挿絵、雑誌、漫画、付録…etc
出版美術をテーマにした展覧会を開催し続けてきた弥生美術館が、
今年2024年、めでたく開館40周年を迎えました(←おめでとうございます!)。
それを記念して現在開催されているのが、
“大正ロマン・昭和モダンのカリスマ絵師 高畠華宵が伝えてくれたこと”という展覧会。
(注:展示室内は一部撮影可。写真撮影は、特別に許可を得ております。)
大正から昭和にかけて活躍した挿絵画家・イラストレーターで、
特に当時のティーンに絶大な人気を誇った高畠華宵にスポットを当てた展覧会です。
もし、初代理事長であった鹿野琢見と、
高畠華宵との出会いがなかったら、弥生美術館は誕生していなかったはず。
そういう意味でも、開館40周年記念に相応しい展覧会といえましょう。
(その詳細をもっと知りたいという方は、是非こちらを↓)
今でこそ、そこまで知名度は高くないですが、
活躍していた当時の高畠華宵は、いかに人気がスゴかったのか。
それを物語るものの一つが、こちらの流行歌です。
その2番の歌詞の中に・・・・・
(歌川)国貞とともに、華宵の名前が登場しています。
それほどまでに当時は知名度が高かったのでしょう。
なお、あまりにも人気が高かったゆえに、
大正13年には、出版界を揺るがす大事件、
通称「華宵事件」なるものが起きています。
華宵は大正2年に、『講談俱楽部』でデビューして以来、
講談社の雑誌に多く執筆し、長らく蜜月な関係を築いていたそうです。
しかし、ある編集者にプライドを傷つけられた華宵は、
大正13年に、講談社の仕事をすべて引きあげてしまったのだとか。
そして、他社による華宵の争奪戦が勃発。
華宵とともに多くの読者も他社の雑誌に移ってしまったそうです。
まるで、日テレからTBSに移ったテレビ番組、
『それって!?実際どうなの課(現・どうなの会)』のようですね。
そんな挿絵や雑誌の仕事にくわえて、
ポスターの仕事も数多くこなし、
さらには、「華宵便箋」も大ヒットした華宵。
当然、収入はかなり多かったようで、
大正13年に、鎌倉に自ら設計を担当した、
贅を尽くした和洋折衷の豪華な家を建てています。
「挿絵御殿」と呼ばれたその新居は、
近所にあった華族の家より立派だったそう。
なお、挿絵御殿の様子や住所は、各雑誌で紹介され、
家出をしてまで華宵の自宅を訪れるファンもいたほどだったとか。
そういう大らかな時代だったのでしょうが、
今なら、大谷選手のように激怒されてもおかしくない案件です。
なお、本展では、そんな挿絵御殿の寝室の雰囲気が再現されています。
こちらでは、スツールに座って写真撮影することも可能。
是非、この機会に華宵の気分を味わってみてくださいませ。
さてさて、再現といえば、展覧会では他にも、
初代理事長の鹿野琢見が自宅の一角に設けた「華宵の間」も再現されています。
また、華宵が世に出るきっかけとなったツムラの中将湯の広告や、
挿絵の仕事をセーブしてまで、制作に没頭したという日本画など、
華宵の貴重な資料や作品が数多く出展されています。
その総数は、約400点(!)。
過去最大規模の高畠華宵展と言っても過言ではありません。
なお、本展では、開館40周年を祝して、
これまでの弥生美術館の活動を一挙に振り返るべく、
収蔵品や寄贈された作品の一部も、併せて紹介されていました。
高畠華宵が伝えてくれたこと、を実感すると同時に、
これまでに弥生美術館が伝えてくれたことの数々が蘇りました。
これからも、50年100年と活動が末永く続くことを願っております。