・澁澤栄一翁の復習・・・(8) | 日本哭檄節

日本哭檄節

還暦を過ぎた人生の落ち零れ爺々の孤独の逃げ場所は、唯一冊の本の中だけ・・・。
そんな読書遍歴の中での感懐を呟く場所にさせて貰って、此処を心友に今日を生きるか・・・⁈

 一橋家の用人、平岡円四郎が召し抱えた、

『新米家来・・・』

と云う立場を得た二人は、その脚で、意気揚々と京へと乗り込む訳だが、その道中は、

 

≪京都 へ 着 し た なら ば 天下 の 英雄 豪傑 と いわ れる 人 が 大勢 集まっ て い て、 しきりに 天下 の 大勢 に 注目 し て いる から、 何ぞ よい 機会 が 見出さ るる で あろ う という 思惑 で あっ た・・・≫

( 渋沢栄一・自伝 雨夜譚; 東林出版・ Kindle 版) 
 

と語って居るから、その心中は、実にワクワクした心根で有ったで有ろうし、24、5歳の頃の青年の、その高揚感は、このジジイにも快く判るが、ダシに遣われた平岡円四郎こそ、佳い面の皮と云うか・・・(笑)

 

 また、此処でも、実父の市郎右衛門が、以前の家業手伝い中の売り上げの遣い込み(=武具調達費)を一切咎めず、更には、

『これからも、何かと入用だろうから、要るだけ持って行け・・・!』

と云って、京都遊興の費用を与えて居る辺り、この父親殿も、

『タダモノでは無いな・・・!』

と想わせる場面が語られて居るのも、実に面白い・・・(笑)

 

 何事を興すにしても、

『先立つモノは、金・・・』

なのだから、此処に懸念を要しなかった澁澤翁は、本当に、運の善い生まれの下に、輩出されて居たと云うことだ・・・!

 

 澁澤青年と喜作が、不穏の風が吹き始めた京都に上ったのは、『1863年(文久3年)の暮れの頃だから、まだ、京都も、些かは均衡を保って居た頃だっただろうから、

『攘夷論を唱える弁舌家・・・』

は多く居たかも識れないが、それを武力に任せて、

『一気に突っ走ろう・・・!』

と云う空気にまでは膨れて居なかったのだろう・・・?

 

 ただ、二人が京へ上る数ヶ月前に、当時の『尊王攘夷運動』の急先鋒だった長州藩が、京都市中で、

『八月の政変・・・』

と云うのを起して、負けて京から追い出されて居た訳で、この様子を見て来た『尾高長七郎』が、血洗島で血気に逸って居た澁澤青年たちに、身体を張って、

『犬死にをするようなモノだから、止めろ・・・!』

と諫めてくれて、栄一たちは、運良く

『九死に一生を得・・・』

て居た訳だ・・・。

 

 そして、その不穏に膨らむ空気を治める為に、江戸幕府から京へ遣わされたのが、

『将軍後見職・・・』

に任じられた『一橋慶喜公』で、当然の事として、その供をして京に来て居たのが、澁澤と喜作の仕官口となった『平岡円四郎』だったと云う構図である・・・。

 

 澁澤青年と喜作が状況して直ぐの『1864[文久4]年』は、年が明けて直ぐの2月に改元の事が有って、元号が、『元治』に改まるが、その7月には、前年に、『八月の政変』に負けて京を追われて居た長州藩が、今度は、そのリターンマッチを果たす可く、

『蛤御門・・・』

を突破して、天皇を長州に遷座ましまそうなどと云う大胆不敵な企てを起し、此処から、世の中の世情は、一気に混沌とし始めるが、これにも、幕府軍(=慶喜指揮)や薩摩藩の西郷らが立ちはだかって跳ね返され、破れた長州藩は、孝明天皇までも怒らせて、

『朝敵・・・』

の汚名を着せられて行くし、この頃から、

『新選組・・・』

なんて面白い武装グループも加わって、京都市中を徘徊し出すから、尚更、京都は、面白くなって行った時代である・・・(笑)

 

 ウーン・・・、こんなダイナミックな時代に、24、5歳の若者が、その中心地に居たら、善くも悪くも、心躍らない訳が無いわなあ・・・(笑)

 

 やはり、時代と云う大樹の根っ子を揺すり動かすのは、いつの時代も、

『若者たちの熱いエネルギー・・・』

だとつくづく想うが、今の時代には、このダイナミズムが沸き上がって居ないのが、何とも歯痒いなあ・・・。

 

 チョッと運佳く小金を稼いだ若造は、金に飽かせて

『宇宙旅行に往って来ます・・・!』

などと宣って、ヒーロー気分に浸って居るし、国家観など微塵も感じさせない

『金儲け主義の経営者・・・』

ばかりが増えるだけだし、肝心の

『政を与る処(=国会)・・・』

も、既得権益にしがみ付く二世、三世のボンボン議員たちが、大したメンタリティーも宿さず、保身出世に汲々として居る光景しか視えないし・・・(笑)

 

 オッと・・・、いかん・・・(汗)

 

 また、話が、横路に逸れる・・・(汗)

 

(つづく・・・)