とりあえず、こんばんわ。局長です。

フィットハイブリッドRSに乗っていて最近気づいたんですが、

速度を維持してくれるモードがあるんですね。

あぁ、次の旅を終えたら洗車&オイル交換してやらねばな。

そんでもって、ロアッソ熊本の快進撃が止まらねーな。

やっぱり、J3で優勝した勢いが続いているんですかね・・・

もし、プレーオフで京都に勝つと熊本が初J1ってわけか。

 

というわけで、前回の続きでも。

海上自衛隊呉史料館へといざ入って行った局長。

1階には海上自衛隊の萌えポスターや新しい潜水艦などの戦力、

そして2階展示には機雷や掃海の紹介がされているコーナーがあり、

特に戦後における日本の機雷敷設数がえらいこっちゃで

日本を囲むように機雷が敷設されていたのには驚きましたね。

そんなわけで局長、さらに展示を見て回る事に・・・。

 

航路啓開、そして日本の戦後復興をパチリと1枚。

四方を海に囲まれる海洋国家、日本において海上封鎖は致命傷。

しかし、第二次世界大戦では日本が防御用に設置した機雷や

アメリカ軍が通航量の多い海峡や港湾に敷設した機雷が

日本を覆うように多数敷設されていました。

 

これは、前回の記事でその地図の紹介をしましたね。

まだの方はこちらからどうぞ↓

 

 

 

局長「終戦後、6万個以上の機雷が日本を囲むようにしてまだ残されていた。これにより、海上交通は事実上途絶してしまい、外国から食料等の輸入が止まってしまったんだ。このままでは日本の戦後復興は危うい。そこで始まったのが『航路啓開』と呼ばれる取り組みだったんだ」

エレナ「コーロケーカイ?それってどういう意味?」

局長「海にある障害物を取り除いて、船舶が安全に航行できるようにする取り組みだな。この場合だと、多数の機雷を取り除く取り組みになるがな」

美也「なるほど~」

エレナ「でも、機雷って6万個以上あるって言ってたけど、どうやって取り除いていったノ?」

美也「そうですな~。6万個というとすごく多いですからね~」

局長「危険海域を試航船(掃海した海域へ何度も向かう船)を向かわせて機雷の有無を確認したり、掃海具に電線を巻き付けて磁界を起こしたりと、この時代の機雷撤去は困難だったようだな」

エレナ「そうだったんだ。結構大変だったんだネ」

美也「でも、先人が機雷を撤去してくれたおかげで、私たちは安全に海に入って遊んだりすることが出来るんですよね~」

局長「そういう事だな」

 

機雷を撤去し、掃海が完了するとGHQが安全宣言を発し、

それによって一般船舶の航行が出来るようになったとされてます。

そんなわけで、航路啓開やらをさらに見ていきましょう。

 

続いては『航路啓開時代の掃海船』という項目をパチリと。

まず、右上を見てみると3つの組織が出ているのですが

海軍省は海軍を指揮していた当時の中央官庁の1つでしたが、

1945年11月30日をもって廃止されています。

 

そんでもって、その下には『第二復員省』とありますが

これは海軍省が廃止された翌日の12月1日から発足しており

海軍省の海軍軍人を復員を主管していました。

これも1946年6月14日をもって廃止されており

翌6月15日には『復員省第二復員局』へと移管されています。

 

美也「いっぱい移り変わりがあったんですな~」

局長「それだけ、戦後の後始末が大変だったのかが伺える部分だな。それはさておき、この当時の掃海を担当した『掃海艇』の任務は、海面下にある機雷の撤去と船舶航行の安全確保だ。この時使っていた掃海船は木で出来た船を使っていたようだな」

エレナ「木で出来た船を使っていたノ?!機雷って船が来た時に爆発したりするんだよネ?なんかとっても怖いヨー・・・」

局長「そうか?現在の海上自衛隊の掃海船にも木が用いられていたりするんだぞ」

エレナ「そうなノ!?じゃあ、なんで木が使われているノ?」

局長「機雷には『磁気で感知するタイプ』があってな、これは海中に設置された機雷の上を通過する船舶が帯びる磁気によって生じる、周囲の磁場の乱れを感知して爆発するんだ。もし、鋼鉄製の船だと鉄が磁気を帯びるという性質があるので、近づいた途端にちゅどーん!!ってなるわけだな」

エレナ「そっか!木なら磁石に引っ付かないから、『磁気で感知するタイプ』の機雷に近づいても大丈夫、って事なんだネ!」

局長「そういう事だな」

美也「でも、海にそんなのが沈んでいると処理も大変ですよね~」

局長「今もそうだが、昔はもっと大変だったみたいだな」

 

ちなみに、日本軍が設置した機雷は処理が簡単なタイプでしたが

アメリカ軍が設置した機雷は処理が難しい感応タイプであり

有効な対処法が無かったと書かれています。

 

そんでもって、1954年にアメリカ軍から330t級中型掃海艇を

供与された時は船内設備に風呂や食堂が設置されていたとあったので

アメリカ軍から掃海艇を供与されるまでの日本の掃海艇での環境は

劣悪だったというわけなんすよねぇ・・・。

ちなみに、現在の海上自衛隊が保有する掃海艇には

食堂があったりするので、快適性は戦後より格段に向上しています。

 

続いては『朝鮮戦争と日本掃海艇の派遣』をパチリと。

復員庁が1947年10月15日に廃止され、

海軍から続いていた掃海業務は1948年1月1日発足の

『運輸省海運局』へと引き継がれています。

この『運輸省海運局』は4月30日までと短い間のみであり、

その後の掃海は5月1日に発足した『運輸省保安庁』に変わりました。

 

ちなみに、運輸省保安庁は現在の海上保安庁となります。

 

そして、第二次世界大戦が終戦を迎えて5年後の1950年、

今度は朝鮮半島で『朝鮮戦争』が勃発した事により、

アメリカ軍が元山(ウォンサンと読む、北朝鮮の都市)から

上陸する計画を立て、アメリカ軍は日本の海上保安庁に

掃海艇派遣要請を出しています。

 

※・・・ウォンサンは日本にもかつてやってきていた

万景峰92の母港を有する工業都市です。

余談ですが、日本の報道では『万景峰号』と言われてましたが

厳密には『万景峰92』という名前の船だったりします。

 

局長「当時の首相だった吉田茂は、『講和会議の成功と国連に協力する』という政府方針に基づいてこれを受諾、7個掃海艇、延べ43隻が派遣されたわけだ」

志保「終戦から5年後に、今度は朝鮮戦争で派遣されたんですね・・・」

局長「そういうこった。ちなみに、掃海艇と試航船がそれぞれ朝鮮半島の沿岸エリアに派遣されたが、時期が10月~12月に派遣されたもので、荒天や吹雪といった天候面で悩まされ、機関の故障にも悩まされていた。結局、この掃海作業は1隻が機雷に触れて爆発、1名死亡18名が負傷したが、それでも日本の海上保安庁は27個の機雷を処分したのだ」

静香「犠牲者が出たけど、それでも27個の機雷を処分したって凄いですよね・・・」

局長「なんせアメリカ海軍にその功績を認められるほどだからな。その後も日本国内で掃海作業が続き、1952年8月に海上自衛隊の前身となる保安庁警備隊に移管するまでに、308ヶ所の主要港湾&水路が掃海され、船舶通航が一気に増えたとまで言われているのだ」

静香・志保「「へぇ~・・・」」

 

続いては『掃海殉職者顕彰碑建立及び追悼式の経緯について』。

戦後、掃海部隊は多数の機雷を撤去していったことで

日本の復興に大きく貢献した事は言うまでもありません。

掃海作業は風浪や寒暑との戦いでもあったのですが、

その作業中に合計79名の隊員が殉職しています。

 

局長「犠牲となった79名の隊員は、他の掃海作業の隊員と同じく日本の復興に大きく貢献した存在だ。その功績も計り知れない。そこで、当時の香川県知事や兵庫県知事をはじめとし、海にゆかりのある32都市の市長が発起人となり、香川県仲多度郡琴平町にある『金刀比羅宮』に『掃海艇殉職者顕彰碑』が建立されたんだ」

志保「犠牲になった方達の顕彰碑があるんですね・・・」

局長「そして、1952年6月23日に第1回の追悼式が行われている。現在では毎年5月の最終土曜日に呉地方総監によって執り行われているみたいだな」

静香「そうなんですね・・・」

 

ちなみに、建立発起人のリストが右側にありまして

新潟市や舞鶴市、敦賀市といった港湾都市の市長の名前も入ってます。

 

続いては『警備隊発足前後の航路啓開』をパチリと。

1952年、海上自衛隊の前身となる保安庁警備隊が発足しますが

この時点で全国各地の88の海域から要請が出ており、

さらにこの頃になると朝鮮戦争時代の物なのか、

北朝鮮から流れ着いたと思われる浮流機雷も問題となってました。

 

日本海方面にやってきた浮流機雷の漂着状況をパチリと。

北朝鮮やソ連(ロシア)付近から潮の流れに乗って

そのまま日本海に面する道府県に流れ着いているのですが

島根県~新潟県までのエリアにかなり集中していますね。

 

水にぷかぷか浮いている、という点では分かりやすい・・・

と思ったら大間違い。

確かにぷかぷかと浮いているのですが

敷設場所によっては海流や海況に影響されやすく

最悪どこへ流れるか分からないという点があって

危険個所の予測が難しいと言われています。

 

紗代子「こうして見ると、日本海側にたくさん流れ着いていたんですね・・・」

局長「局長の地元の福井県にも多数流れ着いたみたいだな。それはさておき、日本海側に流れ着いた機雷の多くは朝鮮戦争で北朝鮮が朝鮮半島の周辺海域に敷設していたもので、機雷自体はソ連製の物だったのだ」

琴葉「ソ連って今でいうロシアですよね。今もロシアがウクライナに侵攻してますけど、昔は北朝鮮に機雷を渡していたんですね・・・」

局長「東側諸国の筆頭みたいなもんだからな。ソ連製の機雷はソ連の協力の元、たった3週間で3000個が準備&敷設されたと言われているんだ」

琴葉「たった3週間で3000個を準備して設置するって、物凄いですよね・・・」

局長「そうだよな。ちなみに、朝鮮戦争における北朝鮮海軍は弱いとまで言われていたが、機雷を3週間で3000個も設置できたことに関してはアメリカ海軍太平洋艦隊司令部が『これだけ多くの機雷を準備し、それを短期間で設置出来る国が他にあるだろうか』と驚いていたぐらいなんだ」

紗代子「へぇ~・・・アメリカ海軍が驚くほどの話だったんですね」

局長「ちなみに、朝鮮戦争では北朝鮮軍が敷設した機雷が韓国の仁川には流れ着かなかったことで仁川上陸作戦に影響せず、アメリカ軍をはじめとした国連軍にとっては有利に進んだんだ。一方で、朝鮮半島東岸で計画された元山上陸作戦は機雷が多いことで、掃海してから上陸する必要性が生じ、結果として上陸が5日遅れたと言われているからな」

紗代子「機雷がある事で、上陸作戦にも影響したんですね・・・」

局長「そういう事。そして、北朝鮮が敷設した機雷は係維索で繋がれていたハズなんだが、それがやがて切れてしまい、季節風や潮流に乗ってやがて日本海側の道府県へと流れ着くこととなったんだ」

 

その浮流機雷をパチリと、見た目は少し凹んだ丸って感じですが

リエラの某キャラなら間違いなく飛びついてそうですね(笑)

 

このように浮流機雷は、日本海側の沿岸地域に流れ着いてしまい

青函連絡船が夜間の貨物便を中心に運航をストップしたり

新潟港への入港船舶が機雷の影響で途絶えてしまうなど

機雷の影響は日本海側にとって恐怖の存在でもありました。

 

局長「しかも、流れ着いた機雷はそのまま置いといてもマズいことになるんだ」

琴葉「それっていったいどういう事なんですか?」

紗代子「機雷って、船が接触したり来たのを感知すると爆発するんですよね?そのまま置いてあっても爆発って・・・」

局長「実はな、機雷は自然爆発する物でもあるんだ」

琴葉「えっ、機雷が自然爆発って想像つかないんですが・・・」

局長「局長も爆発物の専門家じゃないので、詳しい事まではよく分からないが、機雷が勝手に爆発するケースがあるみたいなんだ。現に流れ着いた機雷がちゅどーんって爆発して多数の人々が犠牲となる事故は報告されているしな」

紗代子「そうだったんですね。でもそれって、今でいう不発弾みたいな感じですよね」

局長「不発弾も確かに怖いよな。残った機雷も不発弾も、処理してくれる人たちがいるから、私たちは安心して暮らせるという事を忘れちゃならんね」

 

続いては『海上自衛隊創設期の掃海』をパチリと。

保安庁が防衛庁に移行し、保安庁警備隊も防衛庁移行によって

現在の海上自衛隊として発足したのが1954年ですね。

 

この頃になると、アメリカ軍から機雷の敷設の仕方から

掃海の技術、後方支援を学んだり掃海艇の供与があったりと

アメリカの力を借りながら、日本は技術を上げていきました。

やがて、1957年には年間当たりの掃海面積が2倍と増えており、

別府湾での日本陸軍の物と思われる毒ガス2500発を見つけたり、

通常爆発物44tを見つけたりしていきました。

 

危険物一掃!という強烈な見た目のポスターをパチリと。

機雷のイラスト共に、大型船が吹っ飛ぶ姿が描かれていますが

これは誇張でも何でもなく、

実際に機雷に触れた船は

爆発して沈没するほどの

被害が出ていたりします。

 

そんでもって、左側には機雷を発見した時の対処法が書かれてますが

その内容が以下のようになっています。

 

・その付近に目標となる物を投入して早く連絡してください。

・できれば処分隊が来るまで見張っていてください。

・決して分解したり叩いたりしないでください。

 

エミリー「機雷を見つけた時の対処法が書かれているのはありがたいですね」

局長「機雷といった爆発物を見つけた時は、今だったら無暗に触らず、警察とか海上保安庁に連絡するのが一番だな。それはさておき、前回の記事で『機雷がもたらした悲劇』というのを話すと書いたな」

紬「そうですね。船をも吹き飛ばす威力がある機雷という事は、そういう事故関連のものでしょうか?」

局長「それに関して色々あるけど、局長的に取り上げたいのは『名立機雷爆発事件』だな」

紬「名立機雷爆発事件・・・?」

エミリー「機雷が爆発した事件ですよね?どんな事件だったのですか?」

局長「それはだな」

 

ここで、『決して分解したり叩いたりしないでください』という

項目があるので『名立機雷爆発事件』をちょいと書いていきます。

 

『名立機雷爆発事件』は、第二次世界大戦終戦から4年後の

1949年3月30日に新潟県西頚城郡名立町(現・上越市)にて

発生した機雷の爆発事故で、一般住民を多数巻きこむ大惨事でした。

 

局長「この日は春休み真っ盛り、大人は漁や仕事に出かけ、代わりに子供たちが集落で楽しく遊んでいるという、ほのぼのとした光景が広がっていた。そんな中、午後16時ごろに岸から300mほどの海域をぷかぷかと浮いていた物体(機雷)を、出港した漁師が目撃していたんだが、この時は機雷だと分からず、しばらく機雷は漂流を続けていたんだ」

紬「漁師は機雷だって分からなかったんですね」

局長「ぱっと見、分かる人はいなかったんだろうし、それに遠くにあったのを見つけたうえで、ゴミかと思ったのかもしれないな。そんなわけで、機雷は波打ち際から7mほどの所にある『二つ岩』という岩場に迫った場所に流れ着いた。それを見た住民は特徴的な突起などを見て『これは機雷じゃないか』って恐れ、名立駐在所に通報し、駆けつけた巡査が『これは触角機雷』と判断したんだ」

エミリー「触角機雷?」

局長「触角機雷とは、突起に触れると爆発するタイプの機雷だな」

エミリー「そうなんですね。でも、どうしてそのお巡りさんは機雷だって分かったんでしょうか・・・?」

局長「巡査が元海軍の軍人だったからだと言われている。そんなわけで、その知識を生かして触角機雷だと判断したわけだな」

 

そんなわけで、巡査は町の東側にある『鳥ヶ首岬』まで運ぶために

消防団に救援要請し、近くにいた女性に機雷を引っ張るための

縄を持ってくるように依頼した後、巡査は岩場の間際で

かすかに動いていた機雷に近づいていく事に・・・。

 

局長「この時、不幸にも騒ぎを聞きつけた子供たちや大人が巡査が駆け付けるとともに集まってしまっていた。そして、巡査が機雷に近づいたとき、大岩に機雷が接触。次の瞬間、機雷は大爆発したんだ」

紬「そ、そんな・・・」

局長「機雷の爆発の威力はポスターにあるように、大型船舶を軽く吹っ飛ばすほどの威力だ。もし、こんなのが陸上で爆発したらどうなるか・・・」

エミリー「じゃあ、巡査や周りにいた子供たちはみんな・・・」

局長「そうだ。この事故で、巡査と見物人を含む63名が死亡。うち59名が未成年者だった。さらに周辺にあった家屋103棟が損壊し、うち44棟が大破するという大惨事となったんだ」

エミリー「子供たちが巻き込まれるなんて、なんて悲しい事故なのでしょうか・・・」

紬「ええ。こんな事があったなんて、とても信じられないです・・・」

 

この時の巡査が亡くなったのでどんな機雷だったのか不明ですが

推測ではアメリカ軍が『飢餓作戦』で敷設した物であるとか

日本海軍が防御用に敷設した機雷であるとか、

ソ連製の機雷ではないかとか色々と言われています。

結局のところ、アメリカ軍の物である可能性が高いそうです。

 

そして、防衛庁から防衛省の掃海へ・・・パチリと1枚。

この頃になると、無人で探すものやら色々と登場しており

機雷戦はますます変わっていった・・・みたいですね。

ちなみに、1963年には掃海率が90%を越えたそうです。

 

掃海の歴史というのを局長チョイスで見ていきましたが、

何というか、海上自衛隊の掃海ってすげーよなって思いますね。

掃海が無ければ、今の日本は無いに等しいですし。

なので、日本人で自衛隊を反対する人は一度ここに来て

掃海の歴史を見ていくと良いんじゃないかと思います。

 

これは、決して右巻きとか右翼とかそういう話しじゃなくて

海洋国家である日本に住んでいる人たちであるならば

なんというか、見た方が良いんじゃないかって思うんですよ。

 

というわけで、ここまで。ではでは