名古屋大学准教授の野村康先生は「修士課程には、博士号を目指すための『研究者養成』の第1歩という側面と、実社会での指導的役割を果たす『高度専門職業人養成』としての側面がある」と述べておられます。
とりわけ近年は後者への関心が高まっており、就職面でも応募資格の条件とするポストが増えつつあるようです。
野村先生は、修士論文の場合は研究成果の学術的意義はさほど重要ではないと言います。その理由は、主たる読者が学位を審査する教員であり、重視されるのは、既存研究を十分に勉強しているか、その上で適切な問いを立てて、基本的な方法論に沿って倫理的な調査が行われているかといった研究の手続きにあるからです。
例えば「自分に答えられる範囲で意義のある問いを立てられているかどうかは、過去の研究をよく読んで調べているかどうかで分かるものだと。大きすぎる問いは既存研究を知らないことの表れだということになる」(要約)。
卒論指導や修士論文指導を振り返りますと、常に先生が「書くテーマをもっと絞り込んではいかがでしょう」と言われたことを思い出します。先生は「ああしなさい、こうしなさい」とは言いません。学生が気付くのを根気強く待ち続けるのです。
慶應通信では卒論指導は半年に一度しかありません(今は、リモートが普及してかなり自由度が増しているようですが)。次の指導までの長い時間に練り込んだものを指導前に提出するときは自分が試されているようでドキドキします。
「あれー、なんか違う方向に進んでいるんじゃない?」なんて言われた暁には、大きく落ち込んでしまいます。読み返せば言われる通り論旨がバラバラになっていたりします。
逆に「いい感じで進んでいますね。この箇所についてはこんな文献を読んでみたらいかがでしょう」などと言われると、「やった!」と心の中で小躍りしてしまいます。
仮説の検証はトンネル掘りのようです。向こうの出口を目指して掘り進んでいくのですが、技術が不足していると本論と結論がいつまで経ってもつながらず、土の中で迷宮に迷い込んだような感じに陥ります。
さて、そんなことになってしまったら果たしてトンネルは?
つづく
大阪市立大学の図書館は質量ともに全国屈指。