たかが歌

されど歌なり

カラオケで

ドーパミン沸き

健やかなり


本よみて

うつつをぬかし

恋歌など

夢の中にて

ふたつほど


良いわねと

言われブロガー

仲間入り

更新よりも

拝見ばかり


四字熟語

漢字好きが

はいりこみ

夢中になりて

家事ポケばかり


先日 一番下の孫娘のお誕生祝いを見事に忘れて

大変遅れて御祝を渡すことになってしまいました

「ボケたかな?」と 思われたでしょうか

「まだ大丈夫です」と自分では思って居りますが・・・


朝子の部屋


秋の海

波打ちぎわに

小サギ立つ

はげしき潮に

身じろぎもせず


横浜育ちの私にとって75歳の今に思い起こせば

街の移り変わりは もちろんでありますが

海が遠くなった事を一番に感じます


現在ではプールで泳ぐのが当然となり 泳ぐために海に

行くのではなくて「海水浴」「海の家」とは違った楽しみ方も

沢山に増えました


若い頃は 鎌倉・逗子・森戸・長者ケ崎といろいろな海水浴場が

ありまして どの浜辺も人々で賑わって居りました


そして 子ども達と民宿での一泊海水浴場行となったのは

三浦海岸でした

それが私にとって最後の浜辺とのお付き合いになりました

年齢と共に強い日差しに耐えられなくなってのお別れでも

ありました


でも 時々目近かに海が見たくなるのです

眺めるだけで満足しているこの頃ですが・・・

先日も大変良いお天気なので京急線で三浦海岸へ行って

まいりました


朝子の部屋


さやさやと 

かぜのまにまに

みをまかせ

やさしさ つよさ

ふたつ もつ花


「コスモスの花はいいね」

いつも本を読んで居た寡黙な父が

ある時 言った言葉

今もコスモスが咲くと思い出します


きっと そんな女性が理想の人

だったのでしょうか


父の親(祖父)は武士の家の次男坊として生まれました

明治の世になって単身で故郷(愛媛県矢作村)から

東京へ出てきたのだそうです


遥か昔のお話ですが 藤沢周平作品に出会うたびに

何か心ひかれて懐かしく偲んで居ります


朝子の部屋


2009年06月にブログを始めてから四年が過ぎました


現在の日常はスーパーへ買物に行く 診療所・クリニックへの通院

家では本を読んだり PCゲームや漢字パズルで頭の体操? 12年間習った

ストレッチ体操を毎日少しづつ・・・これ位です


そして 時々の友人とのお付き合いですが それも中々折り合いが付かず

時には一人カラオケに行って一時間思いっきり歌って来ます


一人暮らしの人は話をしないでいると声が出にくくなるそうですが

子どもの頃から歌う事が大好きだったので この後 一人暮らしになっても

その点は大丈夫だと自負しています


それから電話でのお話も耳が遠くなって聞きづらくなって・・・とか

人の話を聞いても頭の中で組み立てが出来なくなる人も居ます


そうなると長電話で愉しくお話が出来るのもお互いに花丸なのだと感謝です


更新もせずに皆さまのブログを一方的に拝見させて頂いて居る

夏ごもり中の私でした


先日「元気な友人S子さん」よりお電話を頂きました

お忙しいS子さんから電話を頂いて恐縮でしたがお変わりなく元気で

ダンスに励んでいるとの事でした

今年 後期高齢者になったばかりのS子さんですが 三十才の師に

同行して大好きなラテンを踊って来たとの事でした

健康第一とは言いますが 若い頃からの精進の賜物だと感心しました


その夜 しなやかにフラダンスを踊っている愉しい夢を見ました

S子さんから元気を頂いた私なのでした


朝子の部屋


朝子の部屋





ビバ!!フラダンス

ハワイアン・ミュージック・ステージ


今年も大先輩のSさんよりお誘いを頂いて T子さんと

二人で行って参りました


出演者

フラダンサー・ハワイアンシンガー 古賀まみ奈さん

プレイヤー 真木隆寿さん・清水徹也さん

スチールギター 仁八善文さん

フラガール 東大フラサークルの方々


曲目

カイマナヒラ

ハワイアンウエディングソング

リリウ・エ (古典フラ)

カノホナピリカイ (「涙そうそう」のハワイ版)

ブルーハワイ

アロハオエ

他 数曲


映画「フラガール」で有名になった影響もあり

東大フラサークル他 各地でフラの指導やハワイ文化の

研究を広めて活躍中の古賀まみ奈さんの説明で今まで

知らなかった それぞれの島々のリズムや衣装の違いを

可愛らしいフラガールの踊りと共に 目近に拝見する事が

出来ました

それにしてもニコニコと笑いながら踊る姿には大変に癒されて

愉しい一日となりました


朝子の部屋



戦争中 父は代々東京人なので疎開する田舎はなかったので母の

友人の田舎に疎開させてもらいました お陰様であの恐ろしい空襲には

遭遇しないで終戦を迎えました


その後 はるばる北海道の北の果てにご縁が出来て一年間を過ごし

ましたが 母が神経痛が酷くて農作業は無理な身体になり寒さにも

耐えられなくて横浜へ戻って来ました


当時は何処に居ても大変な時代であり 今となっては貴重な経験と

なりました


父のすぐ上の姉である伯母には男の子が三人居て その三男を養子にと

親同士で決めていたらしいのですが 成長したその三男は養子に入るのが

気にいらなかったのか良い返事が得られずに親同士は困っていたらしいです


そんな事になっているとは夢にも思っていなかった夕子でしたが 

その伯母は子どもの頃から大変に可愛がってくれて いろいろと買って

くれる優しい存在でした


従兄に当たるその伯母の三男は中々のハンサムで生粋の東京っ子

でしたが夕子は異性として気にも留めていなかった相手でした


中学卒業後は友人と同じ線路から外れた境遇を特別の事とは思わず

高校へ進学した友人たちとも相変わらずの友人関係は続いていました

そして社会人になった友人たちとも変わらなかった


そんな訳で社会人になった友人を経て ボーイフレンドと付き合う時は、必ず

「私は一人っ子だから養子を迎えるのよ」と 言ってその事を当然だと思って

いたのでした。


それは ずっと以前から感じていたことであり「貰いっ子なのだから」に

繋がるのでした。


親からはきちんと知らされてはいなかったが 周囲の人達の「あなたの

親御さんは本当に良い人だ」「夕子ちゃんは幸せ者だ」

そのあとで「親孝行するのよ」と 必ず言われていました


特に父方の年上の従姉妹たちが「私もこの家の子になりたかった」の

言葉には何とも形容しがたい思いがありました

でも その頃はそのことに関しても特別な感情は有りませんでしたが

年齢と共に両親の気持ちを考えると重くのしかかってきたのは確かな

事でした


そして今(昭和35年) 22才まで両親に大事にされて養子を迎える筈だった

夕子は養子としてではなく 母の従弟になる夫との生活が現在進行形となって

いるのでした

これも全てご縁があったという事でしょう。 夕暮れの道 (完)



朝子の部屋


今も あの時の担任の顔と声を思い浮かべると何か申し訳ない

気持ちになるのです

しかし その時の夕子の気持ちの中には悲しいとか淋しいとかの思いは全く

なくて午後のひとときを校庭で就職組のクラスメートと楽しく過ごして居りました


その後 担任から渡された最後の成績表を見た時に生れて初めてのショックを

受けて茫然としたのでした


県立高校へ進学する筈だった夕子の成績表の数字には無残にも二本線が

引かれて数字は書き換えられていたのでした

汚れてしまった成績表を手にして担任の立場上の苦しみを理解出来ず 

初めて悲しい辛い経験をしたのでした


両腕が抜けそうに痛いのに気が付いて現実にかえった夕子は街道を

山道へと曲がり 坂道を少し登りはじめていました。

そして 夕子の好きないつもの場所 道の傍らで一休みすることになるのです。


前方を眺めると山々が薄黒く広がっていて 緑色とはいえない木々の濃淡が

柔らかく霞んで ホッとした気持ちになるのでした

そして 冬が来て 春になり その都度変化するであろう山の景色を想像して

今から楽しくなって来るのです


そこから少し先に行くと 人一人が通れるほどの古びた吊り橋があり 河の

真ん中の水は深緑色で高所恐怖症でなくても緊張する程の高さです

その橋を両手に荷物を持って渡るのは中々スリルがあって怖いけれど

楽しくもなります


橋を渡り終えると家々が見えてきて下り坂になります

そして 工事関係の事務所があるので人の出入りは多く騒々しい場所となり

現実へと変わるのでした

平屋建ての社宅が同じ方向を向いて並び その一番手前が夕子の住まいです。

家々の前は広々とした空地になっていてトラックを動かせるには充分な場所であり

その場所は街道へと続いていて その街道はさっきの店のある場所へと続いている

のでした。


最初の頃 自転車に乗れない夕子は夫の運転する車で買い物に行っていたが

車を出して貰うには夫の機嫌を見計らって頼むことになるので それが負担に

なって疲れるのでした

そんな訳で人を当てにすると生活が重くなるので近道である山道を歩くことに

したのですが そう決めたことが夕子にとっては思いがけず愉しい時間と

なったのでした


夫は他人には優しい人といわれていますが 一緒に暮らしてみると気難しくて

厳しい人 これが世間で言われている「釣った魚に餌はやらない」と 言うこと

なのだと知りました。



朝子の部屋



昭和35年 初冬

或る都市の郊外であるこの辺りは山里の色濃い場所であり 12月ともなれば

冬枯れの景色間近となっていた

買物を済ませて店を出た夕子にとっては私的になる唯一の時間なのでした


季節を楽しみながら歩くのが大好きで 重い荷物を持って30分以上も歩かな

ければならない道のりが何の苦にもならないのでした


店を出た時 夕暮れと感じたのは今にも降り出しそうな空のせいであった事に

気がついて家に着くまでに雨が落ちてこないようにと足早に歩き出した


夕子がこんな辺鄙な場所へ移って来る事になったのは 夫の仕事のため

というきちんとした理由が「本当にそうだったのかな」と 考えるとそれだけ

ではなかったのだとも思い返せるのでした


戦後間もなく京浜工業地帯の公害で有名になった場所で埋め立て地でもある

その土地にマッチ箱のような家を建てて親子三人が住むようになってから

物のない時ではあったが一人娘として大切にされていた頃の事でした


ある日 両親から「高校へは行かせてあげられない」と 突然に言われました

今までにない改まった両親の態度にすっかり気負わされてしまった夕子の

口からは「いいのよ どうしても高校へ行きたいと思っていないから・・・」


中学校生活も終わりに近い頃の事で仲の良い友人と一緒に同じ県立高校へ

進学する事を当然のように思っていた夕子でした


戦後のまだ落ち着かない世相の中 父の会社が閉鎖になり やっと再就職

した会社も思わしくなく給料も遅配気味で家の中は火の車だった事を

知りました

夕子はその時までは全然知らなかったし思ってもいなかった事でした

そんな訳で高校進学はあきらめる他ない家庭の事情でした


当時(昭和28年)の食糧事情は米だけではなくて 麦・豆・芋を入れて炊いた

ご飯がお弁当箱に詰められておりました

教室の床にはこぼれたお豆がコロコロ転がっている状態でした


クラスの中でも夕子のお弁当には麦が少しだけのご飯が入っていましたし

着ている物も母のお手製ではありましたが 何枚かを小綺麗に着替え

させられていました


着替えが無いので男子の上着の袖口などは汚れてテカテカしていましたし

子沢山の家庭が多く兄弟姉妹何人もの着古した物が当然だった時代でした


そんな状況の中で高校進学をする子はクラスの半数にも満たない程でした


高校進学を前に 進学組と就職組に分けられていて 午後の授業は進学組に

重点が置かれ 就職組は自由行動となって教室を出て校庭で過ごすことに

なって居りました


夕子が就職組と教室を出て行こうとした時「○○は進学するのだろう」と 

呼びかける担任の声が後から聞こえて来ました

お茶目な夕子がまた・・・と思ったであろう担任に「私 高校へは行きません」と

笑顔で明るく言って校庭へ出て行きました



朝子の部屋

今回の自伝は物語風に書いて見ましたが軸は変わらず舞台だけ

を空想しました、お読み頂けると幸いです。

1・2・3回に分けられて居りますので宜しくお願いします。




ヒナさんの場合

ヒナさんは76歳の今も昔の少女小説の挿絵に書かれていた様な

細くて華奢な少女みたいな人です

でも とても情熱家でそんな人とは思えない体験をしているのです


戦争で東北に疎開した一家でお父様は校長先生であり 女学校の

教師をしていらしたお母様の厳しい「しつけ」にも負けないで自分を

通した人です


娘時代は大人しいお嬢さま 直ぐ下の妹さんは男勝りの行動派で

叱られても平気な子でしたが ヒナさんは厳しいお母様が怖くて

大嫌いでした 陰で庇ってくれた優しかったお父様の事ばかりを

懐かしそうに話して下さいました

きっと お母様は一見頼りなげなヒナさんが心配で仕方がなかったの

でしょうね


地元の校長先生のお嬢さんであり 可愛らしいヒナさんにはお見合いの

お話が山ほど舞い込んだ事でしょう

でも 今で言う「イケメン」好みのヒナさんには気に入るお相手は一人も

居なかったそうです


そして ある日 運命の出会いが訪れるのでした・・・

お家の方にはとても許して貰えるような人ではなかった その方は

ヒナさんから「東京へ連れて行って下さい」との熱心なお願いを断れずに

手に手を取って駆け落ちをする事になりました


ヒナさんの言う事には生家を離れたい気持ちと相手を好きになったのが

半々だったそうです

地元のお医者さんの息子さんでとても素敵な初恋の人もいたけれど

今のご主人とご縁があったのですね


やがて 男の子が生まれて母親となったヒナさんの息子さんに対して

キッパリと者申す雰囲気はやっぱりお母様に似て居りました


ヒナさんより30センチ以上も背が高くてガッシリとした骨格のご主人は

性格も頼もしくてヒナさんにとってはお守りの様な存在だったと思います


若い頃は 夜の社交場ではモテモテでいろいろ有ったそうですが

ヒナさんには頭が上がらない優しい方でした


平成八年 ご主人は60歳を前にして急死をなさいました

その時のヒナさんは殉死状態になり床から起き上がれなくなりました

所帯を持ってお嫁さんの実家の商売を手伝っていた息子さんは奥さんに

女児を託してヒナさんの介護のために離婚しました


「息子の人生を犠牲にしてしまった・・・」と 言うヒナさんに

「昔から親の代わりは無いと言われているけれど 息子さんが選んだのは

お母さんだったという事でしょう」と 答えました


その後 ヒナさんの体も回復して息子さんは再婚しました

二人の孫も出来て共働きなのでお孫さんの世話をして五人家族の中で

とても幸せでした ヒナさんは大変な本好きでしたのでお孫さんを連れて

本を持って行ったり、返しに来たりして 昔の洋画やスターの話で

盛り上がりました


その頃 隣町に住む最初のお孫さんも大きくなって自転車で遊びに

来るようになっていました


でも ある事情で息子さん夫婦は離婚してしまいました

本当に「奥さん運」がないのですね


ヒナさんにとって可愛い孫たちと別れる辛さは格別の事でした

家裁にかけてもと 一度は思ったそうですが 孫の事を考えて

息子さんをなだめて親子で涙を飲みました


今はすっかり強くなったヒナさんは息子さんと二人三脚で

生きて行く事に決めました

心労で身体を壊した息子さんを支えてお仕事を手伝って

頑張っています


以前のヒナさんではなく しっかりと自分を生きているのだと

お見受けして居ります

お孫さん達との縁が続きますようにと願うばかりです


朝子の部屋


ワコさんの場合

ワコさんは北国の農家に四人姉妹の長女として育ちました

当時 農家の子どもは学校と家の手伝いの二本立ての生活が当然で

特に長女のワコさんは父母を助けて頑張る働き者でした


適齢期 ワコさんは好きだった人をあきらめて家のために養子を

迎える事になり 幸せだった娘時代に別れを告げました


女の子四人の中に他の家で育った男の子が入り 両親も

当のワコさんもさぞや戸惑った事でしょう


やがて三人の男児に恵まれて一家に取って最高の時を得る事に

なりました


ワコさんの妹である次女は遠くへお嫁に行きました

三女は直ぐ近くの農家へ嫁ぎ 四女はサラリーマンと結婚をしました


ワコさんのお父さんは今まで女ばかりの家庭に晩酌の相手が出来て

きっと 愉しんで居られた事でしょう


ワコさんのご主人は十人兄弟の中に育ち 決して自分を主張する人

ではなくて何度かお会いして「マスオさんタイプ」の方とお見受けして

居りました 良いご養子さん 三人の息子さんに恵まれてワコさんも

お幸せそうでした


農家の一日は果てしなく続く仕事から解放された 夕食の晩酌は

何よりの癒しの時間だったと思われます

ワコさんのご主人は大変お酒の好きな方でだんだんと深酒をする

様に・・・


そんな時 四女のご主人が交通事故に遭ってタクシーで駆けつける

時に身重だった妹さんはショックで早産してしまいました

赤ちゃんは無事でしたが妹さんは頭に血が上って植物状態に

なりました


ワコさんは両親と共に妹さんのご主人の葬儀・病院・乳飲み子の

世話と忙しい日々を送る事になってしまいました


後に 妹さんは手厚い介護にて意識を取り戻し 長い闘病生活の

果てに成人した一人息子に看取られて天国へ旅立ちました


深酒が原因で倒れてしまったワコさんのご主人の介護も重なって・・・

”母は強し”の言葉通りワコさんは頑張って頑張って・・・

先日 そのご主人が74歳で亡くなりました


年老いた両親もそれぞれ病に倒れ 世話するワコさんも身体を壊して

平成5年 ご主人を介護施設に入院させてから平成24年の今日まで

意識のあるご主人の施設へ通い続けて居りました


息子さんの内 次男三男はそれぞれ家庭を持ってワコさんの孫も

増えました


長男は独身で今もワコさんと住んでいて車で家から施設へワコさんを送ったり

お父さん(ご主人)を施設から病院へ連れて行ったり ワコさんを支えて・・・

母親をずっとそばで見ていたので大変に優しい息子さんだと周囲も感心して

居ります


先日 電話でワコさんとお話をしました

「やっと終わりました お父さん(ご主人)が我が家の悪い事を全部背負って

くれたお陰で息子たちも孫たちもみんな良い子で私はお父さんに感謝です」

「これからは背負ってくれる人は居ないから 直接ワコさんに来ますから

くれぐれも身体に気を付けてのんびりしてくださいね」

「ありがとうございます 家の周りをお花だらけにして愉しみます 見に来てね」


73歳の未亡人のささやかな趣味に 乾杯!


朝子の部屋