(1)今が見頃の「源平(紅白)咲き分けの椿」
「春分の日」を前に、
三ヶ根観音の御神木「源平(紅白)咲き分けの椿」の花が見頃となった。(撮影:3月19日)
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その昔、鎌倉幕府を開いた源頼朝の有力一族、
平賀義信<ひらが よしのぶ>が植えた(と目される)椿だ。
平賀義信は、平治の乱に敗れた源義朝(よしとも=頼朝の父=)に付き従って、
京都から尾張の知多まで逃げ延びてきた。
しかし知多の野間で、平家側に寝返った家臣の裏切に会い、義朝が殺害されるや、
義信は、平家の追及から逃れて、三河の三ヶ根山中に身を隠した(と目される)。
三ヶ根に隠れ、匿われていた義信が、三ヶ根観音の境内地に植えた椿の花は、
不思議と白色の花が赤色の花よりも多く花開いた。
それから850年余り経った今もなお、白が圧倒的に優勢。👇
(部分的に咲いている赤色の花👇)
白は源氏の旗印の色。赤は平家の旗印の色。
平賀義信は、この椿の花の色が、赤を圧倒して 白が優勢なのを見て、
源氏の吉兆を感じ取ったとされる。
そして義信は、源氏再興を掲げて石橋山で旗揚げした頼朝の下に馳せ参じ、
頼朝に三ヶ根の椿の不思議な花の色について話したという。
頼朝これを大いに喜び、
「白花が赤花を圧倒している三ヶ根観音の椿は、源氏にとって誠に縁起が良い!」と、
一族郎党を集めて紹介し、武者たちも喜びに湧いたというエピソードが、
三ヶ根観音の麓、愛知県西尾市幡豆町の民話となって、現在まで語り継がれている。
(平賀義信 ウイキより画像拝借)
地元の民話では、この椿の木を植えた源氏の若武者が、
若き頃の平賀義信であったと特定はされていない。
実は、知多で源義朝が殺害された後、20年間に亙る義信の足跡は、
記録がなく分かっていない。
彼には歴史の記録には現れない空白の20年間がある。
義信が再び歴史の表舞台に現れるようになったのは、
頼朝が石橋山で源氏再興の旗上げをした頃からだ。
鎌倉幕府が開かれた後、
彼は源氏紋様(もんよう=一門=)筆頭の家柄の重要人物として、
初期の幕府を支え、最後は「武蔵守」に任じられた。
三ヶ根山の麓、幡豆町に伝わる民話には、
椿を植えた源氏の若武者が「五郎」という名前で出て来る。
ウイキによれば、義信の通り名は「平賀四郎」とある。
平家に追われて三ヶ根まで逃げ、そこで匿われていた義信は、
自分の名前を、平家側にも知られている「四郎」ではなく、
敢えて「五郎」と名乗り、平家が我が世の春を誇る時代、
その平家を欺くと共に、
岡崎など三河地区に在住している源氏方の関係者や、
彼らを通して、源氏棟梁の頼朝にも、
自らの生存を暗示していたのではないか・・・
三ヶ根観音の境内に、毎年春のお彼岸を待つかのようにして紅白の花を開く、
この椿の木が、いつの頃から、
「源平(紅白)咲き分けの椿」と呼ばれるようになったかは分からない。
が、鎌倉時代を通じて、
多くの鎌倉武者たちが、この三ヶ根観音を訪ねて来たというのは史実だ。
今も、三ヶ根観音境内の一角に、当時の「五輪塔」が残されている。
源氏紋様トップの家柄にあった平賀義信が手植えし、
頼朝公をして「縁起が良い”!」と言わしめた三ヶ根観音の椿の木だからこそ、
多くの鎌倉武者が、この寺を訪ねたと見て、間違いはなかろう。
(2)戦没者慰霊碑の碑文字リニューアル奉仕
「源平(紅白)咲き分けの椿」の開花と合わせるように、
3月の初めから、戦没者慰霊碑の碑文字ペンキ入れや、文字汚れ落としといった、
碑文字のリニューアル作業を進めさせて頂いている。
今回は、その第2弾から第5弾までの様子を、写真で残し置くこととしたい。
①第2弾「トラック諸島・海域戦没者 慰霊碑」 <令和6年3月8日、9日、13日>
(作業前)
(ペンキ作業)
(作業後)
②第3弾「殉国百四十五烈士の碑」の「碑誌」 <令和6年3月13日、14日>
(ペンキ作業・・・「碑誌」)
(作業後)
③第4弾「第一五七飛行場大隊 慰霊碑」の裏面「碑文&戦死者」 <3月22日>
(第一五七飛行場大隊 慰霊碑)
(裏面碑文字の、ブラシによる汚れ落とし作業・・・・・3月22日作業完)
④第5弾「野砲兵第百四聯隊 慰霊碑」の裏面「戦没者」 <3月22日作業開始>
(野砲兵第百四聯隊 慰霊碑)
裏面碑文字の汚れを、ブラシによって削り落とす作業を3月22日から開始。
(作業前の裏碑面状態)
(裏碑面の左下より作業開始)
「野砲兵第百四聯隊 慰霊碑」の裏碑面文字の汚れ落とし作業は、
碑が建立されて以来の、約40年振りの作業。
若くして、中国大陸で亡くなられた500名以上の方々の御名前を、
今一度クリアにさせて頂くことで、
あの昭和の時代、彼らが懸命に生きたという証を蘇らせたい。
合掌