ブログラジオ ♯122 Dancing Queen | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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さていよいよ北欧編のラストは、
お察しの通りスウェーデンである。

まあそこしか残ってないし。

そしてまた同国、
年明けから一応続けている


ヨーロッパ編の
いわばトリでもあるのだが、

ところがこのスウェーデン、
実は結構な
音楽大国だったりするのである。


だから僕もここで
今週から五回分、同国の
アーティストに割く予定である。



さて、スウェーデンといえば、
まず筆頭に挙げられるべきが、
この人たちであろうことは

九分九厘どこからも
異論は出てこないのでは
なかろうかと思われる。


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北欧どころか欧州どころか、
むしろ全世界の音楽シーンに


強烈な足跡を残したと
いっていい存在であろう。

いわずもがな、アバである。

少なくともこの人たちが、
英語を母国語としない
国や地域から登場してきて、


史上最も成功した
アーティストであることは

たぶん断言してしまって
問題ないのではないだろうか。


ちなみに欧文表記の場合、
ABBAの二番目のBを
裏返しにして書くのが正式。


ワープロだとこれはさすがに
面倒なのでやらないけど。


いやしかし、なんかあの頃の
国内のラジオの
いわゆる洋楽チャートでは、


このアバ、出す曲出す曲、
軽々と一位を獲って
いたようにも記憶している。


ChiquititaもVoulez-Vouzも
Money, Money, Moneyも

Gimme! Gimme! Gimme! も、
On and On and Onも


とにかく全部ラジオで聴いた。

少なくともほとんどが
あの頃の洋楽のシングルの中で、

トップ10どころか
トップ3に入るくらいの勢いで
売れていたことは確かだろう。


個人的には、アルバムなんて
一枚も手を出したこともないのに、


知っている曲が
一番たくさんある
70年代のアーティストが、

このアバだったり
するのかもしれないなとも思う。


いや、カーペンターズと双璧かな。

もちろんこのアバの
いわばピークというのは、

僕がまだ中坊にすら
上がる前の時期なので、
肌で感じた訳ではないが、


とにかく相当な
人気だったことは間違いがない。


ひょっとしてあの
ザ・ベストテンに出演した、

最初の洋楽アーティストでは
ないのだろうか。


まあこれについては、
ちゃんとウラ取りをした
訳では決してないのだが、


まあとにかく
そのくらいの勢いだった。


さて、それにしてもこのアバ、
今となってみると、
実に風変わりな存在である。


スウェーデン出身というだけでも
十分異彩を放っているのだが、


それ以上にまず、
二組の夫婦によって
成り立っていた
音楽グループというのが、

なかなかほかには
見つからないのではないかと思う。


親子というか、家族なら、
とりわけあの時代には
いろいろいたような気がするし、


男女のペアという意味でなら、
ユーリズミクス(♯27)も
あるいはEBTG(♯20)も、

互いに夫婦同然だった時期が
確かにあったはずではある。


でも、夫婦二組の計四人で、
音楽をやっていたグループとなると、
正直全然浮かんでこない。


誰か思いついたら教えて下さい。


そもそもこのアバの歴史は、
それぞれにスウェーデンで、
自分のバンドで活動していた、


ビョルンとベニーの男性陣二人が、
一緒にやってみようと
意気投合したことがきっかけである。


ほとんど時を同じくして、
彼らがやはりそれぞれに、
既にシンガーとして活動していた、

アグネッタとそれから
アンニ=フリードと知り合って


交際を始め、
結婚に至った辺りから
グループの歴史もまた
漸うと幕を開けている。


だから当初は、この女性二人には、
バック・コーラスを
頼もうかくらいに思っていたというから、

まあまったく、
何がどう転ぶのか、
わからないものだよなあ、と
つくづく思う。


アバといえば、僕なんかはやはり、
女性二人がフロントという
このパターンしか
ありえないくらいに思えるのだけれど、


だとすると、そうなっていなかった
可能性というのも、
決して小さくはなかった訳である。

ちなみに四人は当初、
個々のファースト・ネームを
並べる形で
グループ名を名乗っていたのだそうで。


順番がどうなるのが
正式なのかは忘れたが、だから、


アグネッタ、ビョルン、ベニー、
アンド・アンニ=フリードと
いったような具合に
なっていたはずなのである。

これがあまりに長いので、
当時のマネージャーが、


スケジュール・ボードか何かに
イニシアルだけを綴ったところ、


これがABBAとなって、
アバという名前が誕生したというのは、
たぶん有名な話であろう。

こういう例って
ほかにあるのかな、と思って
少し考えてみたところ、


浮かんできたのは
本邦のKAT-TUNだけだった。


でもいつのまにか
三人になっちゃってるんだねえ。

まあそれはともかく。

そういう、なんというのか、
メンバー構成の部分のみならず、


音楽そのものもまた、
実はずいぶんとユニークで、

しかもかなり難しいことを
やっていたのだな、というのが、


今回このテキストを起こそうと、
じっくりと上のベスト盤を


改めて聴きなおしてみて、
つくづく感じたことだったりする。


まず曲の構成が、
思いも寄らないところで、
微妙に複雑な場合が多い。


ChiquititaもMamma Miaも
このイントロや、あるいは
歌い出しのラインから


なんでこのサビにいけるんだ、
みたいな意外性が随所に見つかる。

だから、いわばある種の力技で、
互いに異質な要素を
一つのトラックの中で


きちんとまとめ上げてきている。
そういうパターンが結構ある。


加えて、サウンドの手触りも
華やかというか
きらびやかというか、
やっぱりずいぶんと独特である。

アバ・サウンドといういい方が、
ある種固定されているのも頷けた。


彼らと、当時の
レコーディング・エンジニアとが
手本にしていたのが、


やはり70年代に一世を風靡した
米国のプロデューサー、
フィル・スペクターの

ウォール・オブ・サウンドと
呼ばれる手法で、


なるほど確かに、
音像の広がり方が
その影響を感じさせる。


ヴォーカルを二回か
あるいはそれ以上重ねて
トラックダウンするとか、

ギターやベースを
同時に複数使うとか、


たぶんそういった
手法なのだとは思うのだけれど、


そういえばビョルンと
ベニーの二人は
この音の広がりを出すために、

ピアノのチューニングを
最初から微妙にずらして、


レコーディングしたりも
したらしいという内容を、
以前にどこかで読んだ気もする。


もっとも、出典が何だったかは
すっかり忘れてしまっているのだが。

でもだから、
そういう細かな神経の使い方というか、
むしろ探究心とでもいうべきか、


そういったいわば
音楽と真っ向から
向き合おうとするような


姿勢というか、要素がきっと
当時のあの世界的な熱狂を

しっかりと裏打ちしていたのだなあ、と
改めてそんなことを考えさせられた次第。



そのアバの
押しも押されぬ代表曲が、
もちろんこのDancing Queenである。


それにしてもこのトラック、
本当に独特で、しかも美しい。

今聴くと確かに
ちょっと音の全体が、


ややシャリシャリし過ぎている気も
正直しないでもないのだが、


ロックとは全然違っているし、
かといってまったくの

ディスコ・テューンかといえば、
決してそうではない。


上質なダンス・ナンバーではあるのだが、
でもソウル/ファンクといった形容は
真っ向から拒んでくる気がする。


むしろあの頃、
イージーリスニングなんて
名前で呼ばれていたジャンルに
少し似ている手触りがある。

それでもこの曲は確実に、
ポップ・ソングの領域にある。


そういう意味で、
頭一つどころでなく
突出しているのだと思う。


しかもこのピアノのパターンが、
ヴォーカルの旋律と同じか
それ以上に印象に残ってくる。

つまり、フックが幾つもあるのである。

いや、あれほど流行る訳である。

なんか、改めて聴き込んで、
今回はすごく納得してしまった。


アバはちょうど80年代が
幕を開けようとしていた前後、


二組の夫婦が相次いで破局し、
それでもなお、


The Winner Takes it Allや
Thank You for the Musicといった

今になって振り返ってみれば
非常に意味深にも受け取れるような


タイトルを採用した
トラックを随時発表しながらも、


やがて83年頃、
正式な解散の宣言もないまま

シーンから
フェイド・アウトしてしまう。


以後、一度も再結成されてはいない。

そして、ここがまた
ひどく不思議なところに
僕には思えてしまうのだが、

このアバには、バンド公認の
コピー・バンドというのが
やはりスウェーデンにあって、


これが欧州なりアメリカなりを
何度もツアーしているのだそう。


それはつまり、
それを支えるだけの人気が、
まだ維持されていることである。

このバンドは、88年に
ビョルン・アゲインという
名前で結成され、


以後、アバ・ザ・ゴールドとか、
アバ・ザ・コンサートとか、
そんなふうに名前を改めながら、
たぶん今も存続している。


それから、
ジューク・ボックス・ミュージカルで
彼らの楽曲を全編に使用した、

『マンマ・ミーア』という作品が
こちらもまた大変な人気を博し、
08年には映画化にまで至っている。


このステージ版の方の監修には、
ビョルンとベニーの二人も
どうやら参加していた模様。


たとえグループそのものが
なくなってしまっても、
音楽は残り、生き続けていく。

こういう実例を
こんなふうに見せつけられると、


もう本当、
ただただ唸るほか
反応のしようがないよな、と思う。



さて、では恒例の締めのトリビア。

70年代の後半の、
まさしくこのアバの全盛期に、


彼らのオーストラリア・ツアーを
素材にした、


『アバ・ザ・ムービー』なる
映画が一本製作されている。

僕自身は未見なのだが、
この時メガホンを取ったのが、


同じスウェーデン出身の
ラッセ・ハルストレム監督であった。


ここでは以前に彼の作品から、
『ギルバート・グレイプ』を
取り上げたことがある(→こちら)。

だから、どうやらこの
アバの作品を手がけたことが


ハルストレム監督にとっては
ハリウッド進出の
一つの足がかりとなった模様で、


いや、いろんなところに
いろんな物語が
あるものだなあ、と

感慨というほど大袈裟な
ものでは決してないのだけれど、


そんなふうに思ってしまった。