今回は完全に主観的に、自身の経験から実力を伸ばす方法として「読書」を考えたいと思います。
私はサッカーでは、小学時代は県大会前の地区大会1回戦負けのチームから、三菱養和巣鴨JYに合格。養和ではレギュラーを取り、東京トレセンに選ばれました。
勉強では、早稲田大学高等学院に一般入試で合格し、早稲田大学政経学部を卒業しました。社会人になり思うところがあり、中国の北京大学医学部に入り直しました。中国最高学府である北京大学の世界中の留学生のなかで、医学部6年間、すべての年度で成績優秀者を取りました。
サッカーと勉強の実績的にはなかなかだと思います。
ただ、私のサッカーの小学時の実力は、地区大会1回戦負けのチームでも、中心選手の4人のうちの1人に過ぎませんでした。
勉強でも、普通の公立中学校なのでもちろん成績は良かったですが、それでも学年1位ではありませんでした。私より明らかに勉強できる人が2人いました。私は毎回5教科合計だと470点前後でしたが、自分よりできる2人は毎回480点以上だったので、彼らには敵いませんでした。
ただその後、養和や早稲田、北京大学というレベルが高いところに入ってみたら、不思議とその集団でかなり上位に入れました。
その理由だと勝手に思っていることの一つが「読書」です。
最近ますます読書の重要性を思うようになりました。
というのは正月に、甥っ子や弟と集まったとき、私達は読書の話をしているのです。みんなで「物理学入門は読んだんだけど、俺は素養がないから相対性理論がなんとなくわかるくらいでギブアップだわ」とか、ワイワイ話しています。
うちの一族はみんな読書好きなのです。
だから話題がなくなることはなく、集まったらいつも誰かが語っています(笑)。
高校生の甥っ子と話すときだって、話は読書の内容なので、年の差なんか関係なく話します。甥っ子は私に対して呼び捨てですしタメ語ですが、そんなことは気にもなりません。なにしろ本の内容の話がおもしろいのです。
そういうことに、年齢や立場なんかなんの関係もないでしょう。
弟は私より学生時代成績が良くて、就職した某日本最大の証券会社「○村証券」でも結果を出し続け、同期のトップランナーの一人でしたが、先日独立しました。「もう宮仕えは嫌だ」と言っていましたが、「宮仕え」という言葉を使うことが、すでに読書好きの証でしょう(笑)。
甥っ子は中学時代は駿台模試の数学で10番台をとっていた「数学の鬼」です。
ちなみに書くと、数学は計算のスピードではなくて、いかに概念を理解するかです。
数学の出来不出来は、実は言葉の豊富さと関連すると私は思っています。
話を戻します。
謙遜ではなく、私達がそんなに地頭がいい気もしません。
それでも私たち3人はみんな読書量はけっこう異常だと思います。
私は小学生の段階で、芥川龍之介全集と太宰治全集、中島敦全集は全部読みました。
意味はまだ分からなくても、一流の文章に触れる感動みたいなものがあったことは今でも覚えています。
弟も甥っ子も、私と同じくらいは本を読んでいます。もしかしたら、甥っ子や弟の方が私より本を読んでいるかもしれません。
そういった語彙の豊富さが、私達が何をやるにしろそこそこ上位にいける理由だと私は思っているのです。
読書の何がいいかというと「語彙が増える」のです。
たとえば何かをちょっと考えてみたいとき、問題の性質によって「もっと注意して見てみよう」とか「もっと吟味して考えよう」と頭の中に浮かぶ言葉が変わってきます。
「注意」という言葉が浮かぶときは、対象を観察している、その観察自体に不備があるかもしれないと直観したときです。
対して「吟味」という言葉が浮かぶときは、観察はある程度正確にできているけど、その物事を見るときの観点が、もっといいものがあるんじゃないかなと思ったときです。
読書のおかげで語彙が増えたことで、それなりに物事を細かく見れるようになったと思います。
というよりも、フランスの言語学者ソシュールが言ったと記憶していますが「言語が世界を規定する」のだと思います。
虹が7色に見える民族もいれば、5色に見える民族もいます。
それはその民族が言葉によって虹をそう規定しているからです。
つまり世界の実態は、私達が言葉によって分断されて見ているものとはまったく違うものなのです。言葉によって世界は分断され、言葉によって世界の見え方は変わってくるのです。
だから仏陀は、言葉によって規定されることを真実だと思いこんでいる人類に対して「無明(無知)」と言ったのだと思います。
仏教でよくやるのは「自分を指してください」と言います。自分の顔を指すと「違います、それは顔です」とやります。
どこを指そうとも「私」は指せません。
結局「私は存在しない」というのが仏教の教えです。
「私」「息子」「妻」「親」、、、そういった「実態」はおそらくないのです。
ある時期、私はそのことを真剣に考えすぎて、絶望したことがあります。確かにそうなのです。私もいないし、友人も恋人も親もいないのです。ですが、こんなことを追求したら、まともに社会生活を送れなくなると思って、やめました(笑)。
真実をわかったら、出家するしかない気がしたのでした。
仏陀は言葉を超えた世界を「悟り」と言いましたが、それが真実だと私は思いますが、それを追求するのは定年退職したあとの究極のチャレンジでいい気がします(笑)。
話を戻します。
言葉を豊富に持てば、それだけ世界を多様に見えるのだと思います。
「人には悪人と善人がいる」と思っている人にとって、世界には悪人と善人しかいないのです。
ですが、例えば評論家の佐高信の言うように「好きな人と嫌いな人をX軸、評価できる人とできない人をY軸にすれば、4通り人を評価できる。好きで評価できる人、好きだけど評価できない人、嫌いだけど評価できる人、嫌いだし評価できない人」とすれば「世界には悪人と善人どちらかだ」という世界観を持っている人に比べて、見えている世界が違うのです。
もちろん良し悪しはないですが、どちらがより豊かで人生を吟味できるかは、明らかだと思います。
私は佐高信流の人物評価を、一つの物差しにしています。
そのなかで個人的に最も留意しているのが「嫌いだけど評価できる人」です。
ぶっちゃけて書けば「嫌いだけど、仕事はできるんだよな」という人です。
私にはそういう人が一番ストレスです。
そして自身の成長のためには、そういう人を意識の片隅に常に取り入れておくことだと私は思っています。
これまでも、なんだかんだ、そういう人のほうが「好きな人」より、心の奥底でわかりあえた感覚があるのです。
お互い嫌いなんだけど認めあっているみたいな。
そういう関係は、実はすごい素敵なのだと思います。
話を戻します。
勉強でもサッカーでも、いろいろな言葉を使って、ある対象を考えるというのは役に立ったし、今でも役に立っています。
私はお子さんの勉強やサッカーを向上させるならば、塾やサッカースクールもいいですが、読書を推薦したいと思います。
それも小学生向けとかではなくて、一流と言われている作家の本です。
勝手に推薦作家を書きたいと思います(笑)。
コナン・ドイル、ヘルマン・ヘッセ、カミュ、レヴィ・ストロース、芥川龍之介、太宰治、中島敦、城山三郎、藤沢周平、大岡昇平、高橋克彦、河合隼雄、司馬遼太郎、スマナサーラ。
中でもレヴィ・ストロースと大岡昇平は難解ですが、それでもその迫力は伝わると思いますし、言葉が素晴らしいのです。
たとえば大岡昇平の『野火』です。
太平洋戦争でのレイテ島(日本兵の97%が死亡と言われる)での日本兵の様子を、大岡昇平は以下のように書いています。
こういう文章を読むと、私は無条件に戦争は嫌だなと思います。
なぜ私は射ったか。女が叫んだからである。しかしこれも私に引金を引かす動機ではあっても、その原因ではなかった。弾丸が彼女の胸の致命的な部分に当ったのも、偶然であった。私は殆どねらわなかった。これは事故であった。しかし事故ならば何故私はこんなにも悲しいのか。(中略)
銃は国家が私に持つことを強いたものである。こうして私は国家に有用であると同じ程度に、敵にとっては危険な人物となったが、私が孤独な敗兵として、国家にとって無意味な存在となった後も、それを持ち続けたということに、あの無辜の人が死んだ原因がある。
私はそのまま銃を水に投げた。ごぼっと音がして、銃は忽ち見えなくなった。孤独な兵士の唯一の武器を棄てるという行為を馬鹿にしたように、呆気なく沈んだ。あとは水は依然として燻銀に光り、同じ小さな渦を繰り返していた。
私は眠らなかった。待っていた。朝の光で、まず私を驚かしたのは、彼の顔と手を蔽っている、夥しいハエであった。
「ひー」
と笛を吹くような音と共に、彼は目覚めた。蠅が音に驚いたように飛び立ち、一尺ばかり離れた空間に旋回し、或いは停止して、羽音を高くした後、また降りて来た。
彼は眼を開け、手で蠅を払い、深く叩頭した。
「天皇陛下様。大日本帝国様。何卒、家へ帰らせて下さいませ。飛行機様。迎えに来い。オートジャイロで着いてくれい・・暗いぞ」彼は声を低めた。「暗いな。まだ夜は明けないかな」(中略)
「天皇陛下様。大日本帝国様」
と彼はぼろのように山蛭をぶら下げた顔を振りながら、叩頭した。
「帰りたい。帰らせてくれ。戦争をよしてくれ。俺は仏だ。南無阿弥陀仏。なんまいだぶ。合掌」
しかし死の前にどうかすると病人を訪れることのある、あの意識の鮮明な瞬間、彼は警官のような澄んだ眼で、私を見凝めていった。
「何だ、お前まだいたのかい。可哀そうに。俺が死んだら、ここを食べていいよ」
彼はのろのろと痩せた左手を挙げ、右手でその上膊部を叩いた。
こういった文章は、なかなか日本人には書けないのです。
大岡自身がフランス文学を研究したというだけあって、ヨーロッパ流の、事実を積み上げていく、感情が出ない書き方だと思います。
そして本家のフランス人で、20世紀最高の文化人類学者と謳われたレヴィ・ストロースも、フランス流の毒舌を効かせた独特な文章を書くのです。
そして私は大岡昇平やレヴィ・ストロースのような文章を読むと、感激に震えるのです(笑)。
死者にさいなまれること、あの世での邪悪な処遇、そして呪術の責め苦ーそれらのものから解放されようとして、人間は三つの大きな宗教的試みをした。およそ五百年の間隔で隔てられて、人間は仏教、キリスト教、それからイスラム教を次々に考案した。そして、各々の段階が、前者との関係での進歩を記すどころか、むしろ後退を示しているのは驚くべきことだ。(中略)
人間は、初めにしか本当に偉大なものは創造しなかった。それがどんな領域であれ、最初のやり方だけが全き意味において有効なのだ。
レヴィ・ストロースは、西洋人でありながら、仏教が宗教では最もレベルが高く、キリスト教はレベルが低く、イスラム教はもっとレベルが低いと言っています。
その是非はともかく、その言い方、言葉の使い方が私を感動させます。
言葉を縦横無尽に使いこなしている感じがあります。
さらに「言語が世界を規定する」ということは、言語を豊富に持っていれば、職業人としても有能だと言えるかと思います。
サッカーでも同じでしょう。
微妙な違いを言語化できるということは、それだけ豊富な技術なり個人戦術なりを持てることになります。
そのことをレヴィ・ストロースが素晴らしい言葉で語っています。
その言葉で締めさせていただきたいと思います。
本章の冒頭に引いた、いわゆる未開言語について言われていることがもしかりに文字どおりにとらねばならぬとしたところで、それから一般的概念の欠如という結論を引き出すことはできない。「カシワ」「ブナ」「カバノキ」などが抽象語であることは、「樹木」が抽象語であることと同じである。二つの言語があって、その一方には「樹木」という語だけしかなく、他方には「樹木」にあたる語がなくて樹木の種や変種を指す語が何十何百とあるとしたら、いま述べた観点からすれば概念が豊富なのは前者の言語ではなく後者のほうである。
職業語の場合がそうであるように、概念が豊富であるということは、現実のもつ諸特性にどれだけ綿密な注意を払い、そこに導入しうる弁別に対してどれだけ目覚めた関心をもっているかを示すものである。このような客観的知識に対する意欲は、われわれが「未開人」と呼んでいる人びとの思考についてもっとも軽視されてきた面の1つである。、、、世界は欲求充足の手段であるとともに、少なくともそれと同じ程度に、思考の対象なのである。