(保存版)『民族の防波堤となった士魂部隊』・・終戦3日後に北千島へ不法侵攻したソ連軍を撃退 | 三ヶ根の祈り のブログ

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 76年前の昭和20年(1945)8月18日未明、

既に、日本はポツダム宣言を受諾して、太平洋戦争が終結しているにも関わらず、

スターリン率いるソ連軍は、正に火事場泥棒そのものとなって、

日本領土(千島列島北端の占守島<しむしゅ島)への無法武力侵略を開始しました。

 

(占守島の位置  ウイキより)

 

 8月15日の昭和天皇の詔勅により、

日本軍は、直ちに自主的な武装解除に入っていましたが、

そのスキを狙い定めたかのように、大部隊で占守島に上陸進攻してきたのです。

 

 島に駐屯していた日本軍部隊は、師団長命令を受けて再武装し、

果敢にソ連上陸軍に戦いを挑み、ついにこれを打ち破りました。

 

 

 史上「占守島の戦い」と呼ばれているこの戦いで、

獅子奮迅の働きをしたのが戦車第十一連隊で、その隊長が、

後に、日本軍戦車隊の神様とも慕われるようになった池田末男(すえお)大佐です。

<戦死後少将>

 

 三ヶ根観音戦没者慰霊園には、

同部隊の元隊員や遺族によって建てられた、立派な慰霊碑「士魂碑」があります。

 

 

 

 この慰霊碑の手前に、平成26年、三ヶ根観音戦没者慰霊園 護持・奉仕会により、

士魂部隊の顕彰板「戦車第11連隊 士魂の碑」を建てさせて頂きました。

 

 

 

 この顕彰板には、以下の言葉が記されています。

 

 

「戦車隊の神様」池田末男大佐率いる 『士魂部隊』への感謝

 

  戦車第十一連隊(士魂部隊)の連隊長として、北千島占守(しむしゅ)島で、

ソ連(ロシア)軍を打ち破った池田末男大佐は、

明治三十三年、地元愛知県豊橋市に生まれた。

 

 旧制豊橋中学(現時習館高校)を卒業。

 

 陸士第三十四期。 昭和十六年八月陸軍中佐に昇進。

 

 昭和十九年七月、満州四平(しへい)陸軍戦車学校校長代理に就任。

 

 

  学徒兵として、この戦車学校で薫陶を受けた作家の司馬遼太郎氏は、

大佐へ寄せる篤い思いを「風塵抄」の中で披瀝している。

 

 

  昭和二十年一月、戦車第十一連隊長として占守島に着任。

 

 同年六月陸軍大佐に昇進。

 

 

  厳寒の占守島でも変わらず、自分の下着の洗濯を当番兵にさせず、

全て自分で洗濯するなど、常に部下を気遣かわれたという。

 

 部下思いの大佐への、将兵たちの信望は非常に篤いものがあった。

 

 終戦三日後の八月十八日未明、隊員たちが武装解除への準備を進め、

故郷帰還への喜びを語り合っていたその時。

 

 

 日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連は、無法にも島に侵攻し、

大挙上陸してきた。

 

 侵攻してきた部隊は、欧州東部戦線でドイツ軍を打ち破った

歴戦のソ連軍部隊であった。

 

  占守島の要衝四嶺(しれい)山に雲集したソ連軍を前に、

その撃滅を決心した池田大佐は部下を集めて問うた。

 

 

 「諸氏は赤穂浪士(あこうろうし)となって、恥を忍んで将来に仇を報ぜんとするか、

或いは、白虎隊(びゃっこたい)となり、玉砕をもって「民族の防波堤」となって、

後世に問わんとするか。

 

 赤穂浪士たらんとする者は一歩前へ出よ。

 

 白虎隊たらんとする者は手を挙げよ。」と。

 

 この言葉が終るや、歓声と共に手が挙がったという。

 

 「池田連隊は、これより敵中に突入せんとす。祖国の弥栄(いやさか)を祈る。」

 

 師団司令部に打電するや、池田大佐を先頭に、

士魂部隊の戦車群は四嶺山山麓のソ連軍めがけて殺到した。

 

 日の丸の鉢巻きに、日章旗を片手に掲げ、戦車の砲塔にまたがって先頭を進む、

白ワイシャツ姿の池田大佐の姿に、日本軍の将兵皆感激したと伝えられている。

 

 

 士魂部隊は、上陸軍を激しい戦闘の末、ついに撃退した。

 

 ソ連軍の死傷者は数千名にのぼり、損害は極めて大きかった。

 

 ソ連共産党機関紙イズベスチャは社説で、

「占守島の戦いは、満州・朝鮮における戦闘より、はるかに損害が甚大であった。

 

 八月十八日はソ連人民の悲しみの日である。」と述べている。

 

 

 一方、池田大佐(戦死後陸軍少将)はじめ、

士魂部隊の精鋭、九十六名の勇士たちも、壮絶な戦死を遂げた。

 

 

 ソ連はこの侵攻にあたり、

終戦直後の日本軍の隙を突いて、占守島を踏み台に全千島列島と北海道本島まで、

一気に占領しようとの野望を抱いていたことが戦後明らかになった。

 

 しかし、占守島で手痛い打撃を蒙ったソ連は、その野望を断念せざるをえなかった。

 

 歴史に「もし」があるとするならば、

もし日本軍が、占守島の戦闘で敗れていたり、戦闘をせずにソ連の軍門に下っていたら、

北海道はソ連に分断占領され、ドイツや朝鮮半島と同様、

日本国民は塗炭の苦しみを味わうことになったであろうことは、

容易に想像がつくところである。

 

 

 戦後七十年近くを経て顧みるに、大戦が終結した昭和二十年八月十五日の三日後に、

ソ連(ロシア)によって引き起こされた無法な侵攻に対し、自らの身を顧みず、

勇躍、敵を撃退した、池田大佐率いる士魂部隊の活躍は、

かけがえのない日本の国土(北海道)と日本国民を守るという、

正に「防波堤」としての役割を、十二分に果たして下さったものと断言できよう。

 

 

 改めて、池田大佐はじめ士魂部隊の全将兵の皆様に、

深い感謝の意を表させて頂くと共に、この戦で亡くなられた全ての英霊、並びに、

戦後ソ連による無謀なシベリア強制抑留によって、

異国の地に無念の死を遂げられた部隊の方々に、心からご冥福をお祈り申し上げます。

 

 平成二十六年二月十一日(建国記念の日)

 

 (文責 三ヶ根観音戦没者慰霊園 護持・奉仕会)

 

 

 改めてこの戦いで亡くなられた士魂部隊員初め、

日本軍将兵の皆様のご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

         合掌