することなし! 哀れ三連休 | 強化人間331のブログ

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サイボーグである強化人間331の、つれづれ山行記録。
さしておもしろくもないのは、ご愛嬌。

右ひざ、BREIKED!

 

であります。FFT(ファイナルファンタジータクティクス)というシミュレーションRPGの傑作があるのですが、ナイトのアクションアビリティに「戦技」というのがあった。「ウエポンブレイク」とか「シールドブレイク」とかですね。

 

早い話が敵の装備品をぶっ壊すわけ。騎士道精神あふれるナイトともあろうものが、ちまちま相手の剣やら盾やらを破壊するというのはどうにも理解に苦しむのですが、あのゲームは各種剣技(「聖剣技」や「剛剣」など)が非常に強力なため、敵の武器を壊すのは常套手段でした。戦技は装備武器の射程に依存するため、弓や銃でかまされる戦技は超強力。手も足も出ない遠距離から武器防具を破壊し、白兵戦のときには丸裸、といったケースが往々にしてあった。

 

なにが言いたいのかというと、こないだの山行でわたしの膝がブレイクしたわけです。さながら「ニーブレイク」といったところか。これには参りました。せっかくの三連休なのにまったくやることないっていうね。山へいけないとここまで暇だとはちょっとした驚きですよ。なんだかんだ言ってこうも依存していたとは……。

 

というわけで今回書くこと、なし! しかたないのでだらだら私事やら新しい趣味を開発した話やらを書き連ねていきましょう。これどうやったらおもしろくできるのやら……。

雑記はこうして随時写真を織り交ぜていくことにより、どうかこうか延命措置を図るという構成。誰が素人の管巻きなんか読みたがるのか、というのがわたしの持論なので。さて写真は5年前の大日ヶ岳。なんでもない1枚ですが注目すべきは入道雲! 最近わたしは気づきました。盛夏の雲を見てると死にたくなってくることにね……。

 

①献血における意図的な人員配置


10/7土曜日、しょっぱつはとりあえず献血です。人間これをやり出したらいよいよ泥沼とお思いください。よっぽど暇なやつしかいきませんよこんなところ。今回はちょうど鶴舞図書館にSF本を取り替えにいくついでに寄りましたが、三連休の初日なのにけっこうな人でにぎわってる。ほんとこいつらほかにすることないのかよ? (お前はどうなんだお前は

 

そしてわたし、あることに気づいたのですよ。ずばり、

 

若い看護師さんは男の担当にならないよう意図的に遠ざけられている!

 

であります。ほんとかよ、と疑ってるそこのあなた。わたしは暇すぎてだいたい2~3週間に一度は献血へいってるわけですが(これは博愛精神を自慢したいのではなく、まったく言語に絶するほどの暇を持て余してる嘆くべき現状を吐露してるだけです)、いままで一度も若い娘さんにぶすっと針を刺してもらったことがない。

 

いつも熟し切ったマダムばっかり。それがだめだと言ってるわけじゃないのですが、若い男性というのは娘さんがいれば目の色を変えるものです。ですから今度こそは! といつも期待を胸に吸血されにいくのですが、毎度敗退のくり返し。そして迎えた今回、献血ルームの動きをよく観察しておりますと、

 

若い娘さんたち、デスクワークやってる!

 

という驚くべき事態が露見したのであります。デスクワークというか、備品の整理とかそういうの。これにはもしかしたら新米は雑用をやらされているだけだという見解もありえましょう。ただ若い娘さん全員が新米というのは合理性に欠けるし、いついってもそうした役割分担なままだという事実を説明できない。

すると無用なロマンスが生まれる機会をあらかじめ摘んでるのでは、という邪推もしたくなろうというもの。真相は依然闇のなかではありますが、もしいらんお節介を赤十字が焼いてるのだとしたら、これはもう許されざる蛮行であると、わたしは断罪するにやぶさかでない! いつか若い娘さんにぶすりと太い針を刺してもらえたら。そう夢想しながら献血編を終わりたいと思います(なんだこれ)。

お気に入りの1枚であります。どこの高峰かとお思いでしょうが、実はこれ、ドカ雪の降った4年前、鈴鹿の竜ヶ岳山頂直下なんですなあ。中道を直登し、先行者もおらずオールラッセル。強風で積もった雪が吹き散らされる薄暮の世界。圧巻の一言でした(その後日没して半死半生の目に遭ってますが)。


②新趣味開発、おちょぼ稲荷

やることがないというのは思った以上に精神をむしばみます。10/8日曜日、お外は目が痛いほどの晴れ模様にもかかわらず、膝の負傷具合を鑑みるにとても山へいけるような状態ではありません。無為に時間がすぎていき、気づけば16:00すぎ。なんという時間の浪費でしょう! これはまずいと重い腰を上げ、近所のおちょぼ稲荷という神社へ唐突にいってまいりました。

ところでみなさん、岐阜県は北部と南部に分割できるのをご存じでしょうか。北部はわれらがヒーロー、圧倒的集客率を誇る飛騨高山を擁し、他県どころか他国からも観光客を呼び寄せる優等生っぷりを発揮しております。

さるぼぼ、白川郷、高山の古い町並み、スーパーカミオカンデ(旧神岡鉱山を利用したニュートリノ検出施設)、そして北アルプスの玄関である新穂高。ざっと思いついただけでもこれだけの観光資源を持ってます。そのうちのひとつ、白川郷にいたっては世界遺産ですらある。

対照的に岐阜南部は居住地としては人気ですが(愛知県民の植民地と化して久しい。それはべつにいいんですけど、腹が立つのはこいつらが岐阜県を見下してること。家賃の安さ目当てで貧乏くさく移民してきてるくせに、お世話になってる自治体は蔑む。こんな態度を容認していてはますます岐阜県の地位が低下するいっぽうです。いまこそ傲慢な愛知県民を叩き出し、もって岐阜県の独立をここに誓うべきときだ! 独立憲章発布! ①愛知県民の高慢ちきな鼻っ柱をへし折れ そもそも蔑むような地域に住まなきゃいい。ちがうか? そうしたければ地元を出る必要はない。出なければならないほど家賃支払いに回す金がないのなら、黙って忍従しているべきだ ②愛知県民は(以下略))、めぼしい観光資源は本当に少ない。

岐阜城、長良川鵜飼い、長良川花火、ほらね、思いついたやつでも季節性のものが2つも混じってます。オールシーズンで人気なのは正味な話、岐阜城くらいのもんでしょう。あまりにも観光格差があるため、飛騨県、美濃県なんて言われてるくらいですからね。

そんななか岐阜南部に燦然と輝く観光地、それがおちょぼ稲荷なんですな! この神社は日本三大稲荷などと呼ばれていい気になってまして、お正月ともなれば商売繁盛を願う他力本願なやつらであふれ返るといったありさまに。

どことなく三丁目の夕陽っぽい雰囲気。映画は見てませんが。地元のお祭りがあったらしく、遠くから太鼓と笛の音が鳴り響き、元気いっぱいの子どもたちが町内を走り回ってました。童心に帰ったような気分です。ちょっと死にたくなりましたが(またか)。

 

参拝の風習がたいへん独特で、それは油揚げを買って拝殿に投げ込むというしろもの。あの光景は圧巻ですよ。みんなが寄ってたかって油揚げを投擲してる図というのはそうそうお目にかかれるもんじゃない。あれは怖かった。一度お正月にお越しいただき、ぜひあの奇祭を見ていただければと思います。そしてあなたも油揚げを投げ込むのがよいでしょう。

風景はこんな感じ。17:00台だったのもあり、薄暗い神社には人影もほとんど見られません。三連休の中日だったので、お昼どきはにぎわったのでしょうなあ。出店や商店街もすっかり店じまいして、うら寂しい雰囲気でした。

この近辺には野良猫が大量に住みついてまして、前回友人M岡といったときはそこらじゅう猫だらけ。今回は日々の生活に猫成分が足りてないと思ったため、わざわざ足を運んだのでした。

 

結果的に言うと、猫、まったく見られず! けっこう執念深くいそうなところを嗅ぎ回りましたが影すら見られませんでした。もしや殺処分されたのか? 消化不良のまま無念の敗退でした。

 

そしてわたし、かねてから計画していた新たな趣味の開拓に本腰を入れて乗り出したのですよ。それはずばり、

 

一人カラオケ!

 

であります。素人ながら高音域がけっこう出るのがちょっとした自慢でして、ビジュアル系みたいにキンキンの高いキーでなければ割と苦もなく歌えてしまう。ポルノグラフィティというバンドが好きなんですが、彼らの代表曲である「メリッサ」くらいなら余裕ですね。

 

思えば鍛錬の日々でした。カラオケに初めて連行された18歳のころ、それはもうひどいもんでした。音程はとれない、声は出ない。恥ずかしい。ぼろぼろのメタメタになって、命からがら逃げ帰ったのでした。

 

それから負けず嫌いの悪癖が顔を出してきます。ひたすら車内で歌いまくり、徐々に技術を上げていく。いつしかマクロス7の「突撃ラブハート」でさえ(調子がよければ)歌い切るまで成長しました。

 

でもみんなでいくカラオケって苦痛じゃないですか? 歌いたいアニメ曲も封印し、一般アーティストの曲だって誰も知らないカップリングはなんとなくばつが悪い。順番が回ってくるまでみんな退屈そうだし、いったいこの時間は誰が得をしてるんだ? と思わずにはいられませんでした。

 

だらだらと書いてきましたが、率直に言ってソロカラオケは、

 

めちゃくちゃおもしろい!

 

騙されたと思って一度やってごらんなさい。誰に気兼ねするでもなくどんな曲でも歌い放題、さらに身振り手振り交えてマジに歌唱するのも自由自在。気が向けば採点だってできちゃう。おまけにマイクはずっとあなたものですから、他人の聞きたくもない歌を聞かされる退屈なインターバルもなし。

31年生きてきたなかでもっとも楽しいカラオケでした。ほんといままでの多人数カラオケはなんだったのかってくらいの歴然たる差でした。窮屈な思い――みんなが知ってそうな曲を選択させるような圧力、さも他人の歌に興味があるかのようなふりを強要する雰囲気、自分の番に雑談で盛り上がられたときの寂寞感――をしてまで高い金を払うのはばかげてます。どうせ同じ金を払うならソロで思いっきり楽しんだほうが1.8×10の7乗倍は楽しい。

これにて新しい趣味を発掘してしまった。ずばりソロカラオケですよ。これもう金曜日の夜は毎週いってもいいくらいですなあ。これにてますます他人と没交渉になり、ますます彼女やら結婚やらから遠ざかっていくんでしょう。

これは南アルプスの超ハードコースである奈良田~大門沢~農鳥岳周りの安息の地、大門沢下降点ですね。このコースは奈良田(700メートル)から農鳥岳(3,000メートル)へ詰め上げる、標高差2,300メートルという驚天動地の登山道。このときはなめくさっており、10時に奈良田を出発、10時間もかかって農鳥小屋のテント場に着いたっていうね。いま思い出しても悪夢がよぎる。どうしてもここを通りたいかたは、逆回りの広河原~北岳~農鳥岳のほうがよいでしょう。


③無理をして膝にとどめを刺す!

懲りない人間はいるもので、肥満への恐怖に負けて岐阜市のシンボル的存在である金華山へ軽く2時間ばかり登山へいき、さらにジムにて7キロばかり走ってしまいました。やってるあいだは平気だったのですが、終わってから猛烈に痛んできちゃった。

1年ほど前に傷めた靭帯のときも似たようなことをやっており、みずから回復を遅らせるという顛末でした。なぜおとなしくしていられないのか? ほとほと自分の学習能力のなさに嫌気が差してきます。

きたるべき紅葉狩りシーズンに備え、ここは忍従のときであります。しっかり足を休め、回復に専念したいと思います。ただそれだと基礎代謝だけじゃ現在の体重を維持できないんですよねえ。絶食するわけにもいかないし、悩みどころです……。

④SFなど

締めはもちろんこれ。トリに誰も興味がないであろう話題を持ってくるのがわたしの流儀です。最初さえおもしろければあとは惰性で最後まで読んでもらえる。そうした姑息な意図があるのですね。ですからもしあなたが創作を志すのであれば、最初にぐいぐい急展開をもってくるとよいでしょう。あとはまあ、よほどひどくない限りは惰性で読んでもらえます。

読者におもねるあまり(あるいは自分が考えた設定をドヤ顔で披露したいあまり)、のっけにだらだら物語世界の設定や登場人物のうんざりするほど長い描写をやってるのが(ウェブ小説を筆頭にして)しばしば見かけますね。あれはいかんと思います。そういう要介護読者向けのマニュアル小説は1930年代のSFがやってたことで、ロバート・A・ハインラインが1950年代という太古のむかしに打ち壊したシステムであります。彼は近未来や月世界を説得力ある筆致で描き、その時代のシステムを所与のものとして扱う(ヒントをちりばめて読者に想像させる)という(当時としては)画期的な手法を使い、SFに革新をもたらしたのでした。

それはそれとして最近は読者の質が下がったのか、ふしぶしから設定や描写を読み取るのが億劫らしく、1930年代みたいなのが受けてはいるようです(とくにウェブ小説のラノベ界隈で)。嘆かわしい限りです。かといって創作側がよくのたまう「俺たちはあいつらのレベルに合わせて書いてやってる」という主張もまったくクソであります。

垂れ流しでも楽しめるコンテンツ(テレビドラマやネット。これらの媒体を貶め意図はなく、たんにそうしたものの筆頭だというニュアンスで使ってるにすぎません、あしからず)と同じようなことをしなきゃ読者を獲得できないようなしろものは、これはもう率直に言って文字にする必要なんかまったくないんですよ。そして文字にする必要のないものに群がる阿呆ども向けの養分がなくなったからといって、キモオタどもが

ラノベがなきゃ死んじゃう!

なんて殊勝なことを言うと思いますか? いくらでも深夜アニメとやらで萌えキャラが総出演してるんだから、非現実的な美少女ハーレムの供給をラノベだけに頼る合理的な理由はありません。ですからキモオタ向けのクズ小説を書いてる創作者はそもそも存在する必要がなく、したがってそうした小説自体も存在意義がないと結論できます。

わたしに言わせれば、なんのテーマもなく美少女が無条件で主人公にベタ惚れする小説の、いったいどこにおもしろみを見出せばよいのかさっぱりわかりません。こんなのを読んで読書通を気取ってるのなら、そいつはもう死んだほうがましです。いちから全部創作者が示してやらなきゃまともに本も読めないなら、そいつは始めから読書なんかする必要はないし、読ませてやってると思ってる最高に愚かな創作者は、そうした意識そのもののせいでみずからをより低いレベルへと貶めていることを気づくべきなんですよ!

なんでわたしが執拗にああいうラノベを攻撃するのかといいますと、あれらが(物理法則とか科学理論をきちんと押さえたという意味での)まじめなSFと十把一絡げにされ、ダストシュートへと放り込まれているからです。ハードSFに出てくる宇宙船と、クズラノベに出てくる宇宙船はまったくべつものですが、誰がそんなこと気にしますか? 宇宙船は宇宙船です。非常に迷惑ですね。SF原理主義者だなんだと言われようがかまいません。一緒にしないでほしいですマジで。

SFオタクのどうでもいい論評が終わったところで、たまには飯テロでも。これは西日本のどっか(アバウトすぎるやろ)で食べた、茶そばを鉄板で焼いたというめずらしい料理。これがかなりおいしかった記憶があります。旅行先でも新規開拓に二の足を踏み、適当なチェーンに入ってしまいがちなわたしとしては、ちゃんと冒険した稀有な例でありましょう。

 

◎フラックス スティーヴン・バクスター 訳 内田昌之

 

いよいよSF論評ですよ! ここまで読んでくださったかたなら、あとはもう惰性で最後までいっちゃってください。本作は中性子星に住めるよう改造された10ミクロンのナノ人間が主人公。巻末に舞台の概要がついてますので、想像しづらい人はそちらを先に読むのもよいでしょう。

 

中性子星というのは恒星が超新星爆発したあとに残るカスみたいなものでして、たかだか20キロメートル程度のサイズに太陽質量の何百倍もの質量が詰め込まれているという嘘みたいな天体です。内部は高重力によって原子核が陽子と電子に分解し、さらにぎゅうぎゅう押されるもんだから陽子が電子を吸っちゃって、中性子になる。そうしてほとんど中性子だけで構成される物体になるというしくみ。

 

「フラックス」はそんな途方もない天体を舞台にしながらも、科学的な雰囲気を失わず、かつちゃんと小説としてのストーリーもおろそかにしないという離れ業を達成した一品。シリーズものではありますが、これから読んでも問題はないでしょう(先に「天の筏」、「時間的無限大」というのがあります)。

 

本筋とは関係ない訓示をひとつ。カール・セーガンという天文学者が遺した言葉なのですが、彼はエッセイで疑似科学を批判する際、「そんなもの(疑似科学が取り扱う心霊とか占いなど)より、中性子星のことを考えてみろ。これはいわば10キロメートルもの原子核であり(原子核は通常10のマイナス15乗メートル)、これのほうがよっぽど驚くべき現象ではないか?」と問うています。まったくその通りだと思います。フラックスを読んで、科学啓蒙に力を入れたセーガンの想いを感じてみてはいかがでしょうか。

 

◎ユーモア・スケッチ傑作展 訳 浅倉久志 ほか

 

SFではないのですが、わたしの崇拝する故浅倉久志さんが好きだったというアメリカのユーモア掌編のアンソロジーですね。だいたい1920~40年代くらいのものが多い(禁酒法の話とかふつうに出てきたときは隔世の感を覚えました。マジで酒が飲めん時代があったんやなあ)。

 

合う合わないはあるかと思いますが、爆笑とはいかずともくすりと笑わせてくれるものがちりばめられており、上品な味わいを楽しめます。フランスの旅行ガイドなんかよかった。ためになるフランス語とかいうのがあって、「こんな木賃宿は初めてだ!」とか「きれいどころに会ったためしがねえや!」とか、こんなのばっか。気が向いたらぜひ。

 

◎ザ・ワーク・オブ・ネーションズ ロバート・B・ライシュ 訳 中谷巌

 

えー、これもSFではなく(そこ、喜ばない!)、小説ですらないのですが、よかったので。1980年代の終わりに書かれた21世紀の経済的世界像を描いた本です。グローバリゼーション、生き残る人材、アメリカは日本企業に蹂躙されているのかそうでないのかなど、非常に刺激的なトピックを扱ってますね。

 

わたしはなんとなく自己啓発っぽい感じがするので経済学系の本は避けてたんですけど、これはすごいわ。労働長官を歴任してるライシュという人物はさすがだと思います。驚くべきはこれが1989年の出版だという点。ネットもなかったあの当時にこれほどの未来予知をやってのけるとは。いまからでも遅くないと思いますので、興味のあるかたはぜひ。

 

◎銀河遊撃隊 ハリィ・ハリスン 訳 浅倉久志

 

きりがないのでこれで最後にしときましょう。こってこてのスペースオペラで、若き天才科学者たちが美しいヒロインとともに偶然できちゃった宇宙船を駆り、いろんな星で大活躍、最終的には銀河同盟軍を結成して悪の枢軸をやっつけろ! てな具合。

 

こういういかにもアメリカ人が好きそうな帝国主義的なストーリーは1930~40年代くらいに受けたようで、E・E・スミスのレンズマンシリーズなんかがその筆頭でした。スターウォーズなんかはこの系統の流れを汲んでますね。

 

「銀河遊撃隊」はそれらのパロディをやってるわけですね。知ってる人間からすると、「この展開はあの作品をディスってるのか?」とわかって楽しい。もちろんそうした細部のお遊びがわからなくても十分楽しめます。展開の早さ、ユーモアのかましかた、そして最後のハッピーエンド。そうきたか! と苦笑せずにはいられません。著者はよっぽどお仕着せのアメリカ的思考に辟易してたにちがいありません。

 

最後に訳文のすばらしさを強調しておきましょう。例によって浅倉さんなわけですが、ユーモアSFをこよなく愛すると公言していた通り、これ以上ないほどノリに乗って訳されたごようす。最後まで手抜きのないすばらしい訳文でした。

 

負傷した足を抱え、当分山はおあずけ。次の記事がどうなるかいまから心配です。ソロカラオケとSFネタで押し切るのか? 誰がそんなもの読みたがるんだ? でも待てよ。そもそもいつもの山行記録だって誰が読みたがるのか? そうなるとこのブログの存在意義が……

 

おわり