皆さま、こんにちは!

 

稚内駅周辺の駅探訪もいよいよ終盤、今回は稚内桟橋駅跡です。

(以前のブログもぜひチェックくださいね)

稚内駅→【まったり駅探訪】宗谷本線・稚内駅に行ってきました。

稚内港駅→稚内駅から歩いて10分!稚内副港市場内に再現された稚内港駅をのんびり眺める。

 

大正12年に運航を開始した、稚内港と南樺太の大泊を結ぶ国鉄連絡船・稚泊航路。

その4年後の昭和3年には連絡船待合室の西側に稚内港駅が開業し、

鉄道駅から連絡船の乗り換えの利便性がすこぶる上昇しました。

 

この時期、稚内港では港湾設備の整備が行われておりまして、

北埠頭には昭和6年に着工した北防波堤ドームが昭和11年竣工。

昭和12年に稚泊連絡船の接岸位置がドーム前の北埠頭に改められると

宗谷本線の線路は北埠頭まで延長され、線路の終端に昭和13年に開業したのが

稚内桟橋(わっかないさんばし)駅でしたの。

 

終戦直後である昭和20年までの、わずか7年弱の間だけ営業した駅ですが、

稚内副港市場に駅の詳細が記されておりましたので、

それを頼りに現地の様子を眺めてみました。

稚内副港市場の中に掲げられていた稚内桟橋駅の貴重な写真たちですよ。

 

まずは毎度の航空写真のチェックからです。

こちらは昭和23年に撮影された写真で、桟橋駅は既に営業を終えた後の姿ですが、

昭和47年に解体されるまで、駅舎はそのままの姿で残されていたんですって。

稚内駅構内から北防波堤ドーム方向に

湾曲した線路が延びているのがわかりますよね。

 

それでは早速、現地の様子から。

稚内駅前にある「日本最北端の線路」から辿ることにしました。

 

線路のオブジェを辿ると、今回の主役の北防波堤ドームが見えてきますよ。

 

それにしても北防波堤ドーム、間近で見るとすごいわ。

デカイ、とにかくデカイ、そして長いのですよ。

昭和11年に竣工した北防波堤ドームですが

越波による腐食が進行したために昭和56年に改良工事が施され、

更に現在は再整備されて、公園に変わっておりました。

ここで早朝ジョギングされている方、結構大勢見かけましたよ。

 

なお、北防波堤ドームは土木学会選奨の土木遺産でもあります。

 

さてさて、ドーム前まで延びていた線路ですが、

現在は舗装されており、それらの跡はまったく確認出来でした。

ここに2本の線路がまっすぐ延びていたはずなのですが…

 

しばらく先に進むと「稚泊航路記念碑」がありました。

この場所が稚内桟橋駅があった場所のようですね。

記念碑にぶら下がっている鐘が見えますが、

稚泊連絡船の「宗谷丸」で実際に使用されていたモノだそうです。

自分も鳴らしてみましたが、今でもキレイな音色を発してましたよ。

稚泊航路から退役後の「宗谷丸」ですが、活躍の場を青函航路に移動、

その後は貨物船、旅客船を転役しながら昭和40年まで活躍したとのこと。

 

そしてもうひとつ、この場にあるのが蒸気機関車「C55 49」の動輪でした。

「C55 49」は宗谷本線で最後のSL列車である急行「宗谷」を牽引したカマだそうで、

この場で車体まるごと静態保存されていたそうですが、

腐食が酷く、現在はこの動輪だけが保存されておりました。

 

ナンバープレートですら、こんな感じですもん。

車体の腐食、相当酷かったんでしょうね…っていうか動輪のサビも酷い。

 

 

稚内桟橋駅が現役だった頃の写真と現在のドーム内の様子です。

稚内桟橋駅、現在の歩道部分が旅客ホームで、

海側にもう1本、貨物ホームがある、単式2面2線構造だったようですね。

 

動輪を遠方から眺める。

アスファルトで塞いだ跡がまるで線路跡のように見えてきました。

 

この場に立つと、南樺太が日本の国土で

そこを国鉄連絡船が往来していた時期があったことを痛感。

今の時代では想像できない、なにか不思議な感覚でおりました。

樺太からの引揚者の乗船を最後に、終戦後に運航が中止された稚泊連絡船。

鉄道ファンでしたら、鉄道駅の変遷とともに連絡船の歴史を探ること、

絶対にハマること間違いなしですよ。

 

 

宗谷本線

 

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