ラジオエクストラ ♭32 English Man in New York | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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スティングの、87年の作品である。

ソロとしての二枚目のアルバムとなる
...NOTHING LIKE THE SUNの収録曲。
もちろんシングルカットもされている。


Nothing Like the Sun/Sting

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へえ、スティングって、
こういう音楽もやるんだ。


この曲を聴いた時の率直な印象は、
まあそういった感じであった。

冒頭から聴こえてくるサックスは
ブランフォード・マルサリスのプレイ。


この前作で、ソロとして一枚目にあたる
THE DREAM OF THE BLUE TURTLESなる
アルバムからすでに、このスティングは


バック・バンドを
ジャズ・ミュージシャンで固めて
編成しているのだけれど、

この曲のメロディー・ラインや
開幕の雰囲気は、なんとなくだが、
どちらかといえばジャズのそれよりも
古いシャンソンを思い出させる。


そのタッチに載る言葉が、
イギリス人であり、
ニューヨークである。


タイトルと、そして冒頭からして
もう抑えようもないほどまでに
独特の無国籍性が漂ってくる。

聴き所は間奏であろうか。

不意に完全にスウィング・ジャズの
リズムへと変貌したトラックが、


バスドラのストロークで
一瞬だけロックのテイストを醸し出し、

そしてすぐ再び、
まるで何事もなかったかのように
元の冬のパリみたいなタッチを取り戻す。


互いに反発しあっておかしくない要素が
一つのトラックの中で見事に統合されている。
よくこんなことができたな、と思う。


今さらながら、このスティングという
ミュージシャンの才能の
卓越ぶりに感服させられてしまうのである。

とにかく本当にいい曲である。


さて、ところがこの曲を
きちんと紹介するためには、


実は、話はやや微妙なところに
踏み込まざるを
得なくなってくるのである。

ニュー・ヨークのイギリス人。

ここで描き出されているのは、
間違いなく、スティング個人の
当時の所感でもあったのだろう。


英国出身の彼が、アメリカへと
活動の拠点を移した際に、
日々感じざるを得なかったものなのだろうと、

まあ自ずとそんなことが
想像されてきてしまう。


実際最初の頃は、
僕もそのように理解していた。


コーヒーより紅茶が好きだ。
トーストは片面だけを焼いてくれ。
歩く時はいつも、ステッキを手にするんだ。

繰り出される細部は、
英国的なスノビッシュさを、
あえて強調しているようにも見える。


そしてサビのラインでは、
Be yourselfなる呼びかけが繰り返される。


(周りがなんといおうと)君自身であれ。

――なんとも直截的なメッセージである。

それがすんなり入ってきてしまうところが、
やっぱりこの曲の卓越した部分なのだと思う。



さて、09年にこの曲とまったく同名の、
イギリス映画が一本制作されている。

クエンティン・クリスプという
英国出身の文筆家の
生涯を綴った伝記映画である。


あるいは同曲のPVを観たことのある方ならば、
本編でスティング本人のほかにもう一人、


いかにも上品な老婦人といった方の映像が、
繰り返しクローズ・アップされていたことを
覚えていらっしゃるかもしれない。

この人物が、クリスプなのである。

そしてこの方、
戸籍上の性は、実は男性である。


このクリスプ、いわゆる著名人の中で、
極めて初期にカミング・アウトしたことで
有名なのだそうである。

そしてこのEnglish Man in New Yorkの
最初のインスピレーションは、


スティングが当時まだ存命だった
このクリスプと親交を持ったことに
よるのだそう。


念のためだが、ここで僕の使った
この親交なる語に
性的な意味は含まれていない。

そういうことではなかったろうと、
少なくとも僕自身は理解している。


そしてまた、このクリスプも、
紆余曲折のあった人生の終盤に
ニュー・ヨークへの移住を
果たしているのである。


この彼(あるいは彼女)の経験が、
実はこの曲のリリクスの根幹に
どうやらなっているらしい。

さて、事ここに至ってしまえば、
同曲に歌われている疎外感が、


実はその根底に、
ある種のオーヴァー・ラップのような作用を
意図して仕組まれていることが
明らかになってしまうのである。


タイトルのニューヨークの
イギリス人という存在は、

サビの部分でregal alienなる表現に
パラフレーズされている。


――合法的な異邦人。

見た目では周囲と大差はないけれど、
常に内部に違和感を
抱えた存在でなければならないという事実。

クリスプをモデルに、
スティングの声で歌われる物語は、
否応なくそういうテーマを
浮き上がらせて見せてくることになる。



だがちょっと立ち止まって考えれば
たぶん原因こそ同じではないとしても、


こういう感覚は、誰もが多かれ少なかれ、
抱え込んでしまっている
ものではないかと思われる。

周囲との些細な差異。
実はその中でしか認識できない自己。


そして反発か、もしくは嘲笑のようにして
絶えずそこに在り続ける、
飽くことなき同化への欲求。


改めてこのリリクスの
テーマを確認してみる。

ニュー・ヨークに暮らすイギリス人。
そして、カミングアウトしたTS。
(註:TS=Transsexualismの意)


いわばこのギリギリの特異性が
二重に掛け合わされることによって、


逆にある種の普遍性へと到達してしまう。
この点にやっぱり唸ってしまうのである。


ちょっとだけ大袈裟に構えていえば、
アートというものが狙うべきは、
たぶんこういう場所なのだと思う。


独自の(あるいは特異な)モチーフを
丁寧に積み重ねていくことで、
むしろその方法によってしか到達できない、
普遍性へとたどりつくこと。


なかなか容易に手の届く場所ではない。


なお余談ながら、個人的には、
おそらくこのセクシュアリティーの問題が
世界に提起している、あるいは期せずして
炙り出してしまっているのは、


肉体に対しての、精神という存在の優位性、
あるいはある種の先行性なのではないかと


まあなんとなく、ぼんやりとだが
そんなふうに考えて把握している。


そうでないと、性同一性障害と呼ばれる現象が、
そもそもこの世界に存在していること自体が、


どこにもその根拠を見出せなくなって
しまうのではないかと感じるのである。



手前味噌ではあるけれど、少し前の
『オールド・フレンズ』という作品では、

その辺りをどこまで婉曲的に仄めかせるか
みたいなところにぎりぎり挑んでみた、
というようなつもりも
実はなくはなかったのだけれど、


まあ今回は予定外に
相当長くなってしまったので、
その話はまた別の機会に
譲ることにしようと思う。



ただやっぱり、この曲には、
僕のうちからこれだけの文字量を
呼び起こしてくるだけの
十分な力があるのである。

それはやはり、この曲が
ポップ・ソングの範疇などすっかり越えて、
ほぼアートの域にまで
踏み込んできているからだろう。



さらについでながら、僕はとりわけ、
この曲のサビの一節が
Regalという単語の備えた
潜在的ないかがわしさを


それこそ痛快なまでに
暴き出してくれているように思えて

そこもまた、とても気に入っているのである。