ラジオエクストラ ♭44 『卒業』 | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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いわずもがなだが、
もちろん尾崎豊である。

回帰線/尾崎豊

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もう少しここで邦楽も取り上げようと、
それなりに以前から思ってはいるのだが、


そうなると、この人を素通りして
しまうことは決してできない。


この前セカオワの時に、予定と違う
みたいにいったのは、だから、

まずはこの尾崎をやって、

それから浜田省吾さん、サザンときて、
その後ようやく
邦楽一般というつもりだったのである。



ただ、とりわけこの尾崎に関しては、
同時に少なくはなく

自分が書くことにどこか気が引ける
気持ちがあることもまた
嘘偽りのないところでもある。


彼については、僕よりもよほど詳細で的確な
文章を書ける方が数多いらっしゃることは
ほぼ間違いないだろうと思われるからである。


そういう訳で、なかなかテキストが
表に出せるレベルに仕上がらなかった。


恐縮ながら僕自身は、実際もの凄く熱狂的な
ファンだった訳では、残念ながらない。


告白すれば、生前手元にあったアルバムは、
四枚目の『街路樹』一枚きりだった。
遺されたカタログを全部聴いてさえまだいない。


もっとも、もう少しだけ時間がずれていたら、
相当ハマッていただろうなあ、とは
それなりに感じてもいはするのだが。


なお、邦楽のアーティストではあるが、
本稿ではあえて
敬称を略させていただいている。


故人だからという理由ではないつもりである。

やはりどうしてだかはわからないけれど、
こと彼に限っては、その方が
むしろしっくりくる気がするのである。

そういう訳で、このまま続けさせていただく。


さて、僕は尾崎よりも一つだけ年下である。
あるいはこの表現も今は、あった、と過去形に
するのが正しいのかもしれないが。


いずれにせよ、その事実がなんというか、
生々しさや面映さに似た感覚を、否応なく
誘ってくる場面が少なくなくある。


尾崎のデビューは83年の12月、
僕が十七歳の時である。


つまり僕自身はまず最初に
彼の『15の夜』を、いわば「17の夜」に
耳にしているということになる。


そして同時に、アルバム・タイトルの方が
それこそドンピシャの
『十七歳の地図』だった訳である。

ただこれだけ書いただけでも、なんとなく
どういうんだろう、リアル過ぎて、
腰が引けるような気がしてきてしまう。


実際十七歳なんて、もう遠い昔な訳ですし。
まあでも、書き始めてしまったからには
最後まで書く。



さて、当時毎日聞いていた
ラジオの深夜番組で、
発売直後だったこのシングルがかかった。

今となっては、選曲者の慧眼に
相当恐れ入りもするのだが、


やっぱりきちんとアンテナを張っていた人々は、
すぐさま反応していたということなのだろう。


それはたぶん、僭越ながら僕自身も同じだった。

激しいという言葉で安易に形容して済ますことは
到底できそうもないこの強力なトラックと、


それから尾崎豊という
この同世代の若者の名は、
その数分で脳裏にしっかりと
刻み込まれていたのである。


実際それほどインパクトは強烈だった。

当時僕が邦楽で佐野さんのレコードと並んで
愛聴していたのが、実は浜田省吾さんだった。
こういえば大体察していただけるかとも思う。


率直に、いやすごい曲が出てきたな、と思った。
何より声と歌い方とが相当にカッコよかった。


それでも少しだけ、
どこか半信半疑だった部分は否めない。

誤解を招きかねないことはわかっているが、
率直に記しておく。


本当に、なんとなくではあったのだけれど、
ああ狙ってきたな、というような感覚を
ちょっとだけ抱いてしまったのである。


まあ生意気というか、
ひねくれた子供だったのである。
それは否定しない。

でも少しだけ弁明をさせてもらえば、
この時は彼の年齢も、
全曲を自分で作詞作曲していることも
まるで知らなかったのである。


同時に、自分の嗜好がほとんど洋楽へと
シフトしきっていたこともあり、
結局この時は『十七才の地図』を
聴いてみることは見送った。




『卒業』の発表は85年の一月のことである。
それはつまり、僕の現実の高校卒業の年だった。

まあだから、こういうのがかなり面映いのである。

そういう訳でこの曲が流れ始めた頃、
僕自身はまさに受験という通過儀礼の
真っ只中にいた訳である。


まもなく年度が変わり、
僕は東京へと居場所を移した。
もっとも、新しい住所は
世田谷にある予備校の寮だった。

そのまま今に至るまで、生活の場はこちらにある。
だから後になってみればこれが、
僕がいわば、故郷を捨てた年だったのだが、


もちろん当時はそんなことには
まったくもって無自覚だった。



当然ながらレコード・プレイヤーなどという
大層なものは手元にはなく、
音響機器は安いラジカセ一台きりで、

持ち込んだ百本に迫るカセットを
それこそ音が縒れてしまうまで


繰り返し回しながら日々を過ごした。
飽きればもちろんラジオをかけた。


テレビとはほとんど無縁だった。
浪人生の寮なのである。
そんなものは食堂に鎮座しているだけだった。


そんな中でもこの『卒業』は
何度も耳にしていたように記憶している。


あの例のサビの一節は、
当初から相当話題にもなっていたし。


でも、レコードなんて買っても、だから
聴くことさえできなかった訳である。
そういう身分でもなかったし。


同じ年の光景として鮮明に覚えているのは、
あの御巣鷹山の事故である。


その日僕は、友人たちと喫茶店にたむろしていた。
集まって、夏期講習の課題を片付けよう、
みたいな話になっていたはずだと記憶している。


でも気がつけば、誰もがいつのまに、
店の棚の上に据えられていたテレビへと
無言で視線を注いでいるような有様だった。

どうにか違う話題を選ぼうとしても
会話はことごとく上滑りした。
もちろん課題など進むはずもなかった。


たぶん誰もが、現実の残酷さみたいなものに、
圧倒的に打ちのめされていたのだろうと思う。


三十年経った今でも、決して脳裏から
完全には消え失せてしまうことのない一場面である。


ようやく『街路樹』を購入したのは
大学時代のことである。


ちょうど、パッケージの主流がLPレコードから
CDに移り変わりつつあった時期だった。


だから、気に入った洋楽のアルバム群の内から
是非とも手元に確保しておきたいものを
バイト代をやりくりし買いなおしている傍らで、
ふとこの『街路樹』が目に付いて、

あの尾崎が今どんな音楽をやっているのか
興味を覚えて新譜を買い求めたのだと思う。
誰かが強く勧めてくれたりもしたのかもしれない。


タイトルトラックや、あるいは『時』など、
とりわけ詞の世界に深みを増した楽曲が耳に残った。
それでも結局、旧譜を揃えるまでには至らなかった。



振り返れば、その稀有な存在感こそ
十分に認めながらも、いつのまに
なんとなく距離を置いてしまう癖が
ついてしまっていたのかもしれないな、とも思う。


そのまま時が経ち、92年が訪れる。
僕は二十五になっていた。


仕事を覚えることに忙殺されながらも、
どうにかつかみかけていた手応えと同時に
ある種の違和感を覚え始めていた時期だった。


尾崎の訃報は、そんな日々の中に
何の先触れもなくいきなり飛び込んできた。

今度こそアルバムをちゃんと買っておこうと
最寄のレコードショップに足を運んだのは、
直後の週末のことだったのではないかと思う。


だがもちろん、当然のことながら
棚はすでにすっかり空になっていた。


ただ彼の名を記したプラスチックのプレートだけが、
ぽかりと空いた五センチあまりの隙間だけを従えて
その場所に突き刺さっていた。

その構図もまた、今でも鮮明に
記憶に残っているものの一つである。



なお、僕が最初の会社を辞めてしまうのは
この翌年の冬のことである。



以後おおよそ十年の間、主に経済的な理由から
アルバムを物色したりなど、そんなに頻繁には
到底できなくなってしまったのだが、

結局この『卒業』だけは
ある時どうしても手元に欲しくなり、
当時リイシューされた
8センチ・シングルで購入した。


メディアがメディアだけに、引越しの際に
紛れ込んでしまったままにしてはいるけれど、
探せばたぶん、まだどこかにあるはずである。



またずいぶんと長くなったので、
例によって続きはまた明日と
いうつもりではあるのだけれど、


でも、最後に一つだけ。

ひょっとしてここに来てくださっている中に
一人くらいはいらっしゃるかもしれない
今年これから卒業式を迎える予定の皆様へ。


卒業式なんてものは、人は一生のうち、
普通三回か四回、多くても五回くらいしか
経験することができません。

そう考えれば、退屈な儀礼も、
多少なりとも違って
見えてくるかもしれないなとも思います。


送辞もちょっとだけ
真面目に聞いてみるといいですよ。


会社辞める時には、誰もそんなもの
改めて読んでくれたりはしませんから。