丑三ツ談義その2 | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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少し間が空いてしまいましたが
ではこの前の予告通り(→こちら)、

浅倉の直近の発表作となります
「関ヶ原の丑三ツ」について、
多少踏み込んだ話を少しだけ。


なお、今回のテキストには、
今度こそタイトル通り、


多少の怪談のテイストが
皆無ではないかもしれませんので

その辺りはどうぞお含みおきの上
今回はお読みいただければ。


ま、でも、実際は
大した内容ではないけれど。



さて僕がこの
石田三成という人物に関し、

できるならば一本くらいは
自分でもこの人を主役に据え、


作品をものして
みたいものだよなあと、


そんなふうに思うくらいの
興味を惹かれるようになったのは、

まずそもそもは、たぶんもう
七、八年くらい前のことに
なるのではないかと思うのだが、


滋賀県は琵琶湖周辺を
数日旅行した際に、


随所で目にした
この方の現地での評判が

すこぶるどころではなく
良かったのが実は最初の
きっかけだったりしたりする。


それこそ佐和山や長浜辺りでは
今なお当時の善政を
非常に讃えられてもいるのである。


だからこそ、今でもあんな
突拍子もないCMが
しかも自治体から出てきてしまう。

たぶん地元ではまだまだそれくらい
人気があるらしいんですよ、この方。


そういう訳で、
ああこの人はたぶん、


自分がイメージとして
昔から持っているような

単なる奸臣みたいな存在では
決してなかったんだろうなあ、と
まずはそんなふうに考えました。


もっとも、すぐにどうこう
できたという訳では決してなく、


いつかそのうちくらいに構えて
しばらくは頭の片隅に
放っておいた訳なのですけれど、

やがて今度は別の機会に、
小早川秀秋の死に様に
つらつら目を通す場面がありまして。


――これが正直びっくりでした。

この方は実際、
関ヶ原の合戦の二年後にはもう、

わずか二十一歳で
亡くなられているのだそうで。


それもどうやら
ひどく酒に溺れた上での


錯乱死とでもいうのか
そういう状態に近い
死に様だったらしいです。

もちろん本人の残した
記録みたいなものはないので、
確かめる術などない訳ですが、


それこそ少し前の
「真田丸」での
三谷さんの描写のように、


物陰に怨霊を見るような場面も
あるいはあったのかもしれません。

いや、確かにあれは
祟られるわなあ、と、


正直そう思わずには
いられませんでした。


実際いろいろ調べてみると
大谷吉継が死に際に、

「我三年の間に祟りを為さん」と
いったとかいわないとか、


そういった伝承も
見つかるようではございます。



さて、そんなこんなが
何となく頭に入ってきたところで、

ああいう三成以下の西軍の
書き方もありかなあ、


なんてことを
おいおい考えるようになりました。



「フーガ」のシリーズも
実は結構そういう狙いで
書いていたりはするのですが、

とりわけこの辺の作品群に
着手していた時期は、


どうにかして今まで
どこにもなかったような、


物語なり手法なり、
あるいは映像的イメージなりを、

作品として固定することを、
割と真剣に
目指していた気がします。


いや、この点はまあ、
こういう仕事をやる以上は


もう少しというか、
息の続く限りは、

こだわり続けていくべきだとも
思っていなくはないですし、


こちらもまた未発表の
「雪蜘蛛」なんて
タイトルをつけている小品は、


けっこう異質なイメージに
仕上がってはいるはずだと

自分では
思っていたりもするのですが、


まあいずれにせよ、
そういった意味でも
先頃のコメントに頂戴したように


今回のテキストに対して
幾ばくかの意外性を
感じていただけたということは、

本当に光栄の至りで
あったりする訳でございます。


こういうお言葉に触れますと、
まあいつだったかも
似たようなことを
ここで書いているかとも思われますが、


PCの液晶画面の前で、
ついガッツ・ポーズを
したくなったりしてる訳ですね。

いや、本当にありがとうございました。


さてここから先の内容は
同作を未読の方には


あるいは作者自ら
ネタばれしてしまうような
感じになってしまって、

多少申し訳ないかも
しれなかったりもするのですが、


そこはできればやはり
割り引いていただくことにして、
さらに続けてしまいます。


作中で登場人物が
はっきりと言及している通り、

本作の基本の構造は、
あからさまにあの
「耳なし芳一」だったりします。


壇ノ浦の平家が
夜ごと芳一の琵琶に耳を傾けて、
涙を流しているのだとしたら、


関ヶ原の西軍の面々が
似たようなことを
しているみたいな話があっても
全然大丈夫じゃないかみたいな、

そんな発想がとっかかりになって、
まずは舞台装置ができあがりました。



それからもう一つ
こちらは「黄蝶舞う」の頃から


ずっと考えていた部分でも
実はあったりするのですけれど、

たとえば「船弁慶」とか、
あるいは「二人静」であるとか、


源平期の主要人物が
亡霊として登場する
伝承ないし文芸作品は


探せば結構すぐに
見つかってくるのに、

室町以降の素材となると
むしろそういう作品が、


ほとんど成立しては
いないのではないかという
事実というか個人的な疑念が
背後にはあったりもしました。


もちろんこれは
観阿弥世阿弥という辺りが、
室町期の人だったからで、

素材としてまだ
存在していなかったのだから、
当然といえば当然なのですけれど、


でもそうすると
こういった種類の、


つまりは能でいうところの
シテにあたる人物に

戦国期以降の人物を
持ってくるという発想は、


ひょっとしてある種の方法論というか、
一つのアプローチとして
実はありなのかもしれないなあと


そんなふうにはなんとなく
ずっと考えたりしてもおりました。

ですからここでも幾度か、
タイトルだけちょこちょこと
折に触れて出している、


もう一つの「吉野詣」なる
秀頼を描いた一篇も、


やはりよく似た方法論で
最初の着想を起こしています。

そういう舞台装置に、
それこそ今回の「関ケ原~」での


左甚五郎の挿話というか、
ピグマリオン伝承ともいうべきような、


一見無関係に思える
異質な要素をぶつけることで、

新しい物語を成立させることが
できるのではないかというのを


まあテキストに手を付ける
つけないから離れたところで、


なんとなくどこかで
時々考え続けていることが、

たぶんいつぞやここでも
文字にして起こした、


ポリッジを煮詰めるとでもいった
そういう作業なんだと思います。


だからねえ、正直自分でも
いつ食べごろになるのか
わからなかったりするのですよ。

そこがたぶん
一番難しい問題な訳ですけれど。



さて、今回のこの
「関ヶ原の丑三ツ」は
幸運といいますか、


「歴史街道」さんの御厚意で、
世に出ることが
今回叶った訳ですが、

まあいずれそのうち、
ほかの作品もいつか必ず。


なかなか書籍の形で新作を、
お手元に届けることができなくて、


正直申し訳ない気持ちはあるし、
歯痒いこともまた
同時に確かではあるのですけれど、

まあいろいろとありまして。

また気長に時々ここを
覗くなりしていただければ、


ご興味を持っていて下さる方には
あるいは新しいニュースも
随時御案内できるかもしれません。


では今日のところはこの辺で。


なおこのネタ、もう一回だけ
ここで続けるつもりでございます。


次回は自作はおいておくことにして、
三成の決起の理由について少しだけ。

最後になりますが、
掲載誌の書影をもう一度。


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今回は前後編となっております。
改めての御案内でありました。