あっさりしていてすぐ読み終えてしまうような短くまとまった話だったのでその日のうちに読み終わってしまった。
芥川賞だからと構えなくても読める点が良いのではないかと思う。
淡々と描かれているのも、実際に主人公の感覚的なものが、そういった感覚で生きるようすが、伝わってくる。
所々で
なるほど、そう言う時もあるある、という点が、あった。
ライフステージにより、求められるものはどんどん変化していく。
例えば前回書いた振り返りにもかいたが、男女関係はまさにそれで、小中高と非常に注意深く見守られているのがだんだんとゆるくなる。
その後はほとんど自主性に任せる形になるが、積極的になるように促すシステムはない。
友人関係の中で合コンのたぐいがあったり紹介があったり、それは一部の関係の中で閉鎖的に行われており、公に講義で行うような事とはいえない。
同時進行的に就職活動を行わなければならない。何に力を注ぐのかの判断を常に自分で個人的に行うことが求められる。
この際に逆算しながら現実的に目標に向かう人もいれば、バランスを考えずに猪突猛進的に進む人もいるだろう。
よってその時期その時期の環境も課程も異なり、それぞれの価値観が近くても、おかれている場所は違ってくる。
年齢とともに、説明が面倒になるのも分かる気もする。ただ自分の意志でどうにかなることをどうにかして、ならないことが後回しになってしまうのは仕方ないことだ。 誰だってそうやって生きてるじゃないか。攻める権利は誰にもない。
勤労も納税もしている。なんの問題もない。
誇って良いはずだ。
ただ、一番恐かったのは、誰が、とかではなく
「言われたことを言われたままする」こと
に迷いがなく、そこへ委ねてしまうことが、素直さと言うよりも諦めに近くなるということ。
なんとなく、これはイヤだなぁ
この人は無理だなぁ の感覚があるなら、
ホッとするなら ほっとできる方が 私は正解だと思う。 自分の心に耳を澄ますことは、一生の選択をするときに
忘れてはいけない。
物事を判断する根拠になるものは、最後はやっぱり自分の中にあってほしい。
それが一般的に今現在として「正解」ではない時も、悩むことや考えることから逃げてはいけないと思う。
彼女のコンビニ人間という表現にある恐怖の底にあるのは、コンビニが、大げさな話、
「さぁ!明日から戦争だ!銃を警備してライバル店に乗り込もう!」
と方針を変えたら、素直になんの迷いなくついていくような気がする。という点にあると思う。
一丸となって向かえば、右向け右!と言って素直に従う人というのは、その場において、世の中広い視点に立てばそれは正しい。
一部のパーツとなることが確かに明日の自分を動かす原動力にもなるし、所属する安心感、仕事をやり遂げる充実感、身に着けることで得られる達成感の類は、誰にとっても理解できる事だと思う。その一点は、紛れもなく彼女の同志であると言えるのではないか。
たとえ全員が違うといっても、自分が正しいと思うことを、今言えなくても、なんとかしたいと悩むこと、どんな理由が隠れているのか考えることをしないと、自分を見捨てたら、ずっと明日も明後日も同じようにしかならないのではないか。
やはり、「なぜ」そうしなければならないのか、「なぜ周りの皆はかわいそうだと泣き、雀を焼き鳥にせず埋めるのか」をもっときちんと説明する大人がいたら、「なぜ棒で殴って喧嘩を制止するのは、間違っているのか、なぜ止めるべきだと言われたのか」その理由が大切であり、説明していくことが重要であったと思う。
私は理由が分からないことを、全力でできることに、疑問を通り越して羨ましさすら感じたのも事実である。
そもそも芸術やスポーツ、レジャーだって外食だって、難しい理由や明確な目的などなく
「楽しい」という遊びの要素の詰め合わせではないのか。
彼女にとって コンビニで働く行為が遊びそのものとなり、生きることと直結しているだけであるのだろう。
しかしヨーイドン!で、全力で逆走していった姫のことを、今なぜか愛おしく思う。
走りきることでお菓子がもらえると知ったら、お菓子に向かって笑顔で走っていった二歳の長女。
みんなと同じ方へ走ることに抵抗を感じるのは当たり前だ。そんなことより滑り台で遊びたかったのだ。
それではまた。