三ヶ根観音境内の御神木「源平(紅白)咲き分け椿」が満開。
(撮影:令和6年3月29日)
戦没者慰霊碑の碑文字リニューアル作業の第5弾として、
3月22日から始めた、
野砲兵第百四聯隊(れんたい)慰霊碑裏面の、
「戦没者」個人名ブラッシングアップ作業が、
3月29日に終了。
慰霊碑が建立された40年前の姿が、ついに蘇った!✨
(野砲兵第百四聯隊<れんたい>慰霊碑 撮影:令和6年3月22日)
(作業開始 令和6年3月22日)
(作業終了 令和6年3月29日)
(作業終了後の碑面上部)
(作業終了後の碑面下部)
作業を終えて、改めて碑面に刻まれた数多くの御名前を前にして思うことは、
ここに御名前が刻まれているお一人おひとりに、
かけがえのない人生があったことだろう・・・・、
彼らは、もっともっと長く生きて居たかっただろうに・・・・。
彼らがこの世に生きた証は、
今はもう、この碑面の名前にしか残されていないのではないか・・・。
若くして国や郷土や家族のために、
その身を擲たれた彼らのことに思いを致す時、
何とも言えぬ、感慨無量の思いにかられる。
せめて、碑の御名前だけでも綺麗にさせて頂き、
御霊をお慰めさせて頂きたいと思う。
改めて、碑に御名前が刻まれた皆様に、
心からご冥福をお祈り申し上げます。
合掌🙏
この野砲兵第百四聯隊<れんたい>慰霊碑には、
同連隊の戦歴が刻まれた「碑文」石碑が併設されている。
「碑文」の文字汚れが進んでいたので、
4月6日にブラッシングさせて頂いた。
(作業後 令和6年4月6日) 👇
続いての碑文字リニューアル作業は、
第6弾となる、「百八観音像」併設の「百八観音由来記」石碑のペンキ入れ。
(百八観音像 撮影:令和6年3月29日))
(作業前 令和6年3月29日)
(作業1日目 ペンキ入れ開始 令和6年3月29日)
翌3月30日になると、慰霊園の桜の花が、あちらこちらで開き始めて来た。🌸
(作業2日目 ペンキ塗り入れ完了 令和6年3月30日)
作業3日目からは、文字からはみ出たペンキの削り落とし。
3月30日、4月1日、4月5日の3日間、周りを桜で包まれながら、
スクレーパという道具で、文字からはみ出したペンキを削り落とす。
しかし、これが中々の手間。🥴
3月30日は、午後の2時間をかけて、ようやく碑文最初の10行の作業が終了。
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(作業3日目 はみ出たペンキの削り落とし 撮影:3月30日)
作業4日目の4月1日。
青空の下、一気に花開いた慰霊園の桜に心が躍る。
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(撮影:令和6年4月1日)
この日(4月5日)は、綺麗な桜に囲まれて、気分よくペンキ削り落とし作業を実施。
(作業4日目 ペンキ削り落とし完了 撮影:4月5日)
作業を終え、改めて「由来記」を読み返してみて、深い感慨に浸った。
「・・・祖国のため、異境大陸の山野に散華した1300余の英霊に思いを馳せ・・・」
当時は、歩兵一個聯隊(れんたい)の定員は、およそ3000名とされていたので、
この歩兵第百八聯隊の戦没者1300名というのは、恐るべき死者数である。
1944年(昭和19年)の4月17日から12月10日まで、
日本陸軍は中国大陸を北から南に貫通して物流ルートを確保し、
同時に、アメリカの爆撃機基地を破壊するという、
大軍事作戦を敢行して勝利した。
世にいう「大陸打通作戦」である。
しかし、この作戦の犠牲者は両軍とも膨大な数に達した。
日本軍の戦死・戦病死者は10万人、
中国軍(国民党軍)の戦死傷者は75万人にのぼるとされる。
下の図👇は、大陸打通作戦の結果、日本軍が占領した範囲。
(日本軍が占領した範囲は図のオレンジ色部分 図はウイキより拝借)
(作戦により日本軍に制圧された桂林の米軍航空基地)
<写真は、井上祐子氏著
「別所弥八郎とアジア・太平洋戦争末期の報道写真 =大陸打通作戦従軍関連写真を中心に=」から拝借>
この3月22日から慰霊碑の碑文字リニューアルをさせて頂いた、
「野砲兵第百四聯隊」と「歩兵第百八聯隊」は、共に、
「大陸打通作戦」にも参加して、日本軍勝利に貢献した部隊。
無数の若者たちの命と引き換えに手に入れた日本の勝利だった。
戦没者として慰霊碑に刻まれた人たちの中には、
作戦の大勝利の瞬間を喜び合う事も無く、戦陣に散って逝った人たちも多かろう。
三ヶ根の戦没者慰霊碑は、運よく戦地から、
生きて日本に帰って来られた生還元兵士の皆さんと戦没者のご遺族が建てられたもの。
生還された元兵士たちや、ご遺族の篤い思いが込められた慰霊碑だ。
無事生きて帰ってくることが出来た生還元兵士たちにとって、
戦争中は、その生死の境は紙一重だったことであろう。
殺さなければ殺されるという過酷な戦場を体験して来た生還元兵士たちは、
戦後の日本で、死に物狂いで働き、家族を養い、日本の経済を引っ張って来られた。
しかし、彼らの心の内にある、戦場の惨い体験は、決して消えることは無く、
また、家族に、自分の壮絶な体験を話す事も出来なかったに違いない。
そうした彼らが、唯一、自らの苦しみを救ってくれると信じたのが、
慰霊碑に併設されている「観音像」だったと、小生には思われてならない。
慰霊碑の観音像は、
戦没者や御遺族を、苦しみから救い上げて下さる存在としてだけでなく、
辛い戦場体験で、心に傷を持つ生還元兵士たちの「心の支え」でもあったに違いない。
(百八観音像)
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(平和観音像)
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合掌