに莫大なのである。

ところがこの彼にはだから、
法的にはどんな権利も
なかったということになるのである。


もし唯一手段があるとするなら、
たぶん兄妹同然に育ってきた
このクリスティーナと

婚姻関係を結ぶくらいしか
あり得ないのである。

実際ホイットニーの死後、
二人は婚約を発表してもいる。

だから事故当時も彼らは当然
一緒に暮らしていたのである。

しかもこの二人が二人とも
両親の影響もあってだろうが

薬物の使用も
かなり頻繁だったらしい。

常用といって
差し支えないのでは
なかろうかとも思われる。


本当のところは何がどうなって
上のような事態になったのかは
正直ここからでは断定できない。

警察の発表では死因はどうやら
やっぱり母親とほとんど同じ

薬物の影響下による
溺死ということになったらしい。


ただ発見時、
頭部に挫傷があったという記述も
どこかで見た気もするのである。

――。

二十代の前半なんて正直
まだまだ若造といおうか
ほとんど子供のうちであろう。

環境を考え合わせれば
どうしたって
この二人の二人ともに

正常な判断力など
発揮できたようにも思えない。


お互い相手のどんな言葉にも
打算を疑わなければ
ならなかったといった状況が
あるいはあったのかもしれないし、

そもそも自分たち自身にも
何が本当かなんて
わかっていなかったに違いない。

そういうものがすべて重なって
結果としてこういう
取り返しのつかない事態に

繋がってしまったのでは
なかったろうかと

どうしてもそんなふうに
考えられてしまうのである。


このクリスティーナの死後、
ボビー・ブラウンはこの青年を
民事刑事の両方で訴えている。

しかしながら勝訴したのは
民事の方だけだったらしいので、
やはり真相は闇の中である。

なんだか誰も彼もが
可哀想で仕方がない。

何よりもホイットニー本人が
家族にこの青年を
加えてしまったことを

あちらで悔やんではいまいかと
そんな気がして仕方がないのである。


もちろんこういった一切もまた
外野からの勝手な
コメントに過ぎないので念のため。

事実がわからない以上は、
この青年を非難も擁護も
迂闊にはできないと思う。

ただ彼がこの悲劇に
一切の責任がないとは
絶対にいえないと思うのである。

栄光の代償というには
あまりになんだか、嘆かわしい。


で、まあ実をいうと、
本企画がアメリカ編に
突入してから


今回でちょうど
50回目だったりしたりする。

だから本当は
もう少しはしゃごうかなと

最初のうちは
思わないでもなかったのだが、

この事件の記述に目を通し、
とてもそんな気分では
なくなってしまった。

しかもよくよく考えると、
今日は僕自身の


51回目の誕生日だったりも
するのである。

まあでも、
書いてしまったので
やっぱりいつも通りに
上げることにする。

そんな次第で僕自身
いつもより少しだけ憂鬱な
木曜日になってもいるのだが、

ひょっとしてこの内容に
朝から少なからず
気が滅入ってしまったような方が
もし万が一いらっしゃったら

こればかりは
大変申し訳ありませんでした。

皆様がつつがなくまた
新しい一日を

事故なく過ごされますことを
慎んでお祈り致しております。

僕もまた新しい一年、
淡々と頑張る所存です。