『めぐりあう時間たち』 | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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『グレース・オブ・モナコ~王妃の切り札』も
存外に健闘を続けているようなので、
その二コール・キッドマンの作品から。

02年のアメリカ映画である。

めぐりあう時間たち

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正直にいって、面白かったのだけれど
ある意味ではすごく難しかった。


というのも、本作には異なる三つの
時間軸が存在しているからである。

主人公ともいうべきは、
時代を異にする三人の女性たちである。


一番現在に近い01年の時間軸における
ヒロインはメリル・ストリープ。
真ん中の1950年代のパートは、
ジュリアン・ムーアがヒロインである。


そういえばジョディ・フォスターの代わりに
『ハンニバル』に出たのがこの方だったっけ。

そしてニコール・キッドマンは
実在のイギリスの女流作家、
ヴァージニア・ウルフを演じている。


ウルフの生没年は(1882~1941)であるから
このパートが三つの中では一番古いことになる。


第二次大戦期に59歳で入水自殺した彼女は、
ジョイスとほぼ同時代に、
意識の流れという手法を切り拓いた一人である。

この意識の流れという手法が、
現在の、とりわけ一人称を採用している
作品群に与えている影響は、
おそらく測り知れないものがあると思う。


彼らの存在を一つの分水嶺として、
小説というものが変質したことは、
たぶん断言してかまわないだろう。


まあ、アーヴィングみたいに19世紀的手法で、
物語を終始引っ張っていく剛腕もいるのだが。

さて、しかしながらこのウルフの作品は
たぶん今ではそう簡単に読むことさえ
できないのではないかと思う。


それでも名前だけは、どこかで耳にした
気がするなあ、と思われる向きも
ひょっとしていらっしゃるかと思われる。


エドワード・オールビーなる米国の劇作家が
『バージニア・ウルフなんか怖くない』
というタイトルで戯曲を書いており、
(カナ表記は映画に合わせているので念のため)

これがかなりどころではなく有名で、
エリザベス・テイラーほかの出演で
映画化もされているからである。
まあ、こちらもいつか取り上げる。


さて、『めぐり合う時間たち』に戻る。

この作品、いわばグランド・ホテル形式の
ある種の変形だといっていいのかもしれない。

グランド・ホテル形式とは、
見かけ上ほとんど接点のない
複数のプロットを並行させながら
全体を進めていく物語の作り方の俗称で、


その名の示す通り、1932年の
アカデミー賞作品賞受賞作品である
『グランド・ホテル』に由来している。


近いところでは99年の『マグノリア』、
03年の『ラヴ・アクチュアリー』、
11年の『ニューイヤーズ・イヴ』といった
作品群が、この方式を採用している。

たとえば最初の『マグノリア』では、
並行するプロットは実に9本もある。


これらがいったいどういう形で収束していくのか、
というのが、まあこのグランド・ホテル形式の
作品群のいわば見所ではあるのだけれど、


それにしても、観る側としては、
とりわけ開幕当初は、いわば誰に寄り添って
物語を追えばいいのかがよくわからなくなる。

それを我慢しながらつき合う分だけ、
期待値は高くなるのではないかと思う。


そのプロットたちをまず辛うじて繋ぐのが、
お察しのように『グランド・ホテル』では
ホテルという場所であり、


『ニューイヤーズ・イヴ』では、
やはりそのまま、大晦日という日付である。

こういったある種の共通項の存在によって初めて、
それぞれのプロットを担う異なった人物たちが、
一つの物語の中に共存できるようになる。



では、この『めぐり合う時間たち』は、
はたしてこの問題をどう処理しているか。


そのある種の蝶番の役割を果たしているのが
ウルフによる『ダロウェイ夫人』という
小説作品なのである。

まあたぶん、この発想だけで十分に、
本作は評価するに値するものとなっている。


時間も場所も、おそらくはほぼ一切
共有していない主人公たちを、
一つの舞台に集結させるのに、
こういう手があったのか、という感じである。


もちろん、ばらばらなままでは
決して終わらないところが、
当然本作の醍醐味なのではあるが。

もしそれで済むのなら、ウルフの伝記と、
それぞれのヒロインの別の二つの物語として、
三本に分けて作ればいいだけのことである。
その方がよほどわかりやすいに決まっている。


決してミステリ的な謎解きではないけれど、
ああそうか、これとこれがリンクするのか、
といった驚きが、本作でも巧妙に配置されている。


もっとも念のためだが、
すべてがすとんと腑に落ちるという
種類のものでは、残念ながらない。

だからそういうのを期待されてしまうと、
多少拍子抜けしてしまうかもしれない。


でも、だからこそかえって僕なんかは、
ひょっとしてこれ、相当すごいんじゃないのか、
くらいに思わされてしまったのである。


たとえ時代や場所を異にしても、
逆にいえば古今東西のすべての人々の
その生涯においてそこに必ずあったそれに、

本作の三人のヒロインたちもまた
関わらざるを得ないでいる。


そういうものの存在へと、
観ているうち我々は、否応なく
注意を向けざるを得なくなっている。


つまり、本作が浮き彫りにしようとしているのは、
時間という存在そのものなのではないか。
そんな気がしてくるのである。

さて、多少もったいぶって書いてしまったけれど、
実はまあ、答えは最初から示されていて、
この一本、映画および原作小説ともに、
原題はそのものずばり『HOURS』なのである。


なるほどこういう描き方でしか、
立ち現われてこないものは
確かにあるなあ、と思わされたものである。



ちなみにキッドマンは、本作で同年の
アカデミーの主演女優賞を受賞している。

一時期は、クルーズの元の奥さん、
みたいないわれ方ばかりしていた彼女に、
ある意味復活をもたらしたというか、
正当な評価を取り戻させた一本である。



今回はさらに蛇足ながら。
先日『―モナコ』も観て来ました。


伝記映画として極めてちゃんとしてます。

キッドマンの役作りもさすがだし、
ぎりぎりだけど、クライマックスを不必要に
ドラマチックに脚色していないところも
至極好感が持てました。

ただ一箇所、どうしてそれが
ヒロインにわかるのかなっていうのが
ちょっとだけわかりにくいところがあって、
そこだけちょっと残念だったかなあ。


でも、観終わるとすぐ
グレース・ケリーやヒッチコックの映画が
なんとなく観たくなってきます。


このタイプの作品としては、
こう思わせてくれるっていうのは、
十分に成功の部類に
入るのではないかと思うのですが、
いかがでしょう。