居合の開祖 天才 林崎甚助重信 | 日本剣豪列伝

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勉強させて頂きます。

居合の開祖 林崎甚助重信(はやしざきじんすけしげのぶ)をです。

居合(抜刀術)の流派をさかのぼっていくとほとんどが林崎甚助に行き当たります。
今までご紹介させていただいた流派にも居合(抜刀術)の技はありますが基本的には抜刀した状態の技が圧倒的に多いのが事実です。
しかし林崎甚助は居合(抜刀術)という納刀し状態からの技にに特化しました。

そして、その技を体系化させ後に有名な門弟が育ち後の居合(抜刀術)という独立した剣術を誕生させる事となりました。
現在の居合道は、抜刀から納刀、および諸作法(立ち方や座り方、歩み方等々)を通し技能の修練のみならず
人格のなども含めた自己修練の道であるとされます。

特に座った状態で鞘から刀剣を抜き放ちさらに納刀に至るまでを含めた技術を一つの独立した技の体系としています。
間近に座した相手が小太刀や短刀で突いてくるといった事を想定した技が多く伝えられています。
先ずは居合と剣術の違いをお話させていただきます。

※私が剣道経験者ですので剣術(剣道)からみた居合という形になってしまいますが
現在も「剣道と居合は車の両輪」と言われたりします。刀を扱う技術、理念、思想は殆ど変わりません。
両者とも最終的には抜かずに勝つという「活人剣」の考え方にもたどり着きます。

全日本剣道連盟居合においても1969年に剣道人のための居合道入門用の形として
居合道の各流派の基本的な業や動作を総合した物を制定した居合道形が作られました。
制定居合とも呼ばます。これに対して各流派の形は古流の形とよばれます。

現在剣道の段位を取得する為には剣道理念の筆記試験と剣道実技、そしてこの制定居合の実技を合わせて合否判定が行われています。
居合(居合道)と剣術(剣道)は切り離せない物であるにも関わらず
わざわざ全日本剣道連盟も制定居合を設け各流派の形は古流の形と呼んでいます。

その訳は同じ刀を用いた剣術でありながら+極と-極の様に異なる性質があるからだと考えられています。
圧倒的に違うのは抜刀状態か納刀状態かとい事と
相手との距離間(間合い)だと思います。

剣術(剣道)の場合、一般的には抜刀した状態の戦闘態勢であり
尚且つある一定の距離、相手から離れて始められます。

相手が近いと刀が抜けません。
また両者とも抜刀状態ですので、おのずと無闇に先に動くと不利な状況が起こるので「後の先(ごのせん)」と呼ばれる
先に相手を動かし、その相手の動きに応じて的確な技を出す必要があります。
(暴れん坊将軍の殺陣がわかりやすいです。雑魚が動くに合わせ反撃しています。あれも「後の先」です。多分…)

居合(居合道)の場合は納刀した状態の非戦闘態勢で行われ、相手の距離も千差万別です。
特に座っている状態からの技が多い事が特徴です。
納刀した状態ですので相手に勝つ為にはどうしても刀を抜く動作が必要となります。
そこで相手より先に攻撃する必要性が生まれます。

ここで必然的に「先の先(せんのせん)」という、相手の動きを読み相手より先に攻撃する考え方や技が多くなります。
(座頭市がそうです。ドラマでも相手に対してジリジリとしてなかなか刀を抜きません。抜くと相手は既に斬られています。)
一撃必殺的な要素が剣術よりも多いと考えます。

ただし、「後の先」も「先の先」も考え方としては行き着く先は同じです。
「後の先」は「先の先」につがり、その逆もです。
結果、最終的に両者は抜かずに勝つという活人剣の思想にたどりつきます。
どちらが優れているという事はないと私は考えます。
同じ刀で戦闘態勢と非戦闘態勢は表裏一対です

ですが、剣術と居合は異なる道を歩んでいきました。
それは、後の柳生新陰流の広まりによる影響があると考えます。

柳生は時代を経るにつれて、剣術と居合(抜刀術)を異なる物として扱いました。
技においても居合には重点を置いていなかったとされています。
居合(抜刀術)に暗殺剣的な要素を感じていたからだとも言われます。

また、抜刀してしまうと居合も剣術も変わらなくなります。
むしろ納刀する必要性が生じる居合の方が不利な場合もあります。
そこで「はじめから抜いしまえ」的な考え方が広まったとする説もある様です。

抜刀と納刀の違い。
想定している相手の状況の違いから両者は水と油的な要素も併せ持つ事になりました。

これには、林崎甚助と上泉や卜伝との剣に対する環境や目的達成の考え方の違いから生まれたと私は考えます。
上泉や卜伝は戦の中で戦闘態勢を意識した状態で技を編み出したと考えます。
戦闘状態の中から生き残る必要性がありました。

一方の林崎甚助は少年の身で敵討ちをしなければなりませんでした。
敵討ちも生き残る必要性はあります。

しかし、少年が大人を倒すには相手の虚をつく必要があり、
殺意を殺意として気が付かれてはいけなかった。

この状態こそが、まさに「先の先」の状態へと繋がっていったのだと考えます。

長くなりましたが居合と剣術は一緒なのに違うという事が言いたかったのです。
「同じ大豆なのに味は醤油と味噌の様に違う」と言われた居合の先生がいました。

根幹は同じなんです。
目的も理念にもほとんど違いはないのです。
ただやっぱり大きく違う部分もあるのです。

同じ刀を用いながら居合と剣術に分かれていった原因を林崎甚助を通して考察します。

林崎甚助重信(はやしざきじんすけしげのぶ)1542年(天文11年)~1621年(元和7年)
※生年は1548年(天文17年)との説もあります。
出羽国楯岡山林崎(現山形県村山市楯岡辺り)で生まれました。

本来の姓は浅野、幼名を民治丸といったそうです。
父は浅野数馬。
1547年、父の浅野数馬は坂一雲斎という人物に恨みをもたれ、
林崎明神の祠守と碁を囲み、夜更けに帰える所を闇討ちされました。

この時、甚助は6歳と伝わっており、物心ついた時には敵討ちをしなければならない状況にありました。

その後、甚助は楯岡城の武術師範であった東根刑部太夫について武術修行に励みました。
1556年、林崎明神に参籠し祈念した所、神より抜刀(居合)の極意を伝授されたそうです。
甚助は若干15歳、その資質をうかがうことができます。

この後も修行をひたすらに続け、さらに抜刀の妙を悟ったといわれていますので、
敵討ちと抜刀への並々ならぬ執念(信念)があったのだと思われます。
1561年、長年の修行の甲斐があって仇討ちは成功し本懐を遂げる事ができました。

ただ、その敵討ちの詳細はわかっていないようで、
場所も京の坂一雲斎の自宅であったとか、清水寺付近等々さまざまな説がありますが、
どうやら京で本懐を遂げた様です。
その後、神託を得た林崎明神に立ち寄り信国の太刀を奉納されたと伝わっています。
後、甚助も祀られ林崎居合神社と呼ばれています。

その後は諸国を廻国修行し、幾多の弟子を育てたそうです。
その途中では、加藤清正に招かれ加藤家の家臣を指南したとも伝えられています。

史実はわかりませんが、林崎新夢想流に伝わる伝承では
林崎甚助は塚原卜伝より鹿島新当流も学んだと伝えられています。

また、伝書に「天真正」とある事から飯篠長威斉の天真正伝香取神道流も伝授されていると考えられています。
1617年に70代にして諸国へ再度廻国修行に出てその後の行方はわからないそうです。
甚助の弟子は田宮重正(田宮流開祖)関口氏心(関口流開祖)片山久安(片山伯耆流開祖)などがいます。

林崎甚助が開いた流派は神夢想林崎流、林崎流、林崎夢想流などと呼ばれていますが
甚助自身が生前にこの流派名を名乗ったわけではない様です。

この他に神夢想林崎流から分かれた流派(無双直伝英信流など)の系譜で
初代とされている事なども含め、居合の開祖と呼ばれている理由だと考えられます。

甚助に関する資料も大変少ないのですが、
幼少の頃より敵討ちの為に身を捧げ、本懐を遂げる為に日々苦悩していたのだと考えます。
そして15歳で奥義の神託を受けたという事からもわかる様に
卓越した技量も持っていた人物です。

甚助の評価は様々あると思いますが
多くの剣豪たちの中でも上位に名前があがるほど強い人物であるという評価が多いようです。
その理由には卓越した技量と道理にかなった技法があったものだと考えます。
ただ、敵討ちの他には主だった逸話も無いようです。
しかも、敵の坂一雲斎は父親を遺恨により闇討ちする様な人物ですから技量も怪しいのではと余計な勘ぐりをしてしまいます。

しかし、6歳の甚助は敵討ちという現在の私たちには、共感し難い非常事態におかれました。
多感な時期に日々敵討ちの事ばかり考えていた6歳の子どもには、敵の坂一雲斎は途方もなく大きくて強大な敵となり心の中にいたと考えます。
そんな状況の修行の日々は苦悩の日々であった事は想像に難くないと思います。

本懐は果たすまでの14、5年間、甚助は常に非常事態でした。
非常時に非常の才を発揮したとも言われています。
だからこそ15歳の若さにして神伝を授かったのではないでしょうか。
卜伝が神伝を授かったのは68歳といわれています。
この事からもわかる様に、天賦の才があり尚且つ非常事態の中で剣の修行をしていたのでしょう。

そんな甚助が開祖となった居合ですが、後に
「抜かば斬れ 抜かずば斬るなこの刀 ただ斬ることに大事こそあれ」
という言葉が残る様に、人を斬る事が目的にはなりませんでした。

この辺りに敵討ちを遂げなければならなかったにも関わらず
極力抜刀しない居合を選んだ甚助の人間の心の妙がある気がしてなりません。

私の勝手な想像ですが
敵の坂一雲斎を倒した時に本懐を遂げた歓喜よりも
「あれ?こんなものか?」
と思ったのではないかと思います。

今まで必死にやってきた結果、目的を達成しましたが
「こんなものか?斬らなくてもよかったのかな?」
といった心境になったのではと。

だからこそ、本懐を遂げた後は門弟を育てる事に注力し
育てた門弟たちも達人たちが多く現れ、居合道としての道を進んで行く事になったのだと考えます。
私も今回、甚助を勉強し、さらに居合道をもっと勉強しなければならないと感じました。

林崎甚助の出典
古武術剣術がわかる事典これで歴史ドラマ小説が楽しくなる! 牧秀彦
誰も知らない武術のヒケツ 長野峻也
日本剣豪100人伝 学研
夢想神伝林崎流尚士館Webサイト http://syoushikai.battodo.jp/
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