2月12日(日)は、初午でした。正月になって初めての「午」の日です。
本当は、伏見稲荷社や笠間稲荷社に詣でたいところですが、出かけることも叶わず、自宅には稲荷神社がないので、ミニチュアを飾り、自家製のいなり寿司と油揚げを祀りました。
 
旧暦の1月1日は、2017年の場合には1月28日で、すぐ後の1月31日の干支が午でしたが、初午の場合は、節月(二十四節気で月を分ける)を基準とするので、立春を以て正月となってからの「最初の午の日」が「初午」となり、2017年2月12日(旧暦1月15日)となります。
旧暦(太陽太陰暦)の見方を覚えると、和暦での生活を楽しむことが出来ますね。
江戸時代の暦を活用するため、活字化した表形式にして、コンパクトな小冊子化、そしてPDF化が完了し、上記のような記載になりました。
現代において、西暦(太陽暦)でなく、和暦(太陰暦)での生活をしてみると、季節感での相違とともに、江戸時代の人々の生活感が身近に感じます。
、廃仏毀釈をはじめ日本の様々な文化は、西欧文化の流入と共に「文明開化」という名の下で、明治政府によって作り替えられてきました。
暦もまたそのひとつでした。
江戸時代後期の暦と、現在のカレンダーの相違を見ると、当時は「六曜」がなく、「二十八宿」や俗に言う「下段」などが重視されていたようです。
結婚の祝言を「大安」に催したり、葬儀は「友引」には行わないといった慣習は、江戸時代には無かったものです。
季節は24分された「二十四節気」で推移していき、日付は月の満ち欠けと共に進んでいく。
現代でも同じような感覚で毎日を過ごしてみると、西暦よりも日本人らしく暮らしているような気がします。
今日は、2017年1月27日。寒い日が続いていますね。
正月気分もすっかり抜けていることと思いますが、和暦であれば明日が元旦、そして新月。
和暦を知ることは、日本人として、年中行事などを理解することにも繋がります。
また、歴史研究においては、西暦と旧暦の対比で考えることが不可欠です。
たとえば、新選組流山事件は、慶應4年4月3日ですが、西暦だと1868年4月25日になります。
なので、桜が咲いていることはないでしょう。
実際に江戸周辺では慶應4年3月13日頃、西暦では1868年4月5日頃に開花していました。
もちろん、その年の天候の状況にもよるでしょうが、現在の私たちが感じている季節の時期とのずれを知ることが大切です。
沖田総司が亡くなった慶應4年5月30日は、西暦1868年7月19日、梅雨も明けた暑い時期だったことが想像できます。
和暦では、日付の他に二十四節気で季節を管理するため、立春が正月寅月正節となり、およそ1~3月が春になりますが、西暦にするとおよそ2~4月となります。
現代では立春が2月4日前後と固定されますが、和暦では変動し、幕末の暦で見ると、文久3年(1863年)の場合は12月27日が立春で、12月26日が節分です。
まさに、正月は迎春ということになります。
写真は、PC画面が「文久三年」の暦、印刷したものが「慶應三年」の暦です。
現在、約200年前となる文化元年(1802)から、太陽暦採用となる明治5年(1873)までの暦を、活字表で見やすく整理する作業を進めています。
詳しくは、「新選組流山隊隊長日記」で紹介していきます。→http://blog.livedoor.jp/arteiji/archives/52018258.html