【安全保障を語る(下)】容認反対まとまることに意義 民主安全保障総合調査会、北沢俊美会長 | 毎日のニュース

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 閣議決定で憲法解釈を変え、集団的自衛権の行使を容認することは今までののりを踰(こ)える。しっかりした国会の議論や国民的理解がある中で検証しながら整理されることはあってもいい。だが、内閣だけで変えることには反対だ。憲法違反のそしりは免れない。

 安倍晋三首相は「最後は私が決める」と言うが、行政権が内閣に属するのは当然だ。一方、行政権と憲法順守の規定の兼ね合いの中、国の形を変えるものを一内閣の憲法解釈で変えることは極めて不穏当で、立憲主義を無視した行動だ。

 昭和47年の政府見解は明らかに個別的自衛権に限定していたのに、閣議決定に含まれた。「砂川判決」の解釈がダメになり、都合良く使えそうだから飛びついたご都合主義だ。集団的自衛権という無理筋なものを強引に認めさせようとし、無理が通って道理が引っ込んでいる。

 武力行使の新3要件にある「明白な危険」とは、どういう場合をどういうふうに認定するのか。「密接な関係にある国」は、どこなのか。そこを国会で明らかにしていくと曖昧さが出てくる。

 ◆無意味な必要最小限

 必要最小限と言っても、武力行使は相手を殲滅(せんめつ)しなければ意味がない。わが国が攻撃されたときは専守防衛で相手を殲滅すれば事は治まるが、集団的自衛権になると、日本が「必要最小限です」と言ったところで国際部隊の戦争状態の中ではその論理が認められるはずもない。集団的自衛権の中で必要最小限と書いた意味も分からない。