昨日(9月5日)、たまたま中日新聞の社会面を開いていましたら、小さな写真が目に留まりました。
僧侶と神職とが、傘をさしながら列を作って、並んで歩いている光景
でしたので、「おやっ」と思ったのです。
記事を読みますと、 北野天満宮(神社)と古来関係の深い、比叡山延暦寺(仏寺)が合同で、室町時代末期の応仁の乱以来となる、550年振りの「北野御霊会」を斎行して、新型コロナ終息を祈願されたというのです。
私が「おやっ」と思いましたのは、僧侶と神職とが同じ場において、同時に法要を共催することが珍しかったからです。
少し調べてみました所、平安時代以降、北野天満宮は、比叡山延暦寺のグループ寺社と言うべき有力メンバー(延暦寺が北野天満宮を管轄)でそのトップには、天台宗五大門跡の一つ曼殊院の門主が就任し、宗教的行事をも共同で斎行するような関係にあったことが分かりました。
正にこれこそ、明治維新まで日本の多くの寺社においては、当たり前の姿、すなわち「神仏習合」の典型的な姿だったのです。
人々は、「神仏」が一所に祀られている、この日本古来の「神仏習合」の寺社に代々馴染んでいました。
今では、俄かには信じられないのですが、神社のご神体が仏像であるという神社も、当たり前のように多くあったのです。
しかし、明治政府(薩長政府)は、政権を担うや、この「神仏習合」の
構造を徹底的に切り崩したのでした。
「神仏判然令」などの法令を足がかりに、地方政府の役人や、政府の
意を受けた下級神官たちが、人々の精神的基盤であった寺社において、神道に関わる建物や事物と、仏教に関わる建物や事物を、敢えて強制的に峻別し、神道に関る部分は残し、仏教に関る部分は、仏壇・仏像であれ、経典であれ、梵鐘であれ、ことごとく撤去 もしくは破壊するという空前絶後の「廃仏希釈」の暴風を、日本中に吹き荒らしたのです。
(鹿児島県姶良<あいら>市 総禅寺の「廃仏毀釈」のツメ跡)
<出典:「カミとホトケの幕末維新」 岩田真美・桐原健真 編 龍谷叢書46 法蔵館 >
また、元長州藩士で、当時の京都大参事だった「槇村正直」は徹底した京都府内の「廃仏毀釈」を推進し、北野天満宮も仏教に関する事物を撤去
させられた後、社名も「北野神社」に替えさせられました。
槇村は、「祇園社」にも手を伸ばし、同社の「仏教事物」を破壊・撤去させ社名を「八坂神社」に替えてしまいました。
(槇村正直 ウイキより)
比叡山延暦寺も例外ではなく、大津にある、延暦寺の鎮護神社「日吉社」が、仏教色を消され、社名も「日吉大社」に替えさせられました。
こうした性急で無謀な「廃仏希釈」の暴力は、特に仏寺関係者において途端の苦しみを与えたことは、容易に想像がつきます。
ところで、明治政府の思惑は、今にして振り返れば、かなり明確なものがあったことが分かります。
それは、彼らの創った明治国家に対し、人々を従順に従わせるための
下ごしらえとして、人々の精神的自立基盤であった、仏教を始めとする旧宗教を徹底的に破壊したということに尽きると思います。
実は、この時の旧宗教の中には、それまで日本各地で信仰されていた
日本古来の素朴な「神道」も入っていたと思います。
明治政府が押し進めた「神道」とは、同じ「神道」という言葉ながら、日本古来の素朴な信仰のための「神道」ではなく、ナショナリズム感あふれる
国民結集・国民強制の「国家神道」と言って良いかと思います。
政府や軍部は、天皇を「国家神道」の「神」として担ぎ出し、明治・大正・昭和と、その天皇の名の下に、神の子たる日本国民を繰り返し動員し、
幾たびもの対外戦争に狩り出しました。
戦争に関して申せば、この「国家神道」の体制では、神である天皇の下で、粛々と国民が死ぬことは最高の美徳で名誉とされ、国民に対して繰り返し、その教育と啓蒙が行われました。
残念なことに、「人間、如何に生きるべきか?」という、普通の宗教が最も
大切とするテーマが、この「国家神道」という宗教には、ほとんど欠けて
いたという、極めて異形の宗教だったかと思います。
大平洋戦争では、昭和20年までに惨憺たる敗北を喫し、この戦争だけで310万人余の戦没者を生みました。その多くが、戦地で打ち捨てられるようにして置き去りされて亡くなられた戦病兵士や、敵に為されるがまま砲・爆激されて亡くなられた一般国民でした。
300万名の戦没者のほとんどは、名誉の戦死なんかではありません。人間の尊厳も全く顧みられない状態で命を失って行かれたのです。
「天皇の前には、人の命は、鴻毛よりも軽い」などと言いながら、膨大な
国民の命を粗末に扱い、しかも その「国家神道」の体制を維持できなかった政府や軍幹部は、この失策について戦没者に詫びたのか・・・・。
目に見える敵というのは、確かに米英を中心とした敵対国でしたが、
大平洋戦争について言えば、「敵は、身内にもいた。」と言えましょう。
「身内の敵」と言うのは、「国家神道」に基づき、「神(天皇)の下では鴻毛より軽い人間の命」などと鼓舞しながら、一方で、人々を戦地へ送りこみ、戦に敗れても降伏を許さず、無為に兵士達を戦死・戦病死させ、また
一方、日本爆撃のため襲来する敵機に成す術もなく、半年以上も善良な国民を爆撃の脅威に晒して、数十万名もの空襲死を出させた政府や軍部の無謀で無能な連中に他なりません。
さらに、そうした無謀で無能な連中が、天皇を利用しながら、大正から
昭和の初期において、何故、日本の指導層になっていけたのかを考えてみますと、その淵源は、明治維新における薩摩藩と長州藩の権力掌握策としての「神仏分離」という愚策が、最上策として生真面目に実施された
から という所に行きつくのではないかと思うのです。
明治維新に際して実施された「神仏分離」や「廃仏毀釈」は、その後、
大平洋戦争の全面敗北までの間に、取り返しのつかない悲劇を
日本歴史に残したと言えますが、維新の時、直接被害に見舞われて、
建物や仏像・経典に損傷を受けた寺院は、更に大平洋戦争後も、
引き続き、ご苦労されたことと拝察します。
そうした中で、一昨日(9月4日)斎行された「北野御霊会」で、北野天満宮と比叡山延暦寺が、明治以前の神仏習合の古式に則り、新型コロナ終息の祈願をなされたことは、とても意義深いものと思います。
否、私などには思い及ばぬほど、北野天満宮の橘宮司、および延暦寺の森川天台座主にとっては、感慨深いものであられただろうと拝察するばかりです。
参考として、昨日配信された京都新聞デジタル版の写真と記事を下記させて頂きました。
(写真)
(記事)
北野天満宮(京都市上京区)と天台宗総本山・延暦寺(大津市)が合同で営む「北野御霊会(ごりょうえ)」が4日、同天満宮で約550年ぶりに再興された。同天満宮で、神仏習合による祭典が実施されるのも1868(明治元)年の神仏分離以来。神職と僧侶が並んで境内を進み、新型コロナウイルスの早期終息や国の安寧をともに祈った。
北野御霊会は、平安時代に始まった勅祭「北野祭」の一環として延暦寺の僧侶を迎えて催されてきたが、応仁の乱の後に途絶えた。また、天満宮は神仏分離までは延暦寺の管轄下にあり、宮司の役割を担う「別当」職を天台宗の京都五箇室門跡の一つ、曼殊院(左京区)の門主が代々務めていた縁がある。
天台宗を開いた最澄の1200年大遠忌を来年に控え、北野天満宮も祭神・菅原道真の1125年半萬燈(まんとう)祭を7年後に迎えることから、互いの節目を契機に歴史的なつながりを見直そうと、応仁の乱以来となる神仏習合での北野御霊会を計画した。
午前10時すぎ、神職と僧侶が三光門下で向き合い、並んで本殿に向かった。続いて森川宏映天台座主も本殿に入った。本殿では橘重十九宮司の祝詞や森川座主による祭文の奏上があり、宗教を超えた祈りがささげられた。
比叡山僧侶による法華経の法要「山門八講」も行われた。延暦寺から持ち込まれた法具をしつらえた本殿に僧侶らの声明や法華経を題材に問答する声が響き渡り、新たな歴史が刻まれた。
以上