『ホテル・ニューハンプシャー』 | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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ジョン・アーヴィングという作家は、
基本リアリズムの枠組みの中で、
それを逸脱することなく
ある種のファンタジーを展開するという荒業を
いともたやすく成し遂げてしまうという
今になってもなお極めて稀有な資質を持った
重要な書き手の一人である。
少なくとも僕はそのように理解している。

おそらく僕らの前後の世代というのは
高校生から大学生といった、いわば足元の定まらない
浮遊感ばかりに日々苛まれているような時代に、
村上春樹さんからの洗礼を受けている。
あの『ノルウェイの森』が発表になる直前の時期である。
ちなみに同作の刊行は87年である。
だからあの頃僕は『ピンボール』や『羊』を
それこそ我を忘れて読み耽り、のみならず
読了した途端にはもう再読を開始することさえしていた。
そしてあの『ハードボイルド・ワンダーランド』には
誇張ではなく圧倒された。それこそ完膚なきまでに
叩きのめされたような気分になったものである。

その春樹さんがあの頃随所で、フィッツジェラルドと
カーヴァーとあわせて積極的に紹介していたのが、
このアーヴィングだった。
そういう訳で僕もこの『ホテル・ニューハンプシャー』と
その次の『サイダー・ハウス・ルール』とは
ハードカヴァーで読んでいる。
ちなみにいうと『ガープの世界』は
あの伝説のサンリオ文庫で持っていた。
探せばまだどこかから出てくるはずである。

しかしこのアーヴィングという人の小説作法は
ひどく不思議、というか不可解でさえある。
決して読みやすい訳ではない。
個々の作品が極めて長大だということもあるけれど、
何よりもこのとっつきにくさの最大の理由は、
彼が採用している語り口にある。

たとえば登場人物の一人にとって重要な出来事が
ある病院を舞台にして起こるとしよう。
すると彼はまずその町の来歴や風俗、それから
病院の成立の背景や、事件当時の施設の規模などから
入ってくるのである。そして多くの場合、
その描写は作者の、つまりいわゆる神の視点と
称されるスタイルで導入されている。

詳細は割愛するけれど、現在はもちろん当時でも
すでにこういう書き方は決して一般的ではなかった。
一人称にせよ三人称にせよ、作中の視点は、
たとえ複数採用するとしても、ぶれないことがよしと、
いわば誉められるべきとされるような傾向があった。
ジョイスによる意識の流れの手法の
提示以降は尚更だった。

当然といえば当然なのだが、だからアーヴィングは
このスタイルを19世紀英国の作家、
チャールズ・ディケンズから継承しているのである。
それゆえに作中では幾つかディケンズが引用されている。
あの『クリスマス・キャロル』の作者といえば、
あるいは通じがいいかもしれない。

だから彼の作品を読み始めた時の手触りは、正直どこか
居心地が悪い。誰に寄り添い、どんな出来事を期待して
筋を追えばいいのか、なかなかつかめないからである。
だが物語が進むにつれて、導入されていた
すべての要素があちこちからじわりじわりと効いて来る。
後ろへ行けば行くほど頁をめくる手がどんどんと早くなる。
この興奮は、他の作家の作品では
なかなか味わうことができない。
おそらくそれは、物語自身が自分の力で動き始める
そのダイナミズムの作用なのだろうと、
そんなふうに昔からそこはかとなく思ってはいるのだが、
今なおそれ以上うまく説明することができないままでいる。

さて、ようやく映画の方の話になる。
『ホテル・ニューハンプシャー』は84年の公開作品。
いや、もう三十年前か。唖然とするな。
まあ、だからここで見られるジョディー・フォスターは
あの『告発の行方』以前の姿だということになる。
ほかのキャストには、ロブ・ロウとボー・ブリッジス、
それにあのナスターシャ・キンスキーが
熊の役で名前を連ねている。どういう意味かは是非作中で
確認していただければと思うので、ここでは触れない。

アーヴィング作品の映像化を見た時には
決まっていつも感心させられてしまうのだけれど、
たとえ多少のアレンジはあったとしても、どれもが
実に丁寧に、原作で描写されている出来事の一つ一つを
きっちりと消化していっていることに驚かされる。
少なくとも僕が見た三本はすべてそうだった。
念のためにいいそえて置くと『ハンプシャー』のほかは
『ガープ』と『サイダーハウス・ルール』の二本である。
とりわけ『サイダーハウス・ルール』では、
原作では二世代にわたって語られているはずの物語が、
あるアイディアの改変で、一人の主人公の経験へと
極めて巧妙に圧縮されているのである。
よくこんなことができたな、と思ったら、
なんと脚本がアーヴィング本人だった。納得である。
もちろん制作サイドが依頼し、本人が引き受けたからこそ
実現できた布陣であることは疑いの余地もない。
いずれにせよ、どの作品においても、制作や監督を始め
関わったスタッフのすべてが原作をとても大事にしている、
その証拠なのだろうと思っている。

粗筋の紹介も、やはりここでは控えておくことにする。
『ハンプシャー』の圧巻はそのラスト・シーンである。
――Life is a Fairytale。
まさに作品の主題であり、むしろ作品そのものでさえある
このラインをあるキャストが口にする。すると、
それを合図にオッフェンバックの『舟歌』が始まり、
そして、さながらカーテン・コールにも似た
芝生の上の園遊会の光景が画面一杯に繰り広げられるのである。
そこにはさも当然のように、作品という舞台からとっくに
退場してしまった人たちの姿も紛れ込んでいる。
映像でしかできない、この壮大な物語の幕引きに
これ以上はなく相応しい演出だと思っている。

このシーンばかりは、見るたびにため息しか出てこない。

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