『火の鳥・鳳凰編』1 | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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とりわけデビュー直後の時期、
自分がいったいどういうものに
ここまで影響を受けてきたのか、

といったようなことを、
割と真剣に検証せざるを得なくなった。


インタビューでそういう質問が出てきたり、
同様の内容の原稿の依頼を受けることが
それなりに多かったからである。


そこで改めて気づいたのだけれど、
結局のところ僕の場合

フィクションなるものの
基本的な性質みたいなものは、


ほとんどすべて、手塚さんの作品群によって
極初期のうちに叩き込まれているのである。


そもそもが、自分の経験している
現実では決してない構造の中で

喜怒哀楽やそのほかの各種の感情を
擬似的にだが通過するという経験を、


ほぼ初めてさせてもらったのが
彼の作品によってだったことは
おそらく疑いを差し挟む余地がない。


だから、それをもたらすことこそが、
フィクションなるものの果たすべき
基本中の基本の役割なのだと、

それは今も一応は
胸に刻みながらやっているつもりである。



さて、忘れもしないが小学校二年の時に、
家に『ブラックジャック』と


それから『ベルサイユのばら』とが
一巻から順番に揃い始めた。

当時はコミックに対する偏見はまだきつくて、
子供はそんなもの読んじゃだめだ、みたいな
風潮がそれなりにあったはずだと思う。


だけど全然文句もいわれなかった。
だから読んだ。
しかもそれこそ食い入るように。


要するにちょっと変わった親だったのである。

まあ、あの二人もそれがこんな形で
自分の子供に作用するとは、
たぶん思ってもいなかったのだろうけれど。


いずれにせよ、大変感謝しております。

さて、それからはもちろん、
自分で小遣いをやりくりしながら
いろいろと買いあさったものである。

『バンパイヤ』も『海のトリトン』も
『どろろ』も『W3(ワンダー・スリー)』も
全部揃えて、繰り返し読んだ。


思い出せば『走れ!クロノス』なんて一冊も、
なんだかすごく印象に残っている。


だがやはり、手塚治虫の代表作を
どれか一つ選べとなったら、
この『火の鳥』になると思う。

月刊マンガ少年別冊 火の鳥 4 鳳凰編/手塚治虫

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中でもこの『鳳凰編』がとりわけ好きだった。
昔も今もその評価はまったく揺らいではいない。


念のためだが、僕が持っていたのは
カドカワさんから出されたものではなく、
マンガ少年版である。版型のでかいやつ。


万が一知らない方のために
一応概略だけ解説しておくと、

この『火の鳥』は、手塚治虫が
日本という国の歴史の全体を
コミックによって
俯瞰しようとした試みである。


まずヤマタイ国の成立から幕を開け、
次の物語ではいきなり世界の終焉を描き、


それから再び過去に戻って大和朝廷を舞台にし、
かと思えば今度は終末直前の宇宙空間と
前人未踏の惑星とで、物語を繰り広げていく。

つまりは、想定しうる一番遠い過去と
それから一番遠い未来とから始めて、


一作ずつ、いうなれば内側へと少しずつ時間を移し、
最終的には現在において完結するという構想の下、
着手された作品なのである。


御承知のように残念ながらその全体は
作者の突然の死によって
未完に終わってしまったけれど、

それぞれの時間軸で展開されたドラマは
一編ごとに完結している。


だから未完とはいえ、読み終えてそこでそのまま
放り出されてしまうことがないのである。


ただ続編が最早決して描かれはしないことを
惜しむ気持ちは
どうしても起きてしまうけれど。

いずれにせよ、この基本構成だけでも、
率直にいって常人には
なかなかできない発想だよなと思う。


やっぱり手塚さんすごいなあ。
それしか言葉が出てこない。



今回の鳳凰編はその五番目の物語に当たり、
奈良時代の国分寺建立期を舞台にしている。

主人公は我王と茜丸という二人の仏師である。

もっとも、我王の方に関しては、厳密には
仏師といういい方は当たらないかもしれない。


物語はこの二人を軸に展開されていくのだけれど、

例によってここまでですでにもう、
ずいぶんと長くなってしまっているので、


この続きはまた明日ということで。