ブログラジオ ♯169 Love in a Vacuum | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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エイミー・マンというのだが、
この曲の当時は

ティル・チューズデイという
ちょっと変わった名前の
バンドを率いて活動していた。

Voices Carry/TIL TUESDAY feat AIMEE MANN

Amazon.co.jp

さて、この彼女については
もうここでもすでに
何度か名前を出している。

映画『アイ・アム・サム』(→こちら)の
サントラのいわば
一つの柱として参加されているし、

確かティル・チューズデイの
バンド名の由来を

ボウイ(♯7他)の時かあるいは
シンプル・マインズ(♯14)を
最初に扱った時に
ちらりと披露しているはずである。

念のため再度記しておくと、
これ、SPACE ODITY以前の

ボウイの楽曲の
タイトルから採られている。

いやはや何とも渋いところから
持ってきたものだと思う。

デラム・レコード時代といえば
わかる人には
わかるかとも思うが、


ボウイの本当の
デビュー・アルバムが

制作された時期の
トラックである。

67年頃の発表であるから、
もしマン自身がリアルタイムで
耳にしていたのだとしたら、

小学生になったばかりか
そのくらいということになろう。

あるいは音楽への興味を
最初に刺激された
トラックだったのかもしれない。


なるほどいわれてみれば、
ストリングスやそれから

グロッケンシュピールみたいな
音色のラインが随所で効いていて
子供には楽しいかもしれない。

最初に聴いた時には僕も、
ボウイってこんな音も
やっていたんだと思った。

そんなにすごい曲かというと
なるほど確かにその点は、
決してそうでもないのだけれど、

それにしても
火曜日までなら愛してるよ、
なんて、

その一節だけでいかにも
ボウイらしいではないか。

この曲を耳にした
幼き日のエイミー・マンが

はたしてどんな思いを
抱いたのかは
もちろん定かではないけれど、

もしボウイ・チルドレンなんて
いい方ができるのだとしたら、

この方はたぶん
その筆頭に挙げられるべき
一人であろう。


もっとも筆頭がまだまだ
たくさんいるだろうことも
また間違いはないのだが。

まあそういった意味でも
個人的には特に、いつぞやの
P.スマイス(♯160)と並んで、

本邦での知名度なり評価なりが
不当に低いと常々考えている

そんなアーティストの
一人だったりする。

だからなるべくいっぱい名前を書く。


今回はエイミー・マンである。


さて、前回のマルティカ(♯168)は
いわば曲の強さだけで、
推しているようなものだったのだが、

うって変わってこの
エイミー・マンの最大の魅力は
アルバムの作り方である。

彼女とそのバンドの
シーンへの登場は
85年の出来事だった。

厳密には別名義のバンドでの
EXTENDED PLAY盤が一枚、
82年にあったらしいのだが、

とにかくまあ、
上のアルバムから

同名のタイトル・トラックが
突然にヒットし、
最高位八位を記録したのである。

この曲のPVの最後の方で、
オペラかなんかの劇場の客席で

突然に立ち上がり、
トラックに合わせて歌い始める
髪の毛つんつんのマンの姿が

非常にシュールで
強烈に印象に残ったものだった。


ちなみに後年マンは自身の
ソロ作品のビデオ・クリップで

このシーンの
パロディーをやったりもしている。

このVoices Carryなる曲が
メロディーも音の作り方も
自分の肌にかなり合ったので、

とりあえずこの人たちは
アルバムもちゃんと
聴いておこうかと、

いつものレンタル屋さんで、
いそいそと上の一枚を


とりあえずは手に
取ってみたという次第であった。

そして針を落とした途端、
飛び出してきたのが、

今回のピック・アップである、
オープニング・トラック、
Love in a Vacuumの

そのイントロの、
あまりにも強烈な
マンの弾くベース・ラインだった。

いい忘れたが、当時は彼女は
それこそスティングみたいに

ベースを弾きながら
ヴォーカルを取っていたのである。

とにかく間違いなくその時まで
これほど雄弁な
ベース・ラインというものは

誰のどんなトラックでも
耳にしたことはなかった。

まるでヴォーカルみたいに
立っている。

それだけでもう
あ、この一枚、
絶対すごいはずだ、と


そんな確信を
抱いたようにも記憶している。

まあ昔のことなんで
少なからず
誇張されてはいるとも思うが、

でも、本作がそんな直感を
最後まで裏切らなかったことは
間違いなく本当である。


改めてこの一枚、
個人的にはそれこそ

カルチャー・クラブ(♯11)の
COLOUR BY NUMBERSや、


シンディー・ローパー(♯142)の
SHE’S SO UNUSUAL、

あるはボス(♯146)の
BORN IN THE USA辺りとだって

並べても十分
拮抗し得るくらいの

そんな、80年代というあの時代が
この世界に産み落としてくれた
名盤の一つだと本気で思っている。

まあもちろん、評価というのは
時代なり市場なりがするものであり、

上で例に引っ張り出してきた
怪物みたい各作品群と
真っ向から比較してしまえば、

セールス的には
さすがにまったくかなわない。

けれどそれは、その後マンが
たどらざるを得なかった、

延々と続く苦難の道と
無関係だともいえないだろう。


有り体にいえば、
レコード会社との関係が
きちんと上手くいっていたなら

たぶんこの人はもっと一気に
ビッグになっていたはずだと思う。

まあとにかく、
アルバムの中身の話に戻ろう。

本当、捨て曲一切なしなのである。

どれもが十分に
シングル・カットにも
耐えられそうなほど、


練り込まれた展開と、
フックになるラインを
必ずといっていいほど有している。

確かにラス前の
Don’t Watch Me Bleedみたいな
重苦しいテーマを

内包しているトラックは、
エアプレイには向かないだろう。

でもそれも、クロージングである
名バラードSleepを
より際立たせるという、

そういう役目を
十分にはたしているのである。

当時のA面とB面の
穏やかな陽と陰のコントラストも

なんとなく感じられるよう、
全曲が配置されている。

とりわけ冒頭二曲の
たたみかけ方は特筆に価する。

アルバムってこうだよなあ、と
そんなふうに感じながら聴いた。

思い起こせば、
佐野さんのSOMEDAY(♭6)から
受け取った種類の衝撃に、


ようやくまた巡り会えたかな、
みたいな手触りだったのかもしれない。

それほどの佳曲揃いだと
断言してしまって
たぶん大丈夫なのだけれど、

でもやっぱり、バンドのというか
エイミー・マンの一番の自信作は、

このLove in a Vacuumだった
はずだろうと思うのである。

でなければ、
開幕には置かないだろうし。


だからこれ、先に
カットしなくちゃダメでしょ。

僕もね、当時ずっと
そう思って見てました。

あるいはこの時のレコード会社は
それこそスプリングスティーンの
Born in the USAのように

強い楽曲を後に持ってくることで、
アルバムのセールスを
組み立てようとしたのかもしれない。

でも結局二曲目のカットの
Looking Over My Shoulderが

注目を維持することに
十分な成功を収めたとは
なかなかいえない結果となり、

慌てて切られたと思われる
Love in a Vacuumはしかし、

チャートインさえ
果たせずに終わってしまう。

かくしてバンドは次作に
勝負をかけなければ
ならないことになるのだが

どうやらこの時期には
メンバー間の関係も


あまり上手く行かなく
なり始めてしまっていたらしい。

いや、僕自身もこちらでも
つまりLooking Over~でも

あるいは行けるかなと
そのくらいには思っていたのだが、

まあ、そこまでは
甘くはなかったということかなあ。

イントロがやっぱり
アルバム二曲目のそれなのである。


いや、ベースも立ってるし、
メロディーも十分に
美しい曲ではあったから、

あながちあからさまな
間違いだろうと思っている
訳でも決してないのだが。


さて、ここから先は
信頼に足るような資料が

見つかってきた訳でも
正直全然ないのだけれど、

僕としてはなんとなく、
当時バンドは、中でもとりわけ
エイミー・マン本人は、

この時期すでに
レーベル側の戦略に

不満を持ち始めていたのでは
なかったろうかと思うのである。

もちろん所詮
外野からのたわごとなので

十分に眉に唾しながら、
読んでいただきたい
内容ではあるのだけれど、

確かにこのジャケットからして
上出来だとは決していえない。


そもそもが彼女の音楽は、
パンキッシュに見える必要など
全然まったくないのである。

その辺りどんな話し合いの末、
同時期のイメージ戦略みたいなものが

決定されたのかは
皆目わからないのだが、

なるほどこの
ティル・チューズデイ時代の
彼女たちの採用していた
サウンド・メイキングの方法論は、

いってみればDD(♯10他)や
あるいは
カジャ・グーグー(♯93)辺りの、


鍵盤やほかの音色の高音が、
ある種宇宙的な雰囲気を作り、
トラックの手触りを決めてくるという、

当時のいわゆる
ニュー・ウェイヴの
いわば王道といった感じであった。

その辺りが僕の肌に
この上なく合ったことも
また確かではあるのだが、

そこに特徴的な旋律と
それからエイミー・マンの
不思議な歌声が

きっちりと載って
バンドの個性を際立たせていた。

安易なエピゴーネンでは
決してなかった。

プロモ―ション戦略が
そこを十分上手く

アピールできていたかどうかは
やっぱり小さくない疑念が残る。

ちなみにソロになってからの
彼女の音は

もう少しアコースティックに
寄っている。


そしてそれはたぶん正解で、
おそらくはボウイに由来する
このエイミー・マンの持ち味である

複雑でかつ聴きやすい
コード進行の多用と、

しかもそこにきっちり載ってくる
美しいメロディーラインという特徴を
際立たせることに成功している。


その後二枚のアルバムを
発表したティル・チューズデイは
残念ながらなんとなく

シーンからすっかり
フェイド・アウトしてしまう。


僕も二枚目は本当に期待して
手に取ったのだけれど、

大したことはなかったというか
今にして思えば、
全体に元気がなかったかもしれない。

三枚目に関しては
発表されたことさえ知らなかった。

どう考えてもレコード会社が
ちゃんとプロモーションして
いなかった証拠であろう。


そしてこのエイミー・マンが
再びシーンで脚光を浴びるのは、

VOICES CARRYから数えて実に
十四年という長い時間が過ぎた後、

世紀の境目さえ
今にも超えようかという
99年の出来事となる。

この間に彼女は、
ソロ契約をようやく結べた

ゲフィンとも結局は
上手くいかずに、

ついにはあの姉御(♯163)のように
自身のレーベルを立ち上げて、
作品の発表を続けるのだけれど、


そのうちの一曲が『マグノリア』なる
映画そのものの原案となるという

いわばちょっと普通では
考えられないような状況を
生み出すことになるのである。

トム・クルーズがなんだか変な
教祖みたいな役を演じて、

その年のアカデミーで
助演男優賞に
ノミネートされたあれである。

まあでも、ここから先を
ちゃんと語り始めると


このラジオもう一回分くらいの
文字量が軽くかかってしまうので、

今回はこのくらいで止めておく。


なお、同作の主題歌として
起用された
Save Meというトラックが、

今現在のところの
このエイミー・マンの
代表曲の位置にあり、

こちらも同年のアカデミーで
歌曲賞の部門での
ノミネートを果たしている。

いや、これもしみじみ
いい曲なのである。

でもまあ、そこは機会を改めて。


本当はここでこのまま
締めにいくつもりだったのだが、

でもやっぱり最後に一つだけ。

ソロになってからの
マンの髪型は
実はずっとこんな感じである。


One More Drifter in the Snow/Aimee Mann

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ね、だからさあ、と
ついついいろいろ
いいたくなってしまうのである。


なんか上のジャケットも
小ネタみたいになって
しまった気もしないでもないけれど、

以下本当の締め。

これは前に一度、たぶん
『アイ・アム・サム』の時に

書いてしまっているかも
しれないとも思うのだが、


このエイミー・マンの旦那様、
マイケル・ペンとおっしゃって、

あのショーン・ペンの実兄である。

もちろんショーン・ペンは、
同映画のサムであり、

あのマドンナ(♯141)の
最初の夫だった方である。

いやだから。

あの世界、狭いんだか広いんだか。