剣聖将軍 足利義輝 | 日本剣豪列伝

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※独自研究ですので悪しからず…
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勉強させて頂きます。

今回は室町幕府第13代征夷大将軍(在職1546年~1565年)であり
、塚原卜伝、上泉信綱の弟子で
剣聖将軍と呼ばれた足利義輝(あしかがよしてる)1536年(天文5年)~1565年(永禄8年)です。

将軍としての生い立ち
足利義輝は第12代将軍・足利義晴(あしかがよしはる)の嫡男として東山南禅寺で生まれました。
生まれて直ぐに外祖父の近衛尚通(このえひさみち)の猶子(ゆうし)となっています。
この頃の幕府は将軍足利義晴と管領細川晴元が激しく対立を繰り返していました。

父である将軍足利義晴は晴元と争う度に敗れ、近江坂本に逃れ義輝もこれに従っていきます。
その後も父とともに京への復帰と近江坂本(現滋賀県大津市辺り)や
朽木(くつき現滋賀県西部(湖西)の高島郡辺り)へ脱出を繰り返しました。
そして、義輝が11歳の時に父義晴より将軍職を譲り受けます。

将軍就任式は亡命先である近江坂本の日吉神社(現日吉大社)で行われました。
この時、元服し名を義藤(よしふじ)と名乗ったそうです。
そして1548年(天文17年)父義晴は細川晴元と和睦し京に戻りました。
やっと京への帰還を果たした義輝ですが、またも戦国時代の波に襲われます。

京に戻った矢先、細川晴元の家臣であった三好長慶(みよしながよし※ちょうけい とも)が裏切り
細川氏綱に属して畿内に一大勢力を築き上げます。
1549年(天文18年)義晴・義輝父子は細川晴元とともに京を再び追われ近江坂本に逃亡します。

1550年(天文19年)義輝15歳の時に父義晴が亡命先の近江坂本の常在寺にて死去します。
その後、義輝は堅田(かたた現滋賀県大津市北部辺り)へ、翌年には朽木に逃れています。

この様な少年時代(当時の15歳は少年ではないと思いますが)を過ごした義輝が後に
卜伝、上泉と出会い剣聖将軍と呼ばれるまでに腕を磨いたのは、
戦国時代に権威が失墜した将軍家に生まれ、
将軍家再興といった志を成す為に剣を磨く事によって自己を磨こうとしたのではと考えます。

三好家との戦い
1552年(天文21年)細川氏綱を管領にするという条件で三好長慶と和睦し、京に戻どりました。
この時点では義輝は三好長慶と松永久秀の傀儡でした。

その為、義輝は1553年(天文22年)に細川晴元と協力し三好長慶と戦いましたが、敗れ近江朽木に逃れました。
亡命中に名を義輝に改めています。
1558年(永禄元年)に六角義賢(ろっかくよしかた)の仲介により三好長慶と和睦し京へ戻りました。

京へ戻った義輝でしたが、三好長慶はますます権勢を誇り、幕府の御相伴衆に加えられたりしていきます。
しかし義輝も指をくわえて黙っていた訳ではないようで、
三好長慶はたびたび暗殺未遂事件に遭遇しますが、これは義輝の差し金であったとされれいます。
もう泥沼の戦いです。

三好長慶と戦いながらも義輝は、将軍家再興の為に諸国の大名との修好に力を注ぎました。
織田家や上杉家に幕府の役職を与えたり、
上杉家と武田家、
島津家と大友家、
毛利家と尼子家などなど、
大名同士の争いの調停を行いました。

幕府として 「国の混乱を収める」 という役目を果たすと同時に、
義輝への協力勢力が疲弊しないようにしたと言われています。

この様な政治的手腕を、「天下を治むべき器用有」と評されようで、
次第に諸大名からも無視できない将軍として認められ、
織田信長や上杉謙信などは上洛して拝謁しています。

将軍家再興の為に厳しい戦いをしていた義輝でしたが、剣の腕を磨くことも忘れませんでした。
塚原卜伝は義輝に3ヶ月もの間剣術の指導をし奥義「一ノ太刀」を授けました。

後に塚原卜伝は弟子に義輝の事をこう言ったとされています。
「義輝公の太刀筋、豪達にして優美、惜しむらくはその御身なり」と

いずれにせよ、卜伝は義輝の将軍として幕府再興にかける気概だけではなく、
剣術家としての才能も評価していた様です。

次に上泉信綱を招き、新陰流を上覧させ「兵法新陰 軍法軍配天下一」と評し、
剣の指導を受けました。
この時の上泉の指導はまさに手取り足取りだったと伝わっています。

三好氏の衰退と永禄の変
義輝が様々な方法で将軍家の権威を回復している中、
三好氏は長慶の嫡男や有力一族の死によって、徐々に弱体化していきます。
(松永久秀の為ともいわれています)

そして1564年(永禄7年)三好長慶が病死します。

政敵が消滅した義輝はこれを好機とし、
いよいよ幕府権力の復活に向けてさらなる政治活動を行なおうとしました。

しかし長慶の死後に幕政を牛耳ろうと目論んでいた戦国の梟雄松永久秀(まつながひさひで)と
三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)にとっては力のある将軍義輝は邪魔なだけでした。

そこで、久秀と三人衆は足利義稙の養子・足利義維と組み、義輝を排除して、
義維の嫡男・足利義栄(義輝の従兄弟)を新将軍の候補として擁立しました。

一方で義輝が頼みとする近江六角氏は観音寺騒動と呼ばれる御家騒動によって領国の近江を離れられなくなっていました。

その様な中で1565年(永禄8年)5月19日に永禄の変が起きました。
久秀と三好三人衆は主君三好義継(長慶の養嗣子)とともに足利義栄を奉じて謀叛を起こします。
義輝側も事前に館を修築するなど一応の襲撃に備えていた様ですが多勢に無勢だったようです。

征夷大将軍の最後 義輝は自分の周りに円をかくように正宗や信国などの名だたる名刀数十本を畳に突き立て、
錦の帷子、黒の袴といういでだちで立っていました。

3千にもなる、久秀と三好三人衆の反乱軍にしてみれば
僅か60名ほどの近習では何もできないとタカをくくっていたと思われます。

ですが、卜伝、上泉に指導を受けた義輝は相当に強かったようです。
自ら寄せ手を次から次へと切り倒し、血糊で切れなくなったり折れた刀は捨て、
畳に刺した刀と取替え新手を切り倒しました。

手を焼いた反乱軍は矢を射込みました。
近習が次々に倒れていくなかで義輝はこれを刀で防いでいたといわれます。

最後は畳で四方より取り囲み一斉にかぶせて押さえつけ、
身動きがとれなくなった義輝を畳の上から何本もの槍で襲い止めを刺したといわれています。

征夷大将軍足利義輝の壮絶な最後です。
享年30歳(私より若い…)この永禄の変を機に足利幕府の権威は地に堕ち、次の義昭で滅亡します。

辞世の句は
「五月雨は 露か涙かホトトギス 我が名をあげよ 雲の上まで」

この句をみても将軍家再興に心血を注いでいた事がわかるような気がします。
義輝の死を聞き上泉は涙を流し落ち込んだといわれています。

私見ですが、剣聖将軍といわれるまでに剣を修行し
(自身の環境によってその必要性があったからだとは思いますが)

卜伝や上泉といった当代随一の剣術家から学び、剣術への理解を将軍自らが示した功績は大きかったと思います

また、義輝の辞世の句や政敵を何度も暗殺しようとしたりとする態度から
中々に気性が荒い感じの人物であった印象を持ちます。

将軍で早世したので、疎まれていませんが、
やっている事は、松永久秀とあまり変わらない気もします…
若い事もあり剣の修行も相当入れ込んでいたのではないかと思います。

生まれた時の状況、その後の逃亡生活によって得た感情や経験によって(育った環境というモノでしょうか)
「強く在りたい」と思う気持ちが非常に強かった人物だと考えます。

卜伝がいった様に「惜しむらくはその御身なり」という事は
的を得ていると思います。

以上、足利義輝でした。

足利義輝 出典
古武術剣術がわかる事典これで歴史ドラマ小説が楽しくなる! 牧秀彦
日本剣豪100人伝 学研
今さら聞けない戦国氏のツボ 鈴木旭
早わかり戦国史 外川淳 編著
戦国武将おもしろ辞典 奈良本辰也
その他諸々