『バージニア・ウルフなんか怖くない』 | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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なんともはや、すさまじい作品、
いや、シナリオである。

バージニア・ウルフなんかこわくない

¥1,543
Amazon.co.jp

66年のアメリカ映画。モノクロ作品。

主演がかの有名なエリザベス・テイラーで、
相手役はリチャード・バートンなるお方。


この二人が、大学の歴史学の助教授と、
その学校の学長の娘という
少なからずいびつな夫婦を演じている。
もちろん助教授の方は入り婿である。

そして彼らの家に、
つい最近同じ学校に着任してきた
若い生物学の教員とその妻とが、


正規の歓迎パーティーか何かのあとで、
改めて自宅に遊びに訪れるというのが
物語の開幕となる設定である。



原作が戯曲なので、ストーリーの根幹は、
端的にいってしまえば
この四人の間に繰り広げられる
台詞の応酬のみである。

もっとも、ラスト近くには、
この四人の人間関係のすべてを
一挙に破壊してしまうような種類の
イヴェントも用意されてはいるのだけれど、


舞台は終始、ホスト夫婦の家と
その周囲くらいなものである。


厳密には、後半に深夜営業の
コーヒー・ショップだかバーだかが、
ちょっとだけ出てくるのだが、

その相違は、単純に
セットが違っている程度のものである。



とにかく繰り広げられるのは、
ホスト夫婦を中心とした
辛辣な台詞のやりとりである。


妻は、夫が父や自分が期待していたような、
つまり、学長の後継者たるだけの器量を持つ
人間ではないことに終始苛立っていて、
ことあるごとに彼の言葉を否定する。

彼女は新任の若い学者の専門を、
数学だと勘違いしてもいる。
この誤解を、生物学者夫妻に
訂正されこそするのだけれど、


それでも、すべてに対する彼女の優位は
些かも揺らぎはしないように見える。



やがて組み合わせを少しずつ変えながら、
様々な物語が、登場人物たちの
それぞれの口から語られ始める。

父親と母親の両方ともの死に、
はからずも逃げ切れない責任を
負わなければならなくなってしまった少年。


家出してしまった息子の話。

恋人に結婚を決意させるため、
想像妊娠までしてしまった、
何かあるとすぐ吐いてしまう小娘。

実は自伝的な小説を書いている学者。

断片的に導入されてくる様々な、
しかも決してまともな姿とは
なかなかいえないこれらの要素が、


筋が進むに従って、少しずつだが
明らかに四人のそれぞれと
リンクしていくように見える。

ある種の秘密の暴露し合い、
みたいな空気が、
次第に重苦しく醸成されていく。


ただし、何が真実なのかを、
彼らのそれぞれが
きちんと断言するということはほとんどない。



だからたぶん、この作品、
いったい何が事実なのかということを
徹頭徹尾受け手に惑わせる、

そういう効果を最初から意図して
脚本が書かれているのではないかと思う。


ホスト夫婦は、実は
ある秘密を共有している。


それが、この些かいびつなゲームとも
いってしまえそうな二人の関係性を、
ある程度解き明かしてくれる鍵にはなる。

そしてその開示が、本作の
一種のクライマックスとなってはいる。



やがて完膚なきまでに傷つけられたはずの
若い夫婦は、朝の訪れと共に
自分たちの家へ、暮らしへと帰っていく。


ホスト夫婦もまた、結局のところ、
互いが互いを必要としている、

つまり、この夫も妻も、この相手でなければ、
実はやっていけないのだということを
お互いに確かめ合ったかのようにも見える。


エンディングは、そんなある程度、
肯定的なイメージを
その場所に置いていこうとしている。



――でも、この夫婦は本当に幸せなのか?


見終わってまずそう思った。

けれどそこでふと
気づいてしまったのである。


彼らは所詮作中の人物なのである。

だからこの二人も実は、
作中で延々と繰り広げられていた、
虚実入り乱れる物語の断片の中の人物たちと、


同じ程度の重さしか、
本当は持たないはずなのである。


ならばその心情や、人生を慮ることに、
いったいどんな意味があるのだろう。

しかし一度兆した疑問は消えることはない。

だから、虚構を虚構の位置に置いたまま、
現実に対し、部分的ながらではあるけれど、


ある種の侵食とも呼ぶべきことを
為さしめることに、この作品はたぶん
巧妙に成功しているのだと思う。

少なくとも僕は、そのような効果に
完全に巻き込まれてしまっていた。


――ああ、なるほどな。

これがこの作品の強さなのか。

まあそんなことをなんとなく
考えさせられてしまった次第である。



たぶんだからこそ、発表当時に
戯曲としても映画としても数多の賞を獲得し、
時代を越えてなおきちんと
残ってきているのだろうと思う。


ちなみに本作は、舞台の段階でトニー賞を、

映画になって、エリザベス・テイラーに、
二度目となるアカデミー
主演女優賞をもたらしたほか、


全部で計13部門にノミネートされ、
上の主演女優賞を含む
5部門で受賞を果たしてもいるのである。



まあ、多少余裕があって、
つまり精神状態が良好というか、

ある程度安定しているような時でないと
鑑賞はあまりお勧めできないな、とも思う。


人の醜さ、とまではいわないけれど、
繰り出される台詞から嫌でも漂ってくる


ある種の毒気の強力さには、
やっぱりかなりなものがある。

その証拠、という訳でもないけれど、
スクリーンの上で
FUCKという言葉が発せられたのは、
ハリウッド史上、本作が最初なのだそうである。



ちなみに、どこかで以前
一度くらい触れたかもしれないけれど、
ディズニーの『三匹の子豚』の
Who’s Afraid of a Big Bad Wolfを


Who’s Afraid of Virginia Woolfと
作中で替え歌にして歌っているのが、
この意味不明なタイトルの由来である。


なお、本記事のタイトルは、
日本版のソフトに合わせて、


「ヴァージニア」ではなく、
「バージニア」の表記を採用したことを、


念のためだが、
最後に付け加えておくことにする。