正常と異常の狭間。 | 徒然に。

徒然に。

思ったことを気ままに。

 北京大学医学部5年の頃、精神病院で実習がありました。

 中国の医学部では、けっこうフランクに患者さんと接することができます。

 ただ、精神病院ということで、緊張しながら実習に臨みました。

 私が実習を通じて思ったことは意外なことでした。

 それは「自分は正常と言われている普通の人たちよりも、どこか病院に入っている人に似ている」というものでした。

 確かに活字中毒(活字を読んだり書いたりしていないと気が済まない)ということで、毎度毎度こんなに長いブログを書いている時点で、普通ということはないでしょう(笑)。

 

 その中で最近思ったことは「何も問題がない人はいない」ということでした。

 というよりも、一体どこの誰が「正常」を決めたのかという疑問もあります。

 平時に人を殺したら「殺人犯」ですが、戦時中に敵を1000人殺したら「英雄」です。

 私の例を一般化はできませんが、少なくとも私の場合、ちょっとしたことですぐにムッとするし「本当にめんどうくせえなー」とかいう負の感情が湧くことはしょっちゅうです。

 周りを見ていても、一度世間様に向けた仮面を取ってしまえば、悪態ばかりついている人もけっこういます。

 ということは、だいたいの人が私と似たりよったりでしょう。

 

 ただ、そういったことは普通だし、何に対してもうまくできるわけではありません。

 たとえば私の場合でしたら、一人静かに勉強したり研究したりするのは大好きですが、騒音があったり、人と議論しながら物事を進めていこうとすると、途端に頭が働かなくなります。

 医学部の頃は、講義を聞いてもさっぱり分からなかったのに、自宅での静かな環境で考えたら「なんでこんな簡単なことがわからなかったんだろう」と思うことがしばしばありました。

 社会に出て働いている方も学生の方もニートの方も主婦の方も定年退職した方もみんな、それぞれ得意な型があり、そして苦手な型があるのだと思います。

 ただ、ここ20年くらいの間に、それぞれの苦手なことが許容されない時代になってきたと私は感じています。

 あまりにも「正常の幅が狭くなった」気がするのです。

 というよりも「理想として掲げていたことが実現していないと気がすまないという病」でしょうか。

 

 私は特に日本人の間では「宗教」について誤解されているような気がしています。

 「クリスチャンなのに悪いことばかりしている」とか言ったりするのです。

 それは聖書の教えは「理想」であって、実際は理想の状態ではないから、むしろ聖書の教えがあるということを見ていないからだと思っています。

 仏教では、最も重要な戒律は5つあります。

  • 不殺生戒(生きものを殺すな)
  • 不偸盗戒(盗むな)
  • 不邪淫戒(セックスを慎め)
  • 不妄言戒(嘘をつくな)
  • 不飲酒戒(酒を飲むな)

 これを必ず守らなくてはいけないとなると、99%以上の人が無理だと思います。

 そもそも不邪淫戒を完璧に守ったら、人類は絶滅してしまいます(笑)。

 あ、今は人工授精があるので、絶滅しないかもしれませんが、、、。

 

 ただそういった「理想は現実が違うからこそ掲げる」ということをある程度許容しておかないと、どんどん社会が生きづらくなっていくような気がするのです。

 「正常=理想」と思ってしまうと、素晴らしい状態以外は「異常」になってしまうのだと思います。

 

 子どもの現場でもそうだと思います。

 授業中座っていられず、ADHDと診断されて投薬されたりします。

 もちろん周りの子の学習状況に悪影響が出るということはあると思います。

 ただ、「社会とはそういうもの」という面もあると思います。

 そもそも社会とは何でしょうか。

 もちろん誰も答えは知っているはずがありませんが、私はスペインの哲学者オルテガの言葉が好きです。

 

 不愉快な共存

 

 社会でも学級でもどこでも、気が合う人もいれば気に入らない人もいます。

 そして気に入らない人も一生懸命生きています。

 そうなると、死ぬまで共存するしかないよな、という話になっていくと思います。

 もちろんなるべく嫌いな人に近づかないようにするなどの対処はしても、それでもその人をその共同体から追い出すようなことは、私はよくないと思っています。

 気が合う仲間と居酒屋とかで「ほんとあいつ気に入らないわー」とか愚痴りながら、一緒の場で生きていくしかないのだと思います。

 それは家族でも同じじゃないかなと思います。

 

 サッカーでもそうじゃないかなと私は思っています。

 日本サッカー協会は「フェアプレー」や「リスペクト」を強調しています。

 ということは、裏を返せば、実際の現場にはそういうのがほとんど見られないから、理想として掲げているとも言えると思います。

 フェアプレーやリスペクトが当たり前にあれば、誰もそんなことは言わないのです。

 金持ちを目指すぞ!という人は現実は貧乏だし、サッカーのプロを目指すぞ!という人は現実はアマチュアです。

 もちろんフェアプレーやリスペクトを目指すのには100%異論はないですが、現実はそうではないということで、現実そのものを認める態度もまた必要ではないかなと思ったりもするのです。

 

 私はユング研究の第一人者だった河合隼雄さんの考えが好きです。

 

 子どもに対しては、君が世界で一番なんだという考えと、君は突出したところがない平凡な人間だという両方の視点が必要に思える。

 

 精神医学的にも言えることがあると思います。

 人は歳をとっていくら顔がシワだらけになっても、心の中には「子どもの自分」がいるのだと思います。

 この1年くらいサッカーブログを書いたおかげで、ブログ上、もしくは実際に会って飲みにいった方(今では飲み友です笑)もおり、サッカーの輪が広がったと思います。

 そしてブログを読ませていただいて毎回感じるのは、子どものことを書くときは本当に生き生きした筆致になっているということです。

 私が拝読しているブログ主さんのほとんどが中年の方だと思いますが、その方々が「自分のなかの子ども」を、実際の自分の子どもに投影させて楽しんでいるのだと思います。

 そして、そういう自分のなかの子どもを活性化させることは本当に楽しいことだと思います。

 そして子どもは「管理」や「規律」からは遠い存在です。

 だから子ども相手はおもしろいのだと思います。

 子どもは、身体障がい者の方や精神的に「普通」の感じとはちょっと違った人にも、別け隔てなく接します。

 いろいろな人がいることがむしろ当たり前だということが、わかっているのだと思います。

 子どもは「意識」や「人工」ではなく「身体」や「自然」だといったのは養老孟司先生でした。

 意識が先行するから差別したり人を馬鹿にしたりするようになるのだと思います。

 自然には、真っ直ぐな木もあれば曲がった木もあり、誰も差別したりしません。

 ただその場で一生懸命生きているだけだと思います。

 

 他人事のように書いていますが、実は私自身の問題なのでした。

 私は医学部時代、↓の先生の元で実習を経験し、非常に感銘を受けました。

 

 

 私は自分が「子どもの自分」を抑圧していたことには薄々気づいていました。

 そしてここ2年ほど、体調不良を経験し(今もまだ完璧には抜け出ていませんが)原因不明で分からなかったところ、先生の教えを思い出したのです。

 「自分の中の子どもの自分」を大事にしようと思いました。

 

 大人の自分が子どもの自分に「辛かったね、悲しかったね、でももう大丈夫だよ、今までありがとう、〇〇ちゃん(自分の名前)大好き!」と話しかけます。

 

 もちろん「理想」を目指すのは大事だと思います。

 でも究極的にはぜんぜん駄目でいいし「異常」でもかまわないのです。

 自分のことが大好きならそれでいいのだと思います。

 最近私は強くそう思うようになりました。