とりあえず、こんにちわ。局長です。
『ゴジラ・ー1.0』を昨日観に行ったんですが、
局長的には結構面白い作品だなーって思いましたな。
序盤に登場する機雷や掃海、中盤の銀座破壊シーンなどなど、
前知識があると割と楽しめるんじゃないかと思います。
ちなみに、序盤に登場した『掃海』については
局長のブログでも紹介していますので、リンクを載せておきます。
というわけで、前回の続きでも。
『生きる』がテーマの展示ブースへとやって来た局長。
そこには、原爆で親を失った孤児たちが預けられた場所や
家族を失ってしまった老人、さらには生き残ったとしても
原爆小頭症といった後遺症に悩まされる・・・といった展示を見て
生き延びた人たちにとって核が消えぬ限り戦争は終わってないのかと、
局長なりに思ったわけです。局長的に原爆小頭症というのが
広島や長崎への原爆投下を見たことが無く生まれた子供たちに
起っているものだっていうのを初めて知りましたね・・・。
母親が被爆して、その子供を産むと原爆小頭症の子もいたと・・・
次はさらに踏み入った展示を見て行く事に。
続いては『N家の崩壊』というコーナーを見て行きます。
実は、原爆資料館において局長的に一番興味があり、
これは見ておきたかったという展示でもありますね。
1発の原子爆弾投下がもたらした、ある一家の末路・・・
戦争映画でもあまり描かれなさそうな一家崩壊、
それをこの『N家の崩壊』が教えてくれます。
琴葉「N家の崩壊・・・局長が観たかった展示ってこれなんですか?」
局長「そうだな。原爆資料館のサイトを見て、実際に観にいこうと思ったきっかけとなったのが『N家の崩壊』だ。原爆に巻き込まれ、そして一家が崩壊していくのがどういうことなのか・・・それを知りたかった」
百合子「話の内容からして、子供と一緒に死のうとしていたなんて・・・よほど追い詰められていたんですね」
昴「なんか、とても暗そうな話だよな・・・」
局長「暗そう?そうさ、戦争というのは必ず深い影を落とす。だからこそ、その中で生きていくしかない・・・という事じゃないのか。そいじゃー、見て行くとするぞ」
ちなみに、このN家の崩壊は写真家の福島菊次郎によって
N家を10年間追った作品群でもあったりします。
原爆投下で被爆したNさんは、身体に大きな火傷を負いましたが
その2年後には徐々に回復して漁に出られるようになりました。
しかし、それは長く続くことはありませんでした・・・
右上の写真には『病苦と極貧の谷間で』という題が付いており
撮影時期は1951年8月という真夏日なのにも拘らず、
戸を閉め切った狭くて暗い部屋にNさんは座っているという状態。
ちなみに、この時すでにある事がN家に起きてました。
百合子「ある事?」
局長「1951年3月、一家の生計を支えるために働いていた奥さんが亡くなってしまったんだ」
百合子「そんな・・・。一家を支えるだけじゃなく、Nさんにとっても重要な存在でしたよね」
琴葉「心の拠り所まで無くなっちゃうなんて・・・Nさんは調子を崩していたのに、悲しいことが続きますね」
局長「自分は調子を崩すし、奥さんは死んでしまうし・・・。まさに不幸へ叩き落されたって感じだろうな」
琴葉「そうですよね。あまりにも不幸すぎますね・・・」
局長「しかし、これは崩壊への序章に過ぎなかったんだ」
そして、画像左側には『こらえきれぬ痛み』という題の写真もあり
働かなければ餓死に追い込まれ、働けば耐え難い病苦が襲う・・・
というどっちに転んでもヤバい状況になっていたのです。
昴「働かなければ死んじゃうし、働いたら耐え難い病苦に襲われるって・・・」
局長「ちなみに、僅かな生活費が尽きるとやはり漁に出ていった。息子に船を漕いでもらい、太田川を遡上して川の魚を釣る。月に5000円、現在の価値に直すと2万円ちょっとしか稼ぐことしか出来なかったそうだ」
昴「身体が辛いのに大丈夫なのかよ。あ、でも働かないと餓死しちゃうんだよな」
局長「そうだな。しかし、Nさんは漁を終えると苦しみだしてしまい、息子が父親を背負って家まで帰ってくるんだ」
昴「息子も大変な思いをしてたんだな・・・」
局長「そして、万年床に伏せると夏の夜なのに寒気を訴え、、夏の夜だというのに寒気を訴えて頭から蒲団を被り、敷蒲団の縁を掴んで歯をカチカチ鳴らして震え続けた。そして突然、『体が焼けるっ、頭が割れるっ』と大声でわめき、蒲団を蹴散らして床の上を転げ回った・・・と言われている」
百合子「原爆の悪夢を見るほどにまで、すごく苦しんだんですね・・・」
琴葉「本当に、その辛さが伝わってきます」
局長「そうだな・・・」
『壊れていく家族』をパチリと、父親が苦しみ出したとしても
一家の誰もがどうする事は出来ませんでした。
1952年以降9回も病院を転々とし、2度の大手術をするも
病状が好転することはありませんでした・・・。
紗代子「それどころか、精神異常者扱いされるって・・・こんなの酷すぎるじゃないですか」
局長「酷い話だよな。だが、これが現実でもあったんだ」
未来「でも、精神異常者じゃなかったんですよね・・・?」
局長「そうだな。でも、この頃はまだ原爆症なんていう病気が認知されていなかった時代だしな」
未来「原爆症・・・?」
局長「病気やケガが、原爆の放射線の障害作用で引き起こされるものを原爆症と言うんだが、この当時はまだそれが原爆症とは言われていなかったんだ」
『思うように動かない体を抱えて』をパチリと。
仕事を失った多くの被爆者は、その日暮らしの生活にあえいでおり
『原爆症はうつる』と嫌われたり、少し働いてもすぐ疲れて休むので
『ぶらぶら病』と冷たい目で見られる事が多かったそうです。
要は仮病とか、怠け者と言うレッテルを貼られたのです。
未来「この人たちって、原爆の被害にただ遭っただけなんですよね。それで原爆症になって、ときどき休むけどちゃんと働いていたんですよね?なのに、怠け者って酷すぎますよね・・・」
局長「医者に診てもらっても、異常なしで返されてしまい、精神科に回されてノイローゼと診られるケースがあったそうだ。ぶらぶら病の証言の中には『表面はじょうぶそうに見えるから、かえっていけない。手か足に傷でもあるほうが、世間の人にはよくわかってもらえるのに』ともあるぐらいだしな」
紗代子「でも、この人って火傷したんですよね・・・」
局長「そうなんだよな。しかし、Nさんは一時快方に向かい、そこから悪化したんで、それを精神病として見たんじゃないかと思う。ひどい話だよな。この人の気持ちが痛いほど分かるぜ・・・」
稼ぎ頭であったNさんが倒れたことで、長女は家計を支えるために
中学校を休んでまで仕事へ出るようになります。
彼女が当時していた仕事は『牡蠣打ち場』だったのですが・・・
志保「長女が働きに出るなんて、家計は大変なことになっていたんですね・・・」
局長「しかし、この『N家の崩壊』という作品群を作った写真家の福島菊次郎は、市役所の職員を恫喝して生活保護台帳を確認した事で罪を背負っているんだ」
静香「それが、長女が働いている事とどう関係するんですか?」
局長「実は、この長女が働いている『牡蠣打ち場』で貰えた給料のいくらかが、行政によってピンハネされていたんだ」
静香「ピンハネ・・・」
局長「牡蠣打ち場の経営者が民生委員なんだが、この民生委員が学校に通うべき子供たちを安く働かせ、給料の額を行政に知らせており、行政は子供の就労は素知らぬ顔で、結果的に給料をピンハネしていたって話らしい」
志保「Nさんが倒れて、長女が家計を支えるために頑張っているのに、ピンハネされている・・・?本当に酷い話ですね」
局長「これが日本の福祉の実態、今も介護職員は安い給料で働かされているが、まさにこれがしっくりくるナ」
そして、1957年にはどんな病院から見捨てられたNさんは
次第に自暴自棄になっていきました。
そんな暗い家庭を子供たちは棄て、寄り付かなくなりました。
志保「自暴自棄って、暴れたりとかしたんでしょうか・・・」
局長「恐らくな。気持ちはすごく分かる。こんな辛い思いをするならば、局長も自暴自棄に陥る。泣きたくもなるわな・・・」
静香「局長・・・」
局長「よし、次の展示を観ていくぞ」
厳しい状況が続くN家にも一筋の希望の光が差し込みました。
1960年、Nさんは原爆病院に入院できることとなったのです。
ボロ布団を持って入院し、不当な扱いを受けた辛い思いを
再び父ことNさんにさせまいと、長女は借金して新しく布団を作り、
祖母は息子のために新しい寝間着を買っていきました。
翼「入院祝いって珍しいですよね。退院祝いっていうのは分かるんですけど・・・」
局長「入院できることで、治癒の望みが出来たからなんじゃないかな」
杏奈「精神異常者・・・扱いされてたんだよね・・・ちゃんと入院して・・・治せると良いよね・・・」
局長「そういうわけで、原爆病院にて入院したNさんだったんだが、それは思わぬ形で希望は打ち砕かれる事となる」
翼「えっ・・・病院に入院してたんですよね?」
杏奈「1ヶ月で・・・帰って来た・・・?」
局長「絶望の退院、Nさんは何の治療も受けられずに帰ってきたんだ」
てなわけで、絶望の退院をパチリと。
原爆病院に入院したはずですが、何の治療も受けられずに医師から
『他に治療法が無いからこれに入って寝ておれと言われた』と
身体の形をかたどったギプス1つ抱いて帰ってきたのです。
これを見て、こんなのアリかよ・・・って思った局長でした。
翼「信じられないですよね。治してもらえるって思って入院祝いまでしたのに、治療法が無いからこれに入って寝てろって・・・」
杏奈「すごいショック・・・だよね・・・」
局長「治療法が無いからって、医者たちが匙を投げたって思うんだよな。ホンマ・・・こんなのアリかよって思っちまうよな」
『もうどうしていいか分かりません』、と嘆く長女。
途方に暮れた長女がその後どうなったのかは分かりません。
そして、この頃になるとNさんは生きる気力を失ったようでした。
静香「病院に入院しても1ヶ月で帰ってこさせられ、それ以前は精神異常者扱いされて・・・こんな事になるなら、私だったら気が持たないかもしれないわね」
翼「ですよね~・・・。本当に大変な思いをしてきたんだよね。このNさんっていう人は」
局長「この写真は『N家崩壊の終焉』とあり、1960年に撮影されたものである。この1960年代はというと、高度経済成長の真っただ中で、『もはや戦後ではない』という言葉も生まれるほど日本の景気は良くなっていたんだ」
翼「そうだったんですか。でも、N家はそれどころじゃないんですよね・・・」
局長「そうだな。N家にとって『もはや戦後ではない』というよりかは『戦争は終わっちゃいない』と言った方が良いのかもな。そして、この写真が撮影されてから7年後・・・」
未来「7年後・・・?」
1967年1月1日、Nさんは両足の太ももに百数十の
傷跡を残して亡くなった。22年間の長い闘病生活の中で、
病苦に耐えきれぬとき、その苦しみから逃れるために
我と我が身をカミソリで切り裂いた傷跡だった。
局長「N家の崩壊は、その父親であるNさんの死によって、はじめて終止符が打たれたんだ」
未来「そんな・・・お父さんが死んだことで、終止符が打たれるって、最悪の結末じゃないですか・・・」
局長「そうか?苦しみから逃れるためにカミソリで身体を切り刻んだんだぞ。本当は死んだ方が楽だったのかもしれないな」
静香「それは違いますよね。本当は苦しくて、こんな事なんてしたくなかったはずです・・・」
翼「そうですよ。死んだ方が楽って考えは違うと思います」
局長「・・・まぁ、考えは人それぞれだしな。死んだ方が楽だって思うぐらい、苦痛に悩んでいたんだろうしな」
未来「これ、とっても悲しいですね・・・。私たちの家族がこうなったら、私はどうなっちゃうんだろう・・・」
局長「それは、そうなってみないと分からないな。ただ、辛い思いは間違いなくするだろう。そこからどう立ち直るかは・・・まぁいいか」
というわけで、ここまで。ではでは