宮尾登美子さんを悼む | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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宮尾登美子さんがお亡くなりになられた。

昨年の年末のことだったそう。
慎んでご冥福をお祈り申し上げる。

享年88歳だったそうである。
最後まで悔いなく生き切った
御生涯であられたことを、
今はただ、一心に願うばかりである。


正直、また12月30日だったのかと、
思わないでもなかったのだけれど。



さて、僕はデビュー前の一時期に、
宮尾作品を数冊まとめて読んでいる。

たぶん『櫂』『春燈』の連作と
そのほかの数冊だったと思う。


お恥ずかしい話だが、
すぐにはどれとも思い出せない。


ただ『天璋院篤姫』や『クレオパトラ』には
手を出してはいないから、

あとはたぶん『伽羅の香』や
『蔵』辺りだったのではないかと思う。


とにかくあの頃、少なくはない冊数を
まとめて読んでいるはずなのである。



続けて読む気になったのは、
当然のことながら、
やはり面白かったからである。

ただし、宮尾さんの文章というのは、
ありていにいってしまえば、
とりわけ作品の冒頭に近い箇所では、
極めてとっつきにくい印象がある。


まず何よりも、一つ一つの文が、
どれも非常に長いのである。


たとえば文庫本一頁にある
句点(=「。」)の数を数えてみる。

宮尾作品の場合、この数値が
十を越えるということは
ほぼないのではないかと思う。


時には一頁に四つとか、
あるいはたった三つしか
見つからないようなこともしばしばある。


ちなみに自分の本で何箇所かやってみたら、
少なくない場合でも七つはあった。
そしてほとんどの頁で十を超えていた。

まあ、あまり長い文は書かないように
気をつけていることは確かなのだが。



さて、こういう、いわば息の長い文を書く際に、
十分な注意を払わなければならない要素に、
主語のねじれという問題がある。


極めて簡略な例ではあるが、
次の文をさらっと読んでみていただきたい。

僕が彼女の手を取ろうとすると、
ところがすぐ、ものすごい勢いで払いのけた。


表現されている場面は大体わかる。
でもなんとなく、どこかが居心地悪い。


この文には、おそらくそんな手触りが
あるのではないだろうか。

これは、ところが、という接続詞で
結ばれた二つの文のうち、


後半の文の述語、「払いのけた」の
主語に当たるものが
すぐには見つからないからである。


つまりこの語が省略されて
しまっているために
起こってしまう現象である。

この文の中で、主格の地位を与えられている
つまり主語として機能できるのは、
見かけ上は「僕が」という文節のみである。


ところがこの「僕」は
決して払いのけるという行為の
主体にはなり得ない。
この理由ゆえに、この違和感が起きる。


この種の違和感は、蓄積すると、
読み続けるのが嫌になる。

ちなみに上の例の場合ならば、
たぶん、最後の語を、
受動形の払いのけられた、に
する方がまだましなのだが、


それでもそこにはやはり
「僕」と「僕の手」との間の
齟齬が残ってしまうことになる。


であれば、今度は後半の文の方に
「彼女は」という主語を改めて補うのが
わかりやすさという点では
相当の利があるのだけれど、

そうすると今度は、一文の中に
複数回登場する「彼女」という語の位置が
些か近過ぎるという欠点が生じる。


上の例は二つの文のみの複文であるから、
かくのごとく事情はむしろシンプルである。
いびつさもある意味見えてきやすい。


ところが宮尾さんの文章の場合、
一つの文の中に複数の接続詞が
使われることもしばしばで、

さらには従属節や、
あるいは登場人物の発話までが
一見無造作に見えるほど
次から次へと放り込まれてくる。


むしろこういう文の中で、
すべての要素を正確に統御する方が、
実は面倒臭いのではないかと思う。


この手法を宮尾さんが、
意識的に採用されていたのか、

あるいは、ある意味直観的に
できてしまっていたのかは、
僕にはもう確かめる術はない。


ただし、もし上に示したような種類の
違和感を多少なりとも感じていたとしたら、


僕はたぶん、次から次へとその作品に
手を出そうという気には、
九分九厘なってはいなかったはずだと思う。

だからその点は、間違いなく
注意深く統御されているに違いないと思う。


あれだけの頁数の作品に、
きっちりと自分の文体を
ある種の齟齬なく貫ける。


この精神力、あるいは集中力、
でなければこだわりとも呼ぶべき態度は、
本当に敬意に値するものだと思う。


なお、この主語のねじれに関して、
さらに非常にややこしくなってくるのは、
実は作者や作品によっては、これを
わざとやる場合があるという点である。


ただ、素でそのままになっている場合と、
何らかの意図を持たされているケースとは、
やっぱりなんとなく違うものである。


まあこれ以上は長くなるし、
ほかにもいろいろ厄介な側面もありそうなので、
ここでは具体例までは出さないけれど、

たぶんリーダビリティーが高いということは、
上の例を含めた様々な種類の違和感を、
読み手の側に感じさせないということであろう。



さて、宮尾さんの文章のもう一つの特徴は、
時に執拗なまでに
細部の描写へと割かれる文字数であろう。


たとえば朝の家族の光景であったり、
あるいは庭先の花であったりに、
次から次へと筆が細部へともぐりこんでいき、
なかなかプロットが動き始めない。

正直慣れて来るまでは、この語り口に
多少じれったくなって
しまうようなことも頻繁に起きる。


ところがこれが、ある段階を過ぎると
一切苦ではなくなってくるのである。


むしろ、先がどうなるのか気になって、
やっぱりこれもありていな言い方に
なってしまうが、気がつけばいつのまに
頁を繰る手が止まらなくなっている。


もちろんテーマやモチーフといった要素は
まったく異なってはいるのだけれど、


どこかアーヴィングの作品群にも通じるような
物語自身のダイナミズムみたいなものに、
気がつけばすっかり
飲み込まれてしまっているのである。


だから、こういう手法によってしか
到達できない物語の深度というのは
間違いなくあるのだろうと思う。

筋を追っているというよりは、むしろ
文章に翻弄されているといった感覚。


そういうものをちゃんと与えてくれる本には、
率直にいってなかなか出会うことができない。


宮尾さんという方は、この日本という国の
習俗やある意味での歴史をモチーフにしながら、

この種のダイナミズムを
過不足なく形成することのできた、
極めて稀有な書き手であったと思うのである。


そしてこれは、どうすれば作れるか、
みたいなノウハウを確立することなど、
決してできない種類のものでもあろう。


ただ、書き手を自任する以上は、
せめて目指すだけは
しなければならない境地であることも
また、間違いのないところなのだと思う。

訃報に接し、まあそんなようなことを
改めて考えさせられた。


だから、半ば自身への備忘の意味も込め、
今回このテキストを
起こさせていただいたという次第である。



なお、僕が宮尾作品をまとめて読んだのは、
まだ出版などできる見込みなど一切ないままに、
ただ黙々と、いずれ『君の名残を』となる作品の、
草稿を書き溜めていた時期のことである。

あるいは実は無自覚なままで、
この方の作品群からある種の影響を
受けていたのかもしれないな、と、


ちょっとだけそんなことを考えもした。
そうであれば嬉しいなとも思った。


そういう訳で、昨日辺りから
手元に置きながらも、なんとなくずっと
手をつけそびれていた『朱夏』を
ぼちぼちと開き始めているところである。

――合掌。