ピーママの毎日

ピーママの毎日

華寿 野に咲く花のように・・
逞しく可憐に歩んでいこう 凛と輝く人生を~
時々、専務の戯言


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三鷹には、文豪山本有三記念館があります。

昭和21年まで家族と住んでいた、素敵な洋館です。

こちらは二度目の来訪です。

家族連れ、カップルなど多くの来訪者がおりました。

 

 

路傍の石・真実一路などの著書で有名です。

戯曲 米百俵を書いたことで、

越後長岡の故事が世間に知れるようになったとのこと。

小泉元総理が演説で使って有名にもなりましたね。

 

「米百俵」は新潟県長岡市に伝わる史実が基です。
窮乏していた長岡藩に救援の米百俵が届いた。
藩士は喜ぶが、指導者の小林虎三郎は猛反発を受けながらも

米を売り、それを資金に学校を開設したという実話を

山本有三さんが戯曲にしました。

のちに開設された学校で学んだ一人に山本五十六がおります。
米百俵には「国がおこる(興る)のも、ほろびるのも、まちが栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある」と書かれている。

 

 一年の計は麦を植えることにあり
 十年の計は樹を植えることにあり
 百年の計は人を植えることにあり

                戯曲 米百俵より

 

 

 

こちらに来ると心に太陽を持ての詩が、思い出されます。

『心に太陽を持て』    フライシュレン訳山本有三
              

心に太陽を持て。
あらしが ふこうと、
ふぶきが こようと、
天には黒くも、
地には争いが絶えなかろうと、
いつも、心に太陽を持て。


国の政治も、会社の経営も、ことごとく人である。

改めて、米百俵の精神の大切さを痛感致します。

常に心に太陽を持て!そうありたいですね。

 

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横山操展を観終えた後に

玉川上水を眺めながら、玉川上水沿いの道

【風の散歩道】を歩いておりました。

 

 

ポケットスペースのような場所が目に留まり

太宰治の文学碑らしきものを発見いたしました。

 

四月なかば、ひるごろの事である。
頭を挙げて見ると、玉川上水は深くゆるゆると流れて、
両岸の桜は、もう葉桜になっていて真青に茂り合い、
青い枝葉が両側から覆いかぶさり、青葉のトンネルのようである。

乞食学生より

 

その一節が記されておりました。

そう、玉川上水は自ら命を絶った場所です。

 

 

太宰治乞食学生 青空文庫より

さっそく、読んで見ました。

あらすじは略します。相変わらずの自虐的ですが

青年との交流が面白く描かれている作品です。

 

この辺で、むかし松本訓導という優しい先生が、

教え子を救おうとして、
かえって自分が溺死なされた。川幅は、こんなに狭いが、
ひどく深く、流れの力も強いという話である。この土地の人は、
この川を、人喰い川と呼んで恐怖している。
と作品に書いてあります。

 

今は、ちょろちょろ水の流れも緩やかで、

人喰い川と呼ばれた時代とは大違いです。

三鷹は、太宰治が生きた街です。

 

数年前に、太宰治文化サロンにお邪魔した時を思い出します。

 

 

ボランティアさんが常在し、

太宰ゆかりの事を色々優しく丁寧に

説明していただきました。

太宰作品の朗読イベントもありということでした。

 

三鷹という町は、太宰治が生きていたという

改めて、実感させてもらいました。

 

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三鷹市美術ギャラリー開館25周年

横山操展~アトリエに行ってまいりました。

三鷹は、好きな街で

こちらの美術ギャラリーには

企画展があると出来るだけ 立ち寄っております。

 

日曜日なのですが、そんなに混んでおらず

ゆっくり観ることが出来ました。

 

 

新潟生まれ(同郷の)日本画家ということで興味津々でした。

 

 

晩年に三鷹市に自宅とアトリエを建てた。

三鷹市とゆかりの日本画家だったのです。

ギャラリー開館の時も、横山操展だったそうです。

 

 

晩年、脳卒中で倒れ、右半身不随になり

左手だけで描いた むさし乃 1972年

 

 最後の出品画 左手だけで描く   茜 1973年

 

最後に描いた茜は、透き通るように美しい~

一番印象深い絵でした。これは故郷新潟でしょうか?

弥彦山が見える風景のようで、私感ですが、、

故郷へ思いを馳せて描いた作品だったと思います。

 

赤い富士山の絵が数点あり

未完の富士の絵もあり、(アトリエから発見された)

エネルギーみなぎる作品でした。

 

屏風絵の白梅&赤い梅は見事でした。

他は、本の挿絵が数多く展示しておりました。

 

ほのぼの喉かだった時代を感じました。

 

 

 

美の巨人たち横山操で、生涯を知る。

何と強烈な過酷な人生だったのです!

 

新潟吉田町(現燕市)で生まれ養子となり複雑な幼少期を過ごす。

14歳で上京、働きながら絵を学びました。

 

しかし、20代は中国戦線での兵隊生活、

シベリア抑留生活。失われた10年、

彼はその過去を語ることは殆どありませんでした。

 

自宅アトリエを健てる際に、過去の大半の大作を焼却した訳は?

(まるで生まれ変わろうとするように、、)

その後ますます目を見張る活躍をする。

 

やがて画家の目は或る風景に向かっていきます。

原点へ。新潟県の蒲原平野へ。

一度は捨てた風景を和解するように、

この故郷の風景から新しい旅に出ようとしていました。

 

原点に帰るように、新潟の風景を描きます。

故郷越路十景などを描いたといいます。

 

右半身不随になりながら、左手だけでこれらの絵を描くとは

なんと驚異的です。大作ですら焼いてしまう自分への潔さ

妥協しない頑固な生き方に深い感銘を受けました。

53歳と若い旅立ちでした。

 

絵画は、その芸術家の人生そのものなのですね!

 

 

 

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樹木希林さんの出演された映画の何と多かったことか

先日、東京タワーオカンとボクと時々オtンを観ました(TVで)

夢千代日記・歩いても歩いても・あん・わが母の記 

どれも、私の心に深く沁みた映画です。

 

そして、ツナグも観ております。

亡くなった人ともう一度再会させるツナグ(使者)の物語

 

 

エンドロールで流れる、

(時々映画の中にもつぶやいていたように思います)

樹木希林さん(ツナグ使者)の語る詩が、

本当に深く心に響きます。この詩を入れて欲しいと

樹木希林さんから申し入れて生まれたといいます。

 


「最上のわざ」
この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、

しゃべりたいけれども黙り、

失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、

おのれの十字架をになう。
若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、

ねたまず、人のために働くよりも、

謙虚に人の世話になり、弱って、もはや人のために役たたずとも、

親切で柔和であること。
 

老いの重荷は神の賜物、古びた心に、

これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために。
おのれをこの世につなぐ鎖を少しずつ外ずしていくのは、

真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。

 

神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
それは祈りだ。
手は何もできない。
けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。

               
*『人生の秋に』 ヘルマン・ホイヴェルス著より
 

樹木希林さんがエンドロールで語る朗読。 ありました。

 

樹木希林さんからの大切なメッセージのようで、、、

心が震えきます。思わず涙が溢れてきます。

 

老いの重荷は神様の賜物

そうなのですね、年を重ねるごとに、出来ていたことが出来なくなったり

不安になったりする日々がやってきますが

詩のごとく、親切で柔和であること。謙虚に承諾すること。

あなたは、どのように感じましたか?

 

※この最上のわざの詩は、生前樹木希林さんが

長岡輝子さんから教えられ、いつも大切にされていた詩だといいます。

 

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樹木希林さんの告別式で
娘の也哉子さんが伝えた
樹木希林さんの言葉。


「おごらず 人と比べず
面白がって、平気に生きればいい」

 

全身ガンであることすら、感謝していた樹木希林さんの言葉ですね。

私の、過去記事にも、当時書かせていただいた樹木希林さんの

オフィーリアの絵。そして強烈な死生観に圧倒されておりました。

 

お礼として

告別式に参列者に配られたという 樹木希林さんのオフィーリアの絵

(樹木希林さんがお気に入りだったといいます)

 

宝島社の新聞広告の絵

ジョン・エヴァレット・ミレイ オフィーリアの絵にちなんで

 

死ぬときくらい

好きにさせてよ衝撃的なタイトルでした)

 

 

 人は必ず死ぬというのに。

 長生きを叶える技術ばかりが進歩して

 なんとまあ死ににくい時代になったことでしょう。

 死を疎むことなく、死を焦ることもなく。

 ひとつひとつの欲を手放して、

 身じまいをしていきたいと思うのです。

 人は死ねば宇宙の塵芥。せめて美しく輝く塵になりたい。

 それが、私の最後の欲なのです。(広告全文)

 

「生きるのも日常、死んでいくのも日常」と話されていた樹木希林さん。

改めて、樹木希林さんの死生観を、心に受け入れております。

ロンドンからの内田裕也さんのお手紙も披露されておられました。

 

※余談ですが、、

ずいぶん私の若い時、裕也さんはおりませんでしたが

裕也さんのロックバンドのメンバー数人と

偶然渋谷のステージ&バーでお酒をご一緒させていただく機会がございました。

ジャズだったら、お声もかかるが、ロックゆえに厳しい現実があると、、、、。

笑って話されたことを懐かしく思い出します。

私の同級生が、渡辺貞夫さんのバンドボーイをしていたご縁だったかと思います。

切磋琢磨していた青春の頃(笑)

ジャズ喫茶通いをしていた頃です。

 

ひとつひとつの欲を手放して

他と比べず、面白がって余生を生きたいと

私も、強く思うのでした。

樹木希林さんから学ぶ事が、本当に多く感じます。

死してなおいっそう、多くの人が惹き付けられますね、

樹木希林さんの生き様に

 

心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

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