タイ捨流の開祖 丸目蔵人佐長恵 | 日本剣豪列伝

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本日は九州一帯に広まったタイ捨流(タイしゃりゅう)の開祖で
柳生石舟斎、疋田豊五郎、神後宗治たちと並び上泉門下の四天王と呼ばれた
丸目蔵人佐長恵(まるめくらんどのすけながよし)です。

タイ捨流(タイしゃりゅう)は九州一帯に広まった流派で、
江戸時代に入ると特に佐賀藩(現佐賀県)と人吉藩(現熊本県南部辺り)で盛んに学ばれました。
タイ捨流のタイは大、太、体、待、対などの複数の意味があるのですが、

体とすれば体を捨てるにとどまり、
待とすれば待つを捨てるにとどまり、
太とすれば自性に至るということにとどまり、
対とすれば対峙を捨てるにとどまり、
と、漢字にしてしまうと字の意味に限定されてしまうので、
仮名でタイと書く事で、どの意味にも通じることができるからだそうです。


丸目が上泉の高弟であった事もあり、技は勿論、理念にも上泉の新陰流が根底に流れていて、
タイ捨流もまた「活人剣」の教えを説いています。
ちなみに丸目は上泉から「殺人刀太刀」「活人剣太刀」の免許皆伝を受けているそうです。

技としての最大の特徴は独特の構えと、右半開(右半身)に始まり左半開(左半身)に終わり、
上下左右とも斜めに斬る込む(袈裟斬り)事に終結するとされる所だそうです。
私も映像でしか見た事がありませんが、円を描く動きが多く、飛び跳ねたり、
蹴や目潰しなども組み合わせた技が多い剣術です。

ちなみに示現流の開祖、東郷重位もタイ捨流を学んでいました。
youtubeでタイ捨流と検索すると動画が見られます。

丸目蔵人佐長恵(まるめくらんどのすけながよし)
1540年(天文9年)~1629年(寛永6年2月7日)タイ捨流の流祖。

1540年(天文9年)丸目与左衛門慰の長男として肥後国八代郡人吉(現熊本県人吉市辺り)に生まれました

本姓は山本だそうですが、初陣の戦功により父と共に丸目を与えられました。
丸目家は、肥後国(熊本県)南部の領主(後の人吉藩藩主)であった相良氏の家臣でした。
戦国時代の相良氏は南には薩摩の島津氏、北には大友氏と絶えず戦を繰り返していました。
丸目も3人の弟と剣術に励ました。

この辺り武田や北条と戦っていた師匠の上泉に似ています。
1555年(弘治元年)16歳の時に薩摩島津が大畑(熊本県人吉市大畑町)に攻んだ際の戦で
武功を上げ父と共に「丸目」の姓を与えられています。
17歳の時には本渡(現熊本県天草市本渡町辺り)城主の天草伊豆守に寄寓し中条流を学びました

1558年(永禄元年)19歳の時に供を連れ京へと廻国修行へと向かいました。
ここで新陰流を創始した上泉伊勢守信綱と運命の出会いをします。
京で上泉に面会した丸目はすぐに仕合を所望しました。

19歳にして意気揚々と上京してきた若い丸目は
上泉が仕合の為に渡した相手を傷つけない為の袋竹刀を見て訝しんだといいます。
しかし上泉に全く歯が立たなかったといいます。
軽く二度まで面を取られ三本目は体当たりで弾き飛ばさる始末だったそうです。

初陣で武功をあげ19歳で上京した鼻っ柱の強い丸目も新陰流の神技に感嘆し、その場で入門を願い出たそうです。
良い師に出会えたのでしょう、丸目は水を得た魚の様に修行に励んだそうです。
程なくして頭角を表し、上泉門下の四天王と呼ばれる程になります。

後に上泉が将軍足利義輝の前で新陰流を上覧した時、師の上泉の相手として打太刀を務め
義輝より上泉と共に感状を与えられています。
その後、上泉と別れ帰国し、相良氏に再び仕え上泉から学んだ新陰流を指南しました

1566年(永禄9年)門人の丸目寿斎、丸目吉兵衛、木野九郎右衛門を伴い再び上京しました。
愛宕山、誓願寺、清水寺の三箇所に「兵法天下一」の高札を掲げ真剣勝負を挑みました。
しかし名乗りでる者は一人もいなかったそうです。

翌年の1567年(永禄10年)京に来た師の上泉は「兵法天下一」の高札の件を知り
「殺人太刀、活人剣太刀」の免許状を丸目に与えたそうです。
帰国後は再び相良家に仕えました。
しかし1569年(永禄12年)に薩摩平出水の守将の島津家久が、相良氏が守る薩摩の大口城を攻めました。

この時丸目はまんまんと敵の策にのせられてしまい敗戦、多くの将を失い大口城は落城しました。
敗戦後その責を負って相良氏より逼塞の命を受けました。
この時に受けた逼塞の命はその後の戦で2度の軍功をあげても
許してもらえなかったそうです。

晩年は相良氏に許され帰参し、徹斎(てっさい)と号し97歳の長寿をまっとしたそうです。
丸目は九州一円にタイ捨流を広め多くの門弟を育てました。
門弟の中には武将の蒲池鑑廣や豊臣秀吉に剛勇鎮西第一と賞された立花宗茂らがいました。
その後も九州の地からは有名な剣豪達が多く排出されています。

現在でも九州の剣道人口の多さと剣道のレベルの高さは他の地域より抜きん出ています。
そんな九州の地に剣術を普及させ下地をつくった人物であるといえると思います。
上泉や柳生石舟斎などと比較すると、やんちゃというか破天荒な人間性も見られますが
それも九州男児の魅力なのかもしれません。

丸目蔵人佐の出典
古武術剣術がわかる事典これで歴史ドラマ小説が楽しくなる! 牧秀彦
誰も知らない武術のヒケツ 長野峻也
日本剣豪百人伝 学研
無形文化財タイ捨流Webサイト http://taisharyuu.or-hell.com/
その他諸々