(保存版)「特攻に異議あり!」美濃部正氏(海軍少佐/航空自衛隊空将)が後輩自衛官に残した言葉 | 三ヶ根の祈り のブログ

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 今日は、大平洋戦争が終わり75回目の8月15日(終戦の日)でした。

 

 午後、自宅から車で30分ほどの所にある、

日本海軍元少佐で、航空自衛隊元空将の故美濃部正氏のお墓参りをさせて頂きました。

 

 今日は、車の温度メータが40度を表示したほどの暑さだったのですが、

美濃部さんの墓苑は、少し風も吹き抜けており、

暑さも幾分和らいでいたという感じでした。

 

(今日8月15日の15時ごろ  愛知県豊田市吉原町内の墓園)

 

 

 太平洋戦争の敗色濃い昭和20年初め、

特攻一色となった海軍方針に対して「特攻に異議あり!」と、

大西中将や宇垣中将が列席する場で、正面からその非を訴え、

特攻隊に替わる夜間攻撃の部隊(芙蓉部隊)の創設を認めさせ、

鹿児島県岩川基地をベースに、連夜の沖縄出撃により、

大きな戦果を上げた美濃部正少佐(当時)のことは、

今では多くの人が知るところとなりました。

 

(前から2列目、左から3人目の無帽の人が美濃部少佐)

 

 美濃部正氏は1997年6月に亡くなられましたので、

今年は没後23年になります。

 

 氏は戦後、創設間もない航空自衛隊の指導者として招かれ、

美保基地司令や奈良幹部候補生学校長などを歴任し、

1971年に空将として退任されました。

 

(空自時代の美濃部正氏)

 

 

 

 

 

 氏が、航空自衛隊を退任されるにあたり、

後輩の自衛官たちに、氏の痛切な思いを綴った文章があります。

 

 美濃部氏の類稀なる軍歴と体験に基づく高い知見、氏ならではのほとばしる使命感、

そして、慈悲深い部下・後輩への愛情・・・、こうした氏のお人柄が滲み出ています。

 

 

 この文章が書かれて、既に50年が経ちますが、

尖閣諸島を巡る中国との緊張状態が続く我が国の現況や、

ロシアによる無謀・無体なウクライナへの侵略という現実を前にして、

氏の「思い」を、現役の自衛官のみならず、

私たち一般国民も、共通の理解・認識として有していなければと思います。

 

(「昭和元禄の日本自衛隊への警告」)

 

 「昭和元禄の日本自衛隊への警告」

 

 私ら太平洋戦争の経験者は、やがて自衛隊から去る日が近い。

 

 戦いとは何か。自衛隊統率とは何か。

 

 民族の平和・幸福とは何か。

 

 これを考える場合、とかく近視眼的に考えやすい。

 

 また、人間の一面として忘却がある。

 

 

 二十五年前の生々しい思い出・実相は、今や美化されんとする傾向すらあり、

そして戦争経験者の中にも、一身一己の名声、保身、利益のために、

元禄武士気質が表面化してきた観さえ見えます。

 

 もちろん、個人の自由の尊ばれている現代において、

人それぞれ自らの人生観は異なり、生活態度も異なるのは当然の事ではあります。

 

 

 私が強く訴えたいことは、

二十五年前、同じ日本の青少年が、個人の自由の上に今一つ、

純真な民族永遠の平和を願って身を犠牲にした心意気を知って欲しい、

ということです。

 

 

 家族を愛し、名誉を求め、富を欲し、権力に憧れる。

 

 これは人間である以上、昔も今も変わりありません。

 

 いわんや、生きているものが死を嫌うのは当然であります。

 

 五欲煩悩の人が自らの良心に省みて強く正しく生きようとする気持ち、

これは何であるか。

 

 何が正しいことなのか。

 

 天皇君主制と言い、民主制と言うが、歴史・思想の変化はあります。

 

 

 

 しかし、変わらざるもの、それは霊峰富士です。

 

 芙蓉の峰を仰ぎて純なる日本青年が、この美を日本の永き拠り所とする気持ち。

 

 日本の国土、日本の人々、この国土と人の集団を忘れて、吾れも子も孫も、

いずれに安住の地を求めんとするか。

 

 沖縄に散華した多くの人々の願い、敗戦の中に混沌としながらも、

探し求めた日本人の心の糧は、同胞愛でありましょう。

 

 主義主張は異なっても、生活態度は異なっても、最後には愛情を忘れてはいけない。

 

 

 

(一)自衛隊統率の基本もまた愛情である。

 

 自衛隊生活の基本も、また日本及び日本人への愛情であります。

 

 熱烈な祖国愛あれば、一個の栄達を求めず、創意工夫を以って、民族の将来を開拓せよ。

 

 その情熱こそ青年の本領であります。

 

 

(二)戦いの庭に立つものは、勝利か零である。

 

 戦争回避の努力は、国として万難を排して努めなくてはならぬ。

 

 また、戦いがやむなく起こっても、

国家政策としては和平への努力を最大限に継続すべきである。

 

 政治が軍事に優先するも、また当然である。

 

 しかし戦いの庭に立って、

国家目的達成のため自衛戦闘を実施するものは妥協があってはならない。

 

 ベトナム戦争において、米国、中国、南北ベトナムの戦略・戦闘そのものに、

微塵の妥協もないことを併せ考えるべきである。

 

 

 前線の将兵が、間もなく和平であるから危険を避けて攻撃の手を緩めるとすれば、

直ちに大河の決壊する如く、十年の国家努力も、数十万人の血涙の苦闘も押し流されて、

和平そのものも逆に破壊されるのが戦争の実相である。

 

 大東亜戦争は無条件降伏の結果とはなりましたが、

幾百万の青少年の最後まで戦い抜いた日本民族の血の叫びが、

勝者欧米人に対しても、日本人への畏敬の念を抱かしめていること忘れてはならない。

 

 戦後の復興は、戦後の日本人のみで達し得たと自慢する者ありとすれば、

天を恐れざる甚だしいものである。

 

 今は黙して語らない戦野の屍と、

敗戦の自責感に多くを語らない幾百万復員将兵の殉国の至誠が、

日本人への信頼・畏敬として、戦後国際社会への無形の遺産となったことを

考えねばならない。

 

 

 我々航空自衛隊戦前パイロットが、

昭和29年から米空軍による操縦再教育を松島基地で受けました。

 

 この頃、私は初代の訓練科長として米パイロット教官室に入り、共に勤務しましたが、

少なくも日本人学生のモラルに関しては、畏敬の念を持っており、

胸襟を開いて接してくれました。

 

 或は、米国視察間の応対も自由陣営の一流国の軍人と同待遇でありますことは、

私のみならず何人も感じたことであります。

 

 このことは、日本戦後の各部門にも通ずることであります。

 

 

 

 殉国の英魂は敗れてなお国を護る。

 

 それは戦うということが、

人間の精神力、智力、体力、国家民族の団結力、統御力、科学力、経済力等、

全ての総力の激突による勝敗の争いであり、

これを評価するに単なる勝敗の結果のみで行われない。

 

 いかに戦ったか、いかなる力を発揮する民族性があるかで

歴史の評価は行われております。

 

 敗れても敗け方と、その後の対処能力があれば立ち上がるものである。

 

 戦う以上、勝利に向って全力を発揮すべきである。

 

 この努力、情熱、犠牲心なくして敗れた場合、

和平はおろか、民族は消され、零になるものであります。

 

 

 和平会談中、

最大の犠牲を惜しまず戦い続けるベトナム戦の戦争哲理を知らねばなりません。

 

                 完

 

         

(令和2年8月3日 河口湖畔から眺めた「芙蓉」峰   撮影者:私)

  

                                               

 

                     

 

 美濃部氏については、下記のブログでも書かせて頂いています。

 

 

 

 

 

 

  なお、美濃部氏の壮大かつ痛快な生き様は、

下記の著書で余すところなく著わされています。

 

 

(1)石川真理子著 「五月の蛍」 内外出版社

 

(2)美濃部 正著 「復刻版 大正っ子の太平洋戦記」 方丈社

 

 

 文中の各資料については、三ヶ根観音戦没者慰霊園護持・奉仕会の会員でもあり、

「女子の武士道」、「女子の教養」(いずれも致知出版社)の著者として知られる

石川真理子氏のご好意により入手させて頂いたものです。

 

 

 当稿は、令和4年5月27日に一部加筆修正しました。

                              以上