『戦友だより』 第1号 「昭和20年8月15日の思いで」の第11回。
今回は秋田県の「森谷虎夫さん」です。
この第1号では、戦友会の皆さんが、厳しい戦いの日々を送って
来られた太平洋戦争の終結時、一体どんな状態にあったか、そして、
何を思ったか、正直なお気持ちが綴られています。
戦友の皆さんの気持ちが綴られたこの「戦友だより(第1号)」は、
大平洋戦争が終結して50年目の、平成7年(1995)8月15日に
佐藤弘正さんの手により発刊され、戦友諸氏に配られたものです。
なお、記述は、以下の4つの観点で記されています。
① その時、貴方は何処で何をしていましたか、
② 戦友とどんな話をし、隊はどんな命令を出しましたか、
③ どんな噂が流れ、どうなると思いましたか、
④ その他、感じたことや、現在の様子等。
<なお、文中の①~④の番号は、上記の4つの番号に符号しています。
また(注)は、ブログ筆者によります。>
『 ① 昭和18年(1943)10月、サラワケットをようやく越えてから
落後し、中河原さんと一緒にキヤリに着いて、
中河原さんが「もう歩けないから入院する。」と言うので、
二人で野戦病院に行ったら、「本人より付き添いの方が
よほど参っているからお前も入院しろ。」と言われました。
中隊への連絡は病院が引き受けてくれて、
キヤリ、マダン、ウエワクと送られ、
ウエワクで中河原さんはフィリピンへ後送され、
私はパラオを経て、昭和18年12月に広島江波病院に入り、
19年1月静岡の三島病院を経
5月中旬、中部第4101部隊へ原隊復帰、
20年5月には愛知県知多郡衆楽園の旅団司令部で
庶務担当をしていました。
8月15日、全員広場に集合。連隊長より「天皇陛下より、
必勝の激励放送があるだろうから、覚悟を新たにせよ。」との
訓話の後、玉音放送が始まったが、雑音が酷くて全く聴き取れず、
アナウンサーが無条件降伏の解説をしたので、
全員呆然として涙を流しました。
副官から軽挙妄動せぬよう厳重に注意されて解散したが、
誰もが「あー、あー」と言うだけで、言葉を失っていました。
② 「アメリカ兵が上陸して来たら、若い女の子はどうなるのかなぁー」
などが、一番心配だったようです。
翌日から主として書類の焼却をやりました。
その日、連隊長用の車に、ドラム缶一本のガソリンを積んで
逃げた兵隊がいましたが、この混乱時では盗み得になって
しまいました。
「今後、列車が動かなくなる可能性があるから、
遠隔地の人は、早く帰郷せよ。」ということで、
青森の石田雄次郎、新潟の間宮太郎、山崎休威、青木悟、
秋田の私等が一緒に、8月25日頃家に帰って来ました。
③ これから先、どうなるか皆目見当がつかず、唯、生きられるだけ
生きようと思っただけでした。 』
拝
「戦友だより(佐藤弘正氏編集)」
以上