慈悲瞑想。 | 徒然に。

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思ったことを気ままに。

 今年最後のブログですが、この1年お付き合いいただきありがとうございました。

 この1年ほど、医学ブログから突然のサッカーブログへの転身により(笑)長年のサッカー研究で自分の思うことは、それなりに書けたかなと思います。

 ただ、もちろん研究に終わりはないので、忙しいときでも1日5分でも研究を継続していきたいと思っています。

 同時に、ワクチンについても私が思うことを発信してきました。

 ただ、サッカーブログは本当に多くの方に読んでいただいて、私が提案したことを実践いただき「息子が明らかにうまくなった!」との声も複数いただき、本当に嬉しかったし手応えがありました。

 しかしワクチンについては、私が訴えたかったことが、ほとんど伝えられなかった感触があり、自身の文章力のなさに忸怩たる思いがあります。

 

 ワクチンに関しては、推進派と否定派がお互いを罵り合うということが、日々X(旧ツイッター)で繰り広げられています。

 私が今やっている少年サッカー界でも、けっこう試合現場はどのチームもピリピリしているときが多いですし、なんなら試合中に指示をほとんどしない私に対して、不満の声が聞こえてきたりします。聞こえなかったことにしていますが(笑)。

 といっても、私が一生懸命指示を出しまくったら、それはそれで「もっと子どもの自主性を!」と言ってくる人はいるので、どちらにしろ文句は言われるのです(笑)。

 

 私は、なにかそういった「不満」みたいなことを他者にぶつけることを、自分はしたくないと思っているのです。

 そう思うようになったきっかけが、テーラワーダ仏教に伝わる「慈悲瞑想」を知ってからでした。

 「これはいい!」と思い、10年以上毎日実践しています。

 

私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私は幸せでありますように(3回)

私の親しい生命が幸せでありますように
私の親しい生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい生命の願いごとが叶えられますように
私の親しい生命に悟りの光が現れますように
私の親しい生命が幸せでありますように(3回)

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)

私の嫌いな生命が幸せでありますように
私の嫌いな生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな生命の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな生命に悟りの光が現れますように

私を嫌っている生命が幸せでありますように
私を嫌っている生命の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている生命の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている生命に悟りの光が現れますように

 私自身はすぐに他者に対して「ムカつく」という感情が出てくる人間ですが、慈悲瞑想を唱えると、なにか崇高な気持ちがやってきます。

 少年サッカーの試合にこういう気持ちで臨めたときは、相手チームにスーパーゴールを打ち込まれたときは、心の底から「すげえ!」と思い、つい拍手をしてしまいます(笑)。

 

 さらに慈悲瞑想で私が素敵だと思うのが「私を嫌っている生命が幸せでありますように」「私が嫌っている生命が幸せでありますように」と祈ることです。

 嫌いな生命も生きています。

 いくらゴキブリが嫌いでも、ゴキブリは一生懸命生きています。

 私は慈悲瞑想を始めてから、ゴキブリとか蚊を殺せなくなってしまいました(笑)。

 蚊を殺せないのは困ります。痒いのです(笑)。

 ですが反射的に蚊を殺してしまうときはあります。

 そのときは心のなかで「ごめん」と謝ります。

 まさに「変人」です。

 

 ただ、生命とは残酷なものです。

 生命は、他の生命を「食べる」ことによってしか、自身の生命を継続させられません。

 いくらベジタリアンといっても、植物だって生きているのです。

 だから仏陀は「できるだけ少食にしろ」と言ったのだと、私は勝手に思っています。

 生命を殺して自身が生きるのはしょうがないにしても、他の生命を極力殺さないようにしたほうがいいだろうということで、仏陀は少食を推奨したのだと私は思っています。

 

 慈悲瞑想をやっていて、良かったと思うことがあります。

 それは自分と敵対する人に対しても、どこかで「この人も幸せになってほしい」と、それなりに自然に思えるようになったことです。

 もちろん敵対する人には基本的にムカついているのですが、どこかで「この人も一生懸命生きているんだよなあ」と思うのです。

 そして、そう思えるようになったのは慈悲瞑想を10年以上継続しているおかげだと思っていますし、そう思えているときは、大げさに書けば、この世に生まれてよかったというような崇高な感覚がやってきます。

 もしかしたら、人は自分の嫌いな人の幸せを祈るという、そういう心の状態が、なにか生死を超えた美しい感動がやってくるような気がするのです。

 たとえば、ホロコースト(ナチスドイツによるユダヤ人大虐殺)で妻や子ども、親や親戚を皆殺しにされたフランクルという精神科医がいました。『夜と霧』で有名です。

 彼は自身もナチスドイツによる強制収容所でひどい目にあい、家族全員が殺されたにもかかわらず、戦後ドイツ人に対する戦争犯罪を追求することを拒否しました。

 「ドイツ人も被害者だ」と言って。なかなかできることではないと思います。

 彼の言葉を読むと、私は涙が出そうになります。

どんな時にも人生には意味がある。未来で待っている人や何かがあり、そのために今すべきことが必ずある。

 

あなたが人生に絶望しようとも、人生があなたに絶望することはない。何かや誰かのためにできることがきっとある。時があなたを待っている。

 

強制収容所での生活を送った私たちには、忘れられない仲間がいる。誰もが飢えと重労働に苦しむ中で、みんなにやさしい言葉をかけて歩き、ただでさえ少ないパンのひと切れを身体の弱った仲間に分け与えていた人たちだ。そうした人たちは、ほんの少数だったにせよ、人間として最後まで持ちうる自由が何であるかを、十分私たちに示してくれたのだ。

 

ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。

 今年も終わり。

 読者の方は、この1年付き合っていただきありがとうございます。

 

 読者の方が、来年も幸せでありますように。

 読者の家族や親戚、友人が来年も幸せでありますように。

 私のブログを読んで「ほんとこいつうざいな」と思っている方が来年も幸せでありますように。

 生きとし生ける生命が、幸せでありますように。