夏の酷暑からサッカーの本質を考えた。 | 徒然に。

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思ったことを気ままに。

 古き良き(?)スポコンで育った中年のおっさん世代は、夏が来ると熱い気持ちで思い出したりします。

 猛暑の中、3試合も4試合もやったこと。罰走させられたこと。熱中症で倒れるまで一生懸命ボールを追ったこと。

 ですが一昔前よりさらに暑さが酷くなった今、もはやこんな暑い中でサッカーをやろうという気持ちが、私は正直1㎜も起きません。もう私のスポコン時代の熱い気持ちは死に絶えました。

 コーチとしてグラウンドに立っているだけで、暑くてくらくらするのに(更年期障害のめまいのせいかもしれませんが)そんな中、グラウンドを走る子どもたちが、不憫になってきてしまいます。

 私は自分なりには一生懸命コーチに取り組んでいるつもりなのですが、それでも「こんな暑さでまともに練習したら死んでしまう」と思って、どうやってだらだらと練習時間をやり過ごそうかと考えてしまいます。

 世の中の真面目なコーチたちは、そういうことは思わないのか、興味はあるところです。

 ですがこういうことって「不真面目な側」が糾弾されがちなので、なかなか言い出せない感じもあります。

 ただ、今の日本的な仕組みでは、ヨーロッパのように「夏はOFF!」というわけにもいきません。

 

 そこで最近勝手に「妙案」を思い付きました。

 それは「校庭にある遊具を目いっぱい利用して遊ぶ」ということです。

 これなら子どもたちも、暑くてもけっこう楽しそうにやります。

 そして見学に来ている親御さんにも「サッカーだけやるのではなくて、いろいろな運動をやるのが大事。こういう暑い時期を利用して、いろいろな運動をします」という、建前と本音が一致したことを言えます。

 

 先日の2時間練習は↓のようでした。

 5分~10分に1回くらい、水飲みタイムをいれます。

 

1.鬼ごっこ。(2種類を20分ほど)

2.コーンドリブル。(8周したら1回水飲みタイムみたいな感じで、3セット)

 

 ここで10分休みをいれます。

 みんな日陰でゴロンとしています。

 

3.バスケットゴールに手でボールを入れる。次は足で入れる。

4.上り棒。

5.雲梯。

6.ジャングルジム。

7.雲梯の間のジグザグ走競争。

8.オールコートでボール3つゲーム。

9.PK対決。

 

 こんなにマニアックにサッカーブログを偉そうに書いているのに、全然練習でサッカーをしていません(笑)。

 ただ、私は猛暑のときは思想として、絶対に無理をしない範囲で身体を動かすだけでいいと思っています。

 身体を動かすだけならば、サッカーじゃなくても子どもたちが熱中できるものがいいのではないかと思っています。

 そして子どもたちの様子を眺めていますと、上記9つのメニューで、熱中度には明確な違いがあります。

 当然最もやる気がないのが、コーンドリブルです。

 あとは、一応サッカーのゲームもそれなりに熱中してくれたので良かったものの(笑)どう見ても、遊具で遊んでいたり鬼ごっこの方がサッカーよりも楽しそうなのです。

 

 私は妙に文化人類学的なことを考えました。

 太古の時代から、人類はボールを蹴るということをやってこなかったはずです。

 サッカーは、他のスポーツに比べてルールが少ないとはいっても、非常に制度化されたスポーツです。子どもの遊びで、サッカー的なものが主流だったことは、古今東西おそらくないでしょう。

 そして日本は、太古の昔から「森の国」だと言っていいと思います。

 木が身近にある生活です。

 そうした中、上り棒やジャングルジム、雲梯は、「木」を模したものでしょう。

 ということは、サッカーをするよりは、歴史的に子どもたちの遊びは「木登り」などの方が本質的なはずです。

 そしてその遊びのうまさの優劣が、実際にその人の生死を分ける可能性もあったでしょう。

 それは「鬼ごっこ」にも言えると思います。

 鬼ごっこの原形は、まさに狩るものと狩られるものの、生死を賭けた戦いでしょう。

 太古の人類は、非常に弱い存在だったはずです。おそらくトラやライオン、熊等に狩られる存在だったでしょう。

 まさに鬼ごっこのうまさは、生死を分けるものだったと思います。

 こういう点からも、子どもたちがジャングルジムや雲梯、上り棒や鬼ごっこに熱中するのは当然だと思うのです。

 そしてそれが本質に根差したものである以上、サッカーをやる前に、むしろ徹底的にやるべきなのかもしれません。

 

 観察していて、おもしろいことに気付きました。

 サッカーではパッとしなくても、上り棒や雲梯が異様に速い子がいたり、その逆のパターンもあります。

 そして上り棒や雲梯が上手い子は、将来サッカーでも伸びる素養がある感じがします。運動そのものに対する親和性が高い気がします。

 

 私の観点では、そういった点、「木登り」や「鬼ごっこ」的なものとサッカーは正反対のものです。

「木登り」や「鬼ごっこ」は、純粋に生きるための技術を養うものです。木の上の実をとらなくてはいけないし、野生動物に追われたら逃げなくてはなりません。

 その点、サッカーには「無駄な制限」が多すぎます。

 その最たるものは2つあります。

 1つ目は「手を使えないこと」、2つ目は「オフサイドルール」です。

 相手のゴールに入れるだけならば、手を使えた方がいいし、相手のゴール前で待ち伏せすればいいのです。

 ですがたとえばオフサイドルールについて、わざとゲームを長引かせるために、このようなルールを設定した経緯があります。

 サッカーの起源(元々はラグビーと同一)は、イングランドの村対抗戦でした。相手の村にボールを置いたら勝ちでした。

 ですが待ち伏せしてしまうとすぐにゲームが終わってしまいます。そこで待ち伏せ禁止のためにオフサイドが作られました。

 これはラグビーにおける、ボールを前に放れない(スローフォワード)思想とも同じだと思います。

 ということは、サッカー(ラグビー)は起源的に、そもそも勝敗を競うものではなく「お祭り」なのです。

 お祭りなので、村みんなで楽しみたいし、長引いてほしいのです。

 世の中には、サッカーは点数が入らないからつまらないという人がいます。

 確かに「競技」として見たらそうなのでしょう。ですがそもそもサッカーの本質は「お祭り」です。

 だからこそ、世界中の国の人がサッカーに熱中するのです。そしてその熱中の仕方は、応援を楽しむ、つまりお祭りの楽しみなのです。

 

 さらにもう一つ、チームを組んで獲物を狩るという「マタギ」的な本質もあります。

 

 

 先ほど「太古の人類は野生動物に狩られていた」と書きましたが、同じようにチームで狩っていたのだと思います。

 ↑マタギ的なことを、世界中でやっていたでしょう。

 まさにサッカーそのものです。

 みんなで協力して、獲物を追い詰めます。

 そのなかで花形の鉄砲撃ちや棟梁は特定の人であって、最も技量が優れていたり賢い人がなります。

 そういった観点からすると、サッカーの技術論でも見えてくるものがある気がしています。

 というのは、サッカーでは大概どこかでドリブルで仕掛けないと点がとれません。もしくはキックが上手でなければシュートは入りません。

 その役割はマタギでいえば鉄砲撃ちでしょう。

 鉄砲撃ちがいい状態で打てるように、周りの「追い子」が熊を陣形を組んで急き立てます。

 サッカーで言えば、ドリブラーやストライカーが、良い状態でゴールに向かう状態を作るのが、周りの選手がやるべきことの一つでしょう。

 ですが日本的には、ゴールに仕掛けるドリブルをしたりシュートを狙うと「戻せよ」「無理に打つなよ」という声がかかります。

 ここに日本的な悪しき平等主義があると私は思っています。

 自分の役割に徹せられないのです。

 たとえばボランチの選手が王様になって、ストライカーに「そこは戻せよ!」とか言っている風景がけっこうあります。

 ですが、ブスケッツがメッシに「そこ戻せよ!」と言いますか。

 マドリー時代のシャビアロンソが、クリスチャーノロナウドに「そこ無理に打つなよ!」と言いますか。

 言うはずがないのです。

 そもそもブスケッツもシャビアロンソも、メッシやロナウドが点を獲るためにボールを配給しているのです。

  

 話を戻します。

 人は一つの目標に向かい、それぞれの役割を自覚したとき、宗教的な高揚感を覚えます。

 マタギは、獲物の前で祈りを捧げます。

 

 

「日本では、山の神は女性の神と言われており、ここ阿仁でも例外ではありません」と、仲澤さんは続けます。「とにかく、山の神を怒らせてはいけない。この神は特に醜く嫉妬深いため、山は絶対に女人禁制です。マタギが女性を触ったあとに山に入ることも許されませんし、神よりもさらに醜いとされる魚のオコゼを干物にしてまで持参し、神を喜ばせることも。
 また山で話すときは特別なマタギ言葉を使い、里で使う言葉は一切使いません。「マタギ」という言葉すらも、正確な意味は不明の独特の言葉。自分たち人間の住む里とは違い、山は神聖な場所だと思っているという、神に対してのメッセージです」

 ただ、「山は女人禁制」といったところは、現代では考える余地があると思います。

 それでも言いたい感覚的なことは、それなりに私はわかる気がします。

 

 そしてサッカーは、お祭り的要素がありマタギ的要素があるから、私は非常に宗教的なのだと思っています。

 だから人はサッカーに熱狂するのです。

 サッカーの宗教的熱狂の場面は、世界中の至るところに見られるでしょう。