子どもの頃からの友人 結婚してからのお知り合い

そして 我が子の成長を共に経験したお仲間が

それぞれ80代に向かって居ります


元気印だった方々が 昔から言われている「年貢の納め時」の

言葉通り 病気に罹ったり 果てに精神を患ったり・・・


心身ともに健やかな方々までもが 事故で骨折をして2・3カ月の入院生活を

経験してしまったりして居ます


「齢には勝てない」の言葉をしみじみと味合う年頃?になって来た

今日この頃です


先日 久しぶりにお会いした方から「物忘れがひどくて・・・」と

打ち明けられて「私も同じです 何かするのにも時間が掛かって

困りますね」立ち話でしたが楽しく語り合いました

毎日 歩いていらっしゃるとの事で「又 お会いしましょうね」と

お別れしました


そして 2・3日後 お会いした時に「まぁ 何年ぶりかしら」と・・・

先日お会いしたばかりなのにと 少し変に感じましたが 私の事を

解っているのですからと思い「この間 毎日歩いているとお聞きしたので

又会えるかなと思っていましたよ」と言いました

「やっぱり 私覚えてないのよね」と「思いだせないの?」

「すぐに忘れてしまうの」と・・・

「ご家族に相談して病院へ行った方が良いですよ 今は良いお薬が

あるのですから」

「有難うございます 忘れない内に家の者に言います」と

お帰りになりました


二か月後 ご主人に付き添われて通院しているその方にお会いしました

元々はっきりとしたご性格なので元気を取り戻したご様子が良く解りました

「お宅へ行きたいけれど道が解らないの」「あせらないで養生して下さいね」

又会いましょうと手を握り合ってお別れしました


その方は私より四才上の78才です とても生真面目な方で 一生懸命に

ご主人を支えて会社を興した頑張り屋さんでした

社長の補佐役のかたわら 趣味も沢山にもって居て多忙な毎日を送って

いましたが ガンの手術後はのんびりと過ごす様になり 海外旅行へも

何度もいらっしゃいました


今では二人の息子さんが会社を継いで 会長ご夫妻になって悠々自適に

お暮らしなのでしたのに思いがけない事になってしまい 思いなしか

ご主人様の方がお疲れのご様子でした

しっかり者の奥様がご病気になってしまい さぞやお辛い事でしょう

老夫婦は「運命共同体」ですものね


朝子の部屋



先日、大変に懐かしい方にお会いしました


ヨーカドーへ買物に行く時、前方から杖をついた小柄なご老人が・・・

「Aさんでしょう、お久しぶりです、○○です」

「やあ、しばらくです、よく声をかけて下さった」

「お元気で何よりです、お互いに齢をとってしまいましたね」

「今年の一月で満95歳になりました」「私もこの一月で75歳に・・・」


十年近く奥様を介護して、その後、奥様がお亡くなりになられてからも

ずーっと一人暮らしをしている事は人様からの話で知って居りました

そして時には、知人の告別式でお見かけする事もありました


30年以上毎年かかさず年賀状・暑中見舞状には詩が綴られて届きました

最初の頃「ご迷惑ですか?」と恥かしがっていらっしゃいましたが

「どうぞ、拝見させて下さいませ」「誰かに見て貰えると励みになります」

それ以来、恒例になって居りまして、今年も年賀状を頂いた直後の事でした


今から30数年前、町内会の「子ども会々長」のA氏と初めて会いました

二年間だけの副会長として連絡係をしただけのお付き合いでしたが、とても

腰の低い優しい方でいつもニコニコして居て、まだ現役でお勤めでしたので

「名前だけの会長で申し訳ない、どうぞ、お母さん方で好きなようにやって

下さい、町会への橋渡しだけは責任を持って致しますので遠慮なく云って

下さい」

そして、私は無事に副会長を終える事が出来ました


今では当時、町会でご一緒した方々はあの世に旅立たれてしまいました

でも、Aさんだけは今もしっかりと生きて居られるのです

「二人の娘が週に何回か来てくれますので助かっています、有難いです」

「お互いに転ばない様に気を付けましょうね」笑いながらお別れしました。


”明るく元気で長生き”はとても難しい宿題だという事を改めて実感させられました。


朝子の部屋



謹んで新春のお慶びを申し上げます


平成二十四年度の七月以降は更新する事が出来ないで

申し訳ございませんでした


一方的にご訪問をしてペタをさせて頂いていましたが

今後とも どうぞ宜しくお願いします


皆さまのブログを拝見して元気を頂いて毎日を変わりなく

過ごして居ります


この一月 後期高齢者の仲間入りとなりました

今まで元気だった方々が「一病息災」と なぐさめ合って

精密検査やら何やらと心身ともに頑張らねばならない年頃となりました


ひと足先に病を頂いた私でしたが お陰様で今年の冬の寒さも

苦にならない程の体調の回復が感じられるこの頃 今更ながら

人間の体の仕組みの凄さや精神的強さの大切な事を思い知った次第です


これからは、老い行く我が身を興味深く見極めて行こうと思って居ります


そして「自分史」を最後まで書ける様に自分自身に願って努力します



朝子の部屋

朝子の部屋

昭和21年12月1日マデ本校初等科第三学年ニ

在学セシコトヲ証ス   床丹国民学校


横浜市立芦穂崎国民学校へ初等科第三学年の

二学期より転校しました


横浜市立芦穂崎小学校第四学年の課程を修業した

ことを証明致します   昭和22年3月23日


この様に学校が「国民学校」から「小学校」と成り

証書の字も片仮名が平仮名へと変わって居ります


昭和21年12月、北海道より横浜市鶴見の地へ

帰って参りました


戦前は東京在住だった叔母(母の妹)が偶然にも、その時は

鶴見に住んで居りまして・・・

今になって考えると、よほどこの地に縁があったのでしょう


叔母のご主人は大手の石油会社に勤めていたので、その社宅

には叔父・叔母・二人の男児と叔父の弟さんが三人も同居して

いる有様でした

そこへ私たち三人が一時お世話になりまして、貨車で運んだ食料

と共にお互いに助け合う事になりました


当時の社宅は平屋の一軒建で食糧難のために周囲の空地には

所狭しとばかりに野菜が植えられて居りました


そんな訳で間もなく土地を借りてマッチ箱のような家を建てて

親子三人がやっと落ち着くことが出来たのでした


その頃、祖母は東京の伯母の家に居りました、戦前からの商売を

立ち上げたばかりで伯父・伯母共に大変に忙しかったからでした


学校とは名ばかりで焼け跡には戦災アパートが立ち並んで居て

長い距離を歩いて焼け残った学校へ通学しました

教室が足りなくて学校の階段で授業を受けた時もありました

その学校は一年生として入学したあの豊岡国民学校でした


昼食としてアメリカから脱脂粉乳とパンが支給されていましたが

粉乳が良く溶けずに固まりがあって生臭い匂いがしていました

パンも今のように白くてフワフワではなくてパサパサとした物でした


「ラ・ラ物資」と、呼ばれていて、先方へのお礼の言葉が書かれた

ポスターが学校の廊下に貼られて居りました


運動靴などの配給がある時は数が少ないのでジャンケンで

決められました

勝った人は遠い道を走って家に帰り、親から承認のハンコを

押して貰って来るので大変なのでした


当時は車の通りも無くて今のように危なくなかったので何よりも

幸いだったなぁ~と思います


戦後の素晴らしい復興の早さは学校の建築にも表れて焼け跡の

後片付けなどPTA(当時は母の会)が率先して手伝って居りました

寄付金も家計のやりくりの中を嫌な顔をせずに子ども達のために

出して下さったそうです

後に、大人の方たちから聞いたお話です


そして、やっと落ち着いた学校生活の中でお友達との

楽しいお付き合いが私の人生にも訪れるのでした



朝子の部屋

この写真はT子さんの親戚の方が家の庭で写して

下さったものです

背の高い美少女がT子さんです

T子さんとのご縁は今も続いて居ります










昭和21年 早春を迎えると白一色で何にもなかった

野原や木々に芽吹いた緑色がだんだんと広がって

行きました


そして、畑と畑の間の小さな流れに沿って咲きはじめた

スズランの花がひと際目を楽しませてくれました


季節は変わり、その順序は正確には覚えて居りませんが

小屋の周りには何本もの「すもも」の木があり、赤や黄色の

実が山ほど成りました


お隣のSさんのおじいさんがお孫さんを負んぶして訪ねて来る

様になって父の話相手となりました

農夫としてはズブの素人であった父としては大変に

助けられたことでしょう


反対側のお隣のSさん宅には大勢のお子さんが居て

駅長さんの娘さんのスミ子さんの同級生がいたので

一緒に遊びに行きました


小屋の裏手に「グスベリ」と、言う名の実が成る木の茂みが

あって、透き通った紅色になると食べられました


大きな桑の木にのぼって、手や口を赤紫に染めて、その実を

食べました


初めての運動会の記憶として「かけっこ」をした時、ビリに

なってしまい、みんなの拍手の中一人きりで走っていました

一生懸命に走っても体力の差はどうにもならなかったのでしょう


秋には周囲は見事な黄金色となって農耕機でのお手伝いも来て

下さって沢山な収穫を得ることが出来ました


でもその頃には、身体の弱い母が神経痛で歩けなくなってしまい

父が母を背負って汽車に乗って「鍼灸院」へ通っていました

もう、あの厳しい冬を越すには無理な事になっていました


駅長さんのお世話で貨車が借りられて沢山な収穫物を運ぶ事も

出来ました


タマ君は「大事にするからね」と、泣いている私から優しく抱き取って

貰われて行きました


その年の12月 長い旅を経て横浜の地へ帰って参りました


床丹の高台から見る風景は煙を吐いた汽車ポッポが走って居て

時には真っ白い中、緑の中、最後は黄金色の中でした


当時はカメラがないので、父がクレヨンでスケッチをしました

その絵が何枚かありましたが紙質も悪くて美しい景色が

すっかりぼやけてしまいました


後に48年ぶりに床丹を訪ねた時、お隣のおじいさんの家は

もう誰も住んで居なくて廃屋となっていました


一年を過ごしたあの小屋は、次の住人が暮らしていたそうですが

その後、住む人も無くなり壊されていました

でも、雑草の中に少しだけ小屋の形跡が残されていました


改めて歳月の経った事をしみじみと感じさせられました


もう一軒のSさん宅は新しい家に生れ変わっていて、おじさんは

90歳近くになってもお元気でゲートボールを愉しんでいられました


そして、スミ子さんと同級生だったヨシ子さんは交通事故に

遭われて亡くなっていらっしゃいました


その時になって知った事でしたが、私と同級生の男の子が居て

現在はその方が跡取りとして一緒に住んでいるとの事でした


長々と拙文にお付き合い下さいまして感謝申し上げます

次回は「初めての親友」です



朝子の部屋

赤い屋根がお隣のおじいさんの廃屋です






昭和21年01月 第二学年三学期 床丹国民学校へ転校

      03月 本校初等科第二学年ノ過程ヲ

          修業セシコトヲ證ス  床丹国民学校


昭和22年12月01日マデ本校初等科第三学年ニ在学セシ

コトヲ證ス  床丹国民学校


現地の真冬は「寒い」より「凍れる=しばれる」と、言うその

表現にぴったりの酷寒でした


景色は一面真っ白になり雪で埋まって川と川沿いの小道も

見えなくなりました


道路は水をまいて凍らせてツルツルな大理石状態で馬が

橇を引いて走っていました


学校までの距離は遠くて凍った道の端を歩くのですが

その歩く姿は不器用に見えたのでしょう

道端に橇を止めて乗せて貰って助けて頂いた事もありました

こちらは知らない小父さんですが駅長さんの親戚の子だと

分かって声をかけて下さったのだと思います


小屋に入ると、土間があり板の間の部屋になっていました

ストーブのあるその部屋は暖かかったのですが、薪を使って

いるので夜間は消えてしまいます

気温はさぞや下がった事でしょう


奥の寝所は畳の変わりに藁を沢山に引いてその上に布団を

敷いて四人で固まって寝て居りました


朝、目が覚めると我が息でまつ毛が凍りついて目が開かない

状態でした

今、考えるとよく凍え死ななかったと・・・


ドラム缶のお風呂も経験しました、周囲は我が家だけ

月明かりの中の野天風呂でした


白と茶色のブチのニャンコさんを家族に迎えて「タマ」と名付けて

仲良しになりましたが、後に、悲しいお別れの時が訪れることに

なるのでした


春になって雪が解け出すと、何処からともなく川のせせらぎの

音が聞こえて来て、景色がゆっくりと美しく変わって行きました


次回「北国にて(三)」へ続きます



朝子の部屋

この写真は平成5年7月に48年ぶりに床丹(現在若里)を訪ねた時に

駅は郵便局となって残って居りまして局長さんより写真をコピーさせて

頂いたものです






昭和20年の初冬の事でしたが、北の国ではもう真冬に

感じられる程の寒さでした。


午前中に上野駅を発って青森着、連絡船に乗って函館着

その後、道内のコースは全く記憶には残って居りませんが、

長い長い汽車の旅の最後の記憶には「遠軽」という地名でした

そこで乗り換えて目的地「床丹」に着きました

(遠軽=えんがる  床丹=とこたん)


上野を発った時のことですが、当時、列車は乗客を乗せられるだけ

詰め込んで、窓からの乗り降りや通路に新聞を敷いて座るなど

当然な状態でした


そんな中、両親・母方の祖母・私の四人分の車中食である

蒸しいも・お焼き・煎り米など、そして衣類他の持てるだけの

荷物を持って上野駅を出発しました


終点の青森まで乗って行くのですから、車両の中へは入らずに

出入口の奥の方に陣取って居りました

それは、中へ入ってしまうとトイレへ行くことが難しかったのでした

そんな訳で、乗り降りする人たちに対して両親と祖母は肩身の狭い

思いをして居たと思います。


上野駅で汽車に乗る前に食堂で食事をした時のことでした

大変な混みようなのに窓際の席だけは誰も座っていないのです

そして、「浮浪児」と、呼ばれている沢山の子ども達が窓に上って
ジッとこちらを見ているのでした


座った人の食べ物にツバをかけて、その人が逃げた後で、それを

食べて飢えを凌いでいるのだと係の人に聞かされました。


今も考えると胸が苦しくなってしまう事ですが、あえて、綴らせて

頂きました。


床丹駅には、祖母の妹さんのご主人である駅長さんと鉄道官舎の

方々が温かく迎えて下さいました


間もなくの事、少し高台の土地をお借りして、年内に家(小屋)が

建てられました

大勢の地元の方が手伝って下さったお陰でした


こうして、慌ただしかった昭和20年は終わり、新年を迎えられたのでした。


次回「北国にて(二)」です

拙文をお読み頂きましてありがとうございました



朝子の部屋







昭和20年 第二学年の二学期は、東京・立川国民学校に

転校する事になりました。


その時までは、山村に暮らしていた私にとって、立川の町は

とても人が多くて賑やかでした。


広い道路に添って通学する時、目を見張るばかりの人通りの

中を歩くのですが、急がないといけないみたいでした。


特に驚いたのは、ジープに乗ったアメリカの兵隊さんの姿でした

背格好が大きくて鼻が高く国防色の軍服がきらびやかに

見えました  (国防色=こくぼうしょく)

今で言うオーラの力もあったのだと思われます。


時には、道端にジープを止めて手を差し伸べる兵隊さんが居て

子どもたちが一斉に駆け寄って行くのを、ただ見ているばかりでした。


ある日、一人の兵隊さんがジープを降りて、真っ直ぐにこちらへ

近づいて来ました

そして、私の手に数枚のガムを握らせてニコニコ笑って去って

行きました、あっけにとられて立ちつくす私の手の上のガムは

アッという間に周囲の子に持ち去られてしまいました。


でも、兵隊さんの美しい目の色と暖かかった大きな手の感触だけは

いつまでも忘れられない強烈な思い出となりました。


後になって、この時のシーンを思い返す度に、慣れない光景に

ビックリして、ジープに近づかないでいる一人を見て、兵隊さんは

珍しかったのであろうと考えました。


そして、二学期を終えた12月末には北海道の北部へと旅立つ事に

なるのでした。

次回は「北国にて」

拙文をお読み下さいまして、有難うございました。



朝子の部屋


朝子の部屋


朝子の部屋

鎌倉にて



親元を離れて児童だけが集団で、それぞれの受入れ先へ

疎開をする事を「学童疎開」と、言いました。


まだ年少の私は母と共に神奈川県の田舎へ疎開する事に

なるのですが、親戚・知人を頼って疎開する事を

「縁故疎開」と、言われて居りました。


昭和20年3月の東京大空襲の後、焼け出された父母の兄弟姉妹は

それぞれ田舎へ疎開して行きました。

(2011年04月05日「忘れてはいけない事」ブログ掲載済)


父も母も田舎の親戚を持って居なかったのですが、

お隣のご主人様の実家である神奈川県足柄上郡山北の

「共和村」という山村へ疎開をする事になりました。


そして、第二学年の新学期を疎開先の「共和村国民学校」で

迎えることになりました。


それまでも、隣の小母さんに連れられて「共和村」のS家には

泊りがけで遊びに行った事もありました。

(2011年05月12日「おサキさんのこと」ブログ掲載済)


共和村での生活は、何もかもが珍しくて子どもながらに、

興味深々の毎日でした。


当時、女性の服装はどこの地でも着物を作り変えたモンペ姿が

普通でした


村では女の子は服ではなくて、つっ丈のキモノを着て居りました

さっそく母がキモノをつっ丈に直してくれて、お仲間になりました

(つっ丈=ひざとくるぶしの中間の丈)


次に言葉使いも「アタシ」と、言うと面白がられるので、みんなと

同じ様に「オラ」と、言う事にしました


受持ちのウメ子先生は山北の町から共和村へ通って来て

いらっしゃいました

ある日「○○さん、アタシでいいのですよ」と、教室で云われました

それで、先生には「アタシ」それ以外は「オラ」と、使い分けをする

様になりました

子どもなりの生活の知恵だったと思われます。


地味な野の草の中に、ひと際鮮やかなヘビ苺の美しさ、食べられない

苺と教えられても、大変なお気に入りでした


初めて木に成った桃の実を、自分の手でもいで食べました

カリカリとした歯ごたえと薄甘くて良い香がしました


サツマイモの苗床から母屋のミー子ちゃんと二人でソッと一本を

取り出して、生のまま食べて、母屋の小母さんから「腹痛くなるぞ」と、

叱られた事も・・・


共和村での生活は、昭和20年4月から8月の終戦まで続きました

良い季節の頃で、私にとっては自然の美しさを知った初めての

経験でしたが、母は慣れない農作業のお手伝いで大変な時期

だったと後々になって気が付きました。


終戦の知らせである「玉音放送」は、共和村国民学校の校庭で

成されたと思いますが、その事についての記憶は定かではなくて、

現実には映画・ドラマを見てはっきりと知った次第です。


それから、疎開した後で横浜の家も空襲で焼けてしまいましたが、

その時の戦火にも会わず怖い思いをせずに、終戦を迎えられた

事を思い返す度に申し訳ない気持ちでいっぱいになります。


次回は「転校・転校・転校」


過去の事で如何なものかと知りつつもブログにて拙文を綴らせて

頂いて居ります。誠に申し訳ございません。



朝子の部屋


昭和19年4月 横浜市立豊岡国民学校入学

昭和20年3月 国民学校初等科第一学年ノ過程を修業セシコトヲ訟ス


以前に通信簿の整理をした時に書き移して置いたものです。



朝子の部屋
この写真は昭和19年の夏に写したもの、白い雪ではなくて

セメントで固められて作られた貯水場です。


この様に町内のあちらこちらに穴が掘られて有りました

広い校庭も穴ぼこだらけで校庭の端っこには豚小屋もありました。


授業の一つとして、家から葉書を持ち寄って戦地の兵隊さんへ

慰問文を書きました、初めてのたどたどしい字で書くのですから

消しゴムで消しては書き直して葉書がぐちゃぐちゃになってしまい

先生に断りもせず泣きながら家に帰ってしまいました


そして母に諭されて学校に戻って先生に謝ったのでした


「戦地で辛い思いをしている兵隊さんに申し訳ないと思わないかっ!」

受け持ちの男先生に大きな声で叱られて鬼のように怖かった

甘やかされて育った一人っ子の初めての経験でした。


この先生の言葉は、後に母から聞かされたのですが、その時は

何が何だかさっぱり分からなかったと思います

母が知っていると云う事は、付き添って一緒に謝ってくれたの

でしょう・・・が、それも記憶にはありませんでした。


その頃は物のない時代でしたが、在郷軍人として東京・月島の

造船所に勤めて居た父の関係で、美しい和菓子やビスケットなどが

手に入るので食べ物には事欠かないで過ごしていられた事は

子どもながらも苦労知らずの環境だったと思います


ある時、近所の仲間を家に連れて来て茶箪笥の上にあった

ビスケットの缶を取り出して5・6人で全部食べてしまいました


「○子チャンのお家には美味しいお菓子がある」と云う事になって

母を大変な窮地に追いやった事を後々になって知りました。


当時は「産めよ、増やせよ、お国のため」と言われて、少なくても

3・4人の子どもを抱えて居たお家では大変な食糧難でした


大人の世界では、子どもが一人と言うのは肩身の狭い時代だった

頃のお話です。


竹の皮に梅干を挟んで三角に折って端っこからチュウチュウ吸って

遊んで居たのが普通でした

時には、お味噌を持ちだして舐めている子も居て、親に見つかって

大変に叱られて居ました。


それから、ラジオからは「お山の杉の子」という歌が流れて居りました

 昔 昔その昔 椎の木林のすぐそばに

 小さなお山があったとさ あったとさ~

訳も良く分からず大きな声で歌っていました。


そして今、スギ花粉が大変な問題になって居ります


次回はいよいよ戦争が激しくなって「疎開}する事に・・・


お読み頂いて有難うございました、感謝申し上げます。