早いところでは | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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今週末くらいから
店頭に出てくると思うのですが、

どうやらアマゾンさんに、
書影も出てきた模様なので、
こちらをご紹介しておきます。


文芸 2016年 08 月号 [雑誌]/河出書房新社

¥1,404
Amazon.co.jp

はい、実は浅倉今回同誌に
短編を掲載させて
いただいておったりします。


たぶん業界に近い方ほど、
え、と驚かれるか、

あるいは少なからず
戸惑われるのでは
なかろうかとも存じます。


ご承知の方には
いわずもがなの
ことではあるのですけれど、


同誌はもちろん、純文学の雑誌です。

で、僕はたぶん
基本的にはエンタメの作家です。


まあでも本当は、
小説にそんな境界など
ないんだろうとは
個人的には思ってますが。


いずれにせよ、
今回浅倉、おかげさまで、

『液晶と携帯電話のフーガ』

というタイトルの作品を
同誌誌上にて発表させて
いただける運びと相成りました。



どうしても多少の誇張が
入ってきてはしまうのですが、

とりわけ本件に関しては
たぶん並大抵ではない
苦労をしてしまいました。


実は御依頼を頂戴して
書いた訳では決してなく、


好き勝手に起こしたものを
こちらから持ち込ませて
御検討いただいたという形であります。

三度目の正直という言葉が
世の中にはありますが、


これ、実に十五度目の正直でした。

つまりはここまで、
五社計十四人の編集者に
目を通していただいた上で
結局はまるで形にならず、

ようやく次の十五人目で
同誌の編集長氏が
お力を貸して下さると、
そう仰っていただけたという経緯です。


昨年の年末に
ややはしゃいでいたのは


実はこの出来事が
あったからだったりします。

それからも実は
多少の紆余曲折が
あったりもしたのですけれど、


それはまあ、措いておくとして、
どうやら新刊の刊行に向け、
ようやく第一歩を
踏み出すことができましたので、


本ブログ読者の皆様には
慎んで御報告申し上げたく、

本日このテキストを
起こしているような次第です。



これはもう書いてしまって
大丈夫だろうと思うのですけれど、


同作実は、全部で十八本ある
一続きの短編集の中の一本です。

全部が全部癖のある内容なので、
すぐには書籍にはできないから、


まずはこういう形で
少し様子を見てみましょうかと
いったようなお話になっております。


同誌の読者の皆様に、
浅倉の文章がどう読まれるか、

あるいは僕が登場することが、
新しいタイプの読者層が
同誌を手に取って下さる


そういうきっかけの一つくらいには、
ひょっとしてなったりするのかどうか、


まあそんなようなことを
編集長氏と一緒に今、

試すといおうか
挑んでみているところです。


お目に留まりましたら幸甚です。

ちなみに同誌では現在
町田康さんの『ギケイキ』が
絶賛連載中だったりします。

これね、無茶苦茶笑えます。

とりわけここを覗いて
下さっている皆様の中には、


拙著『君の名残を』を
気に入って下さっている方も
少なくはないかと思われますが、

本当、同じ義経が、
作者が違うと
これだけ変わるものかと、


まあそういう楽しみ方も
ひょっとすると
あったりするかもしれません。


そうそう、
『ギケイキ』=『義経記』
ですので念のため。



既存のパイを奪い合うのではなく
新しいパイを作り出していく、
そういう仕事を目指していきたい。


これ実は、芥川賞受賞直後の
又吉さんのお言葉だったりします。


原典確認しながら
引用した訳では決してないので、

多少の齟齬はあるかもしれませんが、
大意は間違ってはいないはずです。


正直感銘を受けましたし、
大きく首を縦に振りました。


これを文字にしてしまうと、
いろんな方面から

眉をひそめられて
しまいそうでもありますけれど、


本当、現状ではこの点こそ、
業界の抱え込んでしまった


最大の弱点では
なかろうかくらいに
今は思ったりもしています。


僕自身、そういう予感というか
つまりは、新しいパイを
作り出すということは
実際はどういうことかなのかという


答えの出ない疑問のような
切迫感はずっと
持ってこそいる訳ですけれど、


でも一方では、
所詮は人の思いつくことですし、

使えるものは基本、
数に制限のある
活字でしかないのもまた
厳然とした事実ですから、


いつだってまあ、
そんなに新しいことができたとは、
思えていないのも本当です。


これはここまでにまだ
先例がなかったはずだと
そう思えそうなポイントが

作品の全体から見ると、
非常に地味な
箇所だったりすることも
ままあったりしますし。


現在文庫『向日葵の迷路』所収の短編
「ビザール・ラヴ・トライアングル」の
三番目のセクションなんかは、


自分でも、ぎりぎり
なかなか普段はきちんと
書ききれないような種類の内容を、

どうにか可能な限界まで
文章だけで肉薄できた、


そんなような手応えも
実はあったりするのですけれど、


それが決して広範な評価、
もっとありていにいえば
セールスというものに、

直結する訳ではないことも
同時に現実だったりします。



さて、ここからは少し
小難しいことを書きます。


小説というものは、
テキストが世界を立ち上げて、

読者にその世界の中で
遊んでもらうというか、


擬似的な時間を
過ごしてもらうとでも
いったような形で、
基本的には成立しています。


でも、その世界なるものは実は
テキストというよりはむしろ

読み手の想像力にこそ依存して
辛うじて成立しているのだなあと、


まあそんなことに、
ふと気がついてしまった
場面があったんですよね。


風景がある。
登場人物が会話する。
あるいはものを考える。

それらは実は全部、
読み手の頭の中にしかない。


そういう奇妙な現象が
成立しているということは実は、


小説の描き出している世界が、
現実と似た
次元と時間軸とを有している、

いわばそんな感じの了解が、
書き手と読み手との間で
暗黙のものとなっているからこそ、


このテキストのみという形式の
表現行為が成り立っている訳です。


でもたぶんそこを
思い切り壊してしまえば、

出来上がってくるものはおそらく、
鑑賞に耐えうる代物には
決してなってはこないだろう。


それもまた
なんとなく自明な気がします。


この辺りがやっぱりまだ
上手く言葉には
出来なかったりして、
またぞろ頭を悩ませる訳なのですが、

それでも、楔を打ち込むことなら
ひょっとしてできるかもしれない。


そんな思いつきが
ある日頭に宿りまして。


ですからまあ、この
十四人に振られまくった
テキスト群というものは、

基本のところで大なり小なり
そういう目論みを共有しています。


本当、拒絶反応すごかったさ。

それでもね、三人くらいは、
手を挙げたいといってくれた人は
いないでもなかったんですよ。

それが会社の、
たぶんシステムの問題で、
結局成立しなかった。


この辺はまあ、あまり詳しくは
さすがに書けないので、
筆が滑る前に止めておきますが。


――まあとにかく。

おかげさまで今回
いよいよ日の目を見ることになった
この『フーガ』なる一編は


ぎりぎりネタバレに
ならない程度で紹介すると、


小説でエッシャーみたいなことが、
できはしないだろうかというような
ひそかな試みだったりしております。

僕としてはこれ、
相当大人しめなんだけれどね。


まあでもそういう訳で、
叶うならば同テキストが


僕らの予想を
大なり小なり
越えてくれるような場所からも、

注目を集めてくれれば
嬉しいんだけれどなあ、などと、
皮算用をしているこの頃です。


書籍までにはまだまだ
とてつもなく長い道のりに


なりそうな気配では
あるっちゃあるのですけれど、

引き続き皆様の
ご支援を賜れれば恐縮です。


それから、もう一つの方の
ありがたいお話については、
また機会を改めてと致します。



まあねえ、やってる間は
こんな苦労なんて
しなくて済むなら、


それに越したことはないよなあ、と、
ずっと思ってはいたのですけれど、

でもたぶん、そういうのを
通過することによってしか、
得られないような種類のことも


人生ってやつにはきっと
少なくなくあるんだろうなあ、と
近頃はまあそんな具合に
思えるようにもなりました。


さて、またずいぶんと
長くなりましたので
今日のところはこの辺で。

暑くなってきましたので、
皆様体調等には
十分お気をつけてお過ごし下さい。



でも本当、自分の作品が
『文藝』の誌面に載るというのは、


数年前には予想だにも
していなかったことなので、
正直とても嬉しいです。