さーて・・・、最後の仕上げに掛かるか・・・(汗)
昨日も綴ったように、三嶋は、あの
『東大・全共闘との討論会・・・』
で、
『自分たちには、天皇と云うJoker (=切り札)が有る・・・!』
と、Nippon の最高学府に集う秀才学生たちを前に、不敵に嘯(うそぶ)く訳だが、それには、現行の
『日本国憲法・・・』
が謳って居るところの
『天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であり・・・』 (=第一条)
と云う条項を、どうしても変えなければならない・・・。
此処を、それ以前の
『大日本国憲法・・・』
の条項に戻し、
『天皇は国の元首にして、統治権を総攬(そうらん)する、神聖不可侵な存在・・・』
としなければ、三嶋が掲げるところの
『美的天皇(尊王)主義・・・』
は、完結しないと考えたのだろう・・・。
そして、そのダイナモ(=発電機・・・)にしようとして、私費であの
『楯の会・・・』
を結成し、
『軍隊的規律と訓練・・・』
を課し、精神教育(=感化)を図って行ったのだろうと想われるが、三嶋は、この『楯の会』の結成披露の場で、
『益荒男(ますらお)と雅(みやび)の精神・・・』
を讃える演説をしと云うのは、前にも綴ったが、それに加えて、そこに、
『芸術と行動の調和・・・』
を謳い、更には、
『精神と肉体の調和・・・』
の必要性も説き、その完結する答えが、
『死である・・・!』
と云い切って居る・・・。
この論を、逆説的に辿ると、つまりは、
『死こそ美(=Art ・・・)であり、行動との調和で有る・・・!』
とも云って居るように、聴こえるような・・・?
だから、
『自らの死を以って、その美に殉じよう・・・!』
との帰結が、あの
『市ヶ谷台騒動・・・』 (=楯の会事件・・・)
へと向かわせたのか・・・?
そして、そこに、未だ
『一縷の望み・・・』 (=美的尊王主義回帰=憲法改正・・・)
を託そうとして、
『数少ない益荒男たちだ・・・!』
と信じて居た、市ヶ谷台の陸自・自衛官たちに、自らと共にの決起を呼び掛けたが、半ば強制的(=非常呼集)に集められた市ヶ谷駐屯地の陸上自衛隊員たちからは、怒声は上がっても、手を挙げて賛同して来る者は、一人も居なかった訳で・・・。
三嶋が、あのバルコニーの縁に昇って、声を嗄らし、右拳を振り翳して
『聴けーー・・・! 聴いてくれーー・・・!』
と叫んでも、声、虚しく掻き消されるばかりで、下から視上げるアーミーグリーンの隊服に身を包んだ陸自隊員たちは、誰一人として、聴く耳は持た無かった訳
(画像は、東京新聞より拝借)
終戦から二十五年が経ち、我がNippon 国民全員が、天下泰平(=高度経済成長)を謳歌し始めた時代に、
『このままじゃ、Nippon がダメになる・・・!』
と叫び、『憲法改正・・・』を唱え、
『クーデターを起こそう・・・!』
と云う発想自体が、
『最早、時代錯誤・・・』
と云ってしまえばそれまでだが、更に、そこから、四十年を経た今、三嶋が憂いた
『Nippon の将来像・・・』
は、強ち、間違っては居なかったのかも識れないと、云えなくも無いような・・・?
と云っても、だからと云って、このジジイが、三嶋の思想に傾倒して居る訳では無いが、今の時代に、このような、
『言行一致の憲法改正強行論者・・・』
が居たら、改憲論者さんたちには、心強いこと、この上無かろうが、今の時代には、
『言は滑らかに宣うが、行いは他人任せ・・・』
と云う御仁ばかりのような・・・(笑)
いかん・・・、話が、逸れそうだ・・・(汗)
結果、その虚しさの極みの中で、最早、志を閉じた三嶋と、脇に着き従って居た、
『腹心・森田必勝・・・』
は、皇居の方向に向かって静かに遥拝し、窓をよじ登って総監室に戻って、三嶋が、総監室の隅に陣取って端座し、上着を寛げ肚を現し、そこに、自宅から携えて来た短刀を宛がう訳だが、その脇では、三嶋から受け取った『関孫六』を構えた森田が、その柄を持って、介錯の構えをするところで、場面は、もう一度、あの
『RUNAWAY(=奔馬)・・・』
の場面へと切り替わり、首謀者の『Isao(=長島敏之)』が、財界の重鎮を襲い、腹部を刺して逃げ、海沿いか湖畔かは判らないが、その畔で、三嶋と同じような姿勢で、肚を寛げ短刀を刺して倒れ込むところで、場面は終了するのだが、その『Isao』の倒れ込む眼前に、水平線から見事な朝陽が昇って来る・・・。
この朝陽に向かって入るナレーションは、三嶋(=緒形拳)の声で、
『当に、肚に刀を突き抜けた瞬間・・・、日輪は、瞼の裏に豁然(かつぜん)と昇った・・・!』
と謳うところは、実に印象的だった・・・!
天才、三嶋の目指した
『美(=生き様=死)の到達点・・・』
と云う意味だったのだろうと想った次第・・・?
他愛無い好奇心から入った一本の映画に、斯くも長い講釈を垂れるなど、
『おこがましいにも、ほどが有る・・・!』
と云うしか無いが、三嶋文学など、ほとんど齧ったことの無い門外漢からすれば、少年時代から青年期に懸けて、あの
『市ヶ谷台のバルコニー・・・』
に宿して来続けた不可解を、一気に解かせて貰えたようで、作品自体は重いテーマだったが、小生の胸の内は、実に清々しく晴れ渡って居る次第である・・・(汗)
(画像は、防衛省HP より拝借)
この一作を教えてくださった、
には、心から感謝申し上げる次第である・・・(謝)
因みに、もう一つお断わりして措かなければならないのは、何記事か前で、小生は、この作品が、Nippon で公開されなかった理由を、アートディレクターの『Eiko Ishioka さん・・・』の言を引いて、
『日本映画界との確執が厳しかったからか・・・?』
などと憶測で綴ったが、これに対しては、東京ご在住の
からコメントを頂き、
『三嶋夫人が、公開に断固反対したから・・・!』
と云うのが真相らしいので、併せて記して措く・・・(汗)
と云うことで、まさか、此処まで長くなるとは想わなかったが・・・(汗)
至らぬ表現や理解不足も多々有ったことは、本人が、一番弁えて居る次第ですが、中には、お付き合い頂いた方も居てくださったようで、心から感謝申し上げます・・・。
本当に、ありがとうございました・・・(謝&拝)