こんにちは
最近の末っ子ひめ
と百点とれた長女ちゃん♪おめっとさーん!

末っ子。パパに上手に甘えております。真似してるんだってさ。 笑
可愛すぎて激写しちゃった。
最近は毎晩三年生の長女と私とで宿題を一緒にやるんだけど、
特に算数。少しずつ理解して、考えて説こうとする姿勢に感心します。
国語も少しずつめんどくさがらずに辞典で調べたりするようになりました。
えらいです。
勉強とは調べること。
学ぶとは調べたことを真似び、
実行し改善していくこと。
かと思います。
毎回百点を飄々と取ってくる次女と比べると、いちいち不器用で、素直で、そんなところがほんとに愛おしい長女さん。
(一番上って不器用じゃないですか?)
うちのパパさんも、長男なのですが
不器用で、嘘も下手で、そこが可愛いんですよね。
自分でいうのもなんですが、私も三番目なので末っ子を見ていると
行動模範となる人が4人もいる状態からのスタートだから
いいとこ取りのモザイク的というか、万華鏡的というか、、、。
賢者とは、経験から学ぶのではなく、歴史から学ぶ。を地で行けるんですよ。
トランプの良い手札が揃ってるところからなので、社会性が特にイージーに見えるんですよね。
学び方のポイントを知っていると、学校のテストや勉強がイージーなのと同じように、年の近い兄弟や家族が多くて接している時間が多いって、普段の生活場面がイージーになる。
ざっくばらんに言えば社会性の経験値ということになるんだけど
社会性の経験値には大きく分けて二種類あると思っていて
同じ発達レベルの人がいることで、
支配や、服従の縦のコミュニケーションではなく
自由と平等という横のコミュニケーション軸が生まれるから良いのだと思います。
縦軸がある種の文化、イデオロギー、思想に基づくとすると
横軸は簡単なルールに基づくのではないかと思います。(礼儀など)
横軸は『自由と平等』という二つの大きく矛盾する概念を基にしているからこそ、必要であると思います。
自由であればあるほど、能力に差が生まれるのが当然であり、差が生まれると結果的に平等ではないからです。
昨日さ。長女
の上の歯が抜けたんですよ。ずっと抜けそうだったやつ! 「抜けた歯ってどうしらいい?捨てないとダメ?
」 って超絶不安そうな顔で聞いてきてもじもししててさ。かわいい。歯磨きしやすくなって良かったです。
宿題も最近は『直し』っていうのがあって、テストの間違いを直して提出するんだけど、それもコツコツ一緒にやってて
私自身の育ちは、末っ子だったのもあったり、素直な性格だったのもあって、親に勉強しなさいとか言われたことがなくて、親が自由主義なので
【もちろん法に触れることは、してはいけないと言われているけど】
自分が楽しい!面白い!と思ったことをやるだけやって 散らかしたんだから片付ける。 みたいな生き方のように思う。それが自由の範囲内で。
だから人にいえるものはないんだけど、基本的に、人が幸せになってくれると私も嬉しいので、色々な人に協力したいなって思うのです。
そんな感じで私も小学生のときは全然宿題もやらなかったりしたからなんも言えないけど
姫って一番目の子だから、分からないことに対してのショックが大きいのよね。
上には親しかいないし、そうなると学校の勉強なんて理解できて当然だし。大人だから。
でも、小学三年生ならできないのが当たり前で、だから算数とか計算とか
これから学ぶ必要があるから義務教育なんだけど。
『できない』=『悪いこと』って思うらしくて。
いやいやいやいや、そうじゃないよ。
これやったことないと、誰も分かんないのよ。
分かんないから書いて計算するのよ。
っていうところから
まず伝えてあげると、
前向きに取り組めるているよ。
ということでね、
私、ことママは
姫達に『急におばさん』ってあだ名で呼ばれていて
急に話し出すおばさん!
算数教えながらも、
いきなり謎の講義を始めます。
『 数学の始まりというのは、ホモサピエンスが集団生活をするようになった頃で
農業革命のころと言われていて、シュメール人だったかな、、、。
粘土板に、個人の資産とか、物々交換の記録とか そういうのを残さないと、社会が成立しないよねってなったから、記録するようになったらしいです。
人=ホモサピエンスの能力って主に人の噂話とかを覚えることに特化していて(生存のため)
算数とか数字の記録向きではないらしいのよ。
だからこそ、数字を暗記するのには限界があって、計算を頭の中でするより書く方が向いていて、記録が生まれたとか。 ちなみに文字の始まりは、未完成な言語(数字など)がスタートらしいです。そこから、気持ちを伝えたりできる完成された言語が生まれたそうです。 さて、書かないと計算出来ないのは、当たり前なんだよ!さ、計算式書いてみよう~!』
変なお母さんに宿題教えられて、かわいそうな姫でした。

最近はますます ホモサピエンスの民族統一の歴史を思います。 闘うことはどちらかの命の危険にさらす行為。
何万年も過去からも、武力ではなく、言語、婚姻、協力による統一という生物としての歴史があります。
統一という結果的事実よりもその過程がいかに重要であるかを思いました。