右を見て、左を振り返る。前を見て、肩越しに後ろを見やって。そして最後に天井を見上げて、バカを名乗った少女は途方に暮れた声を上げた。釣られて天井を見上げる。
「はぐれちゃった」
一階の、廊下。その天井を睨みつつ、遥香は思いっきり心の底から呻く。
「……バカですかあなたは」
本心から呆れるしかなかった。が、彼女は特に何も思っていないのか、肩をすくめるだけ。殺人鬼がいるというのにあまりにも暢気すぎる反応だった。
それに毒されたのか、自分も人のことを言えるほど慌てたりはしなかったものの。
はぐれた。その過程をもう一度思い出す。その行為自体は必要でもなかっただろう。ただ単に沈黙を嫌っただけだ。何もしていない時の沈黙を。だから思い出す。
誰かの足音が響いて、優花と名乗った少女の、友達らしい女――が、逃げ出した。そして西階段のほうから追ってきた殺人鬼から逃げるために、東階段を下りていった。そこまではよかったのだ。そこまでは。
「というよりも、運動不足です。遅すぎです、いくらなんでも。だからはぐれるんですよ」
はぐれたというより、置いてかれたといったほうが正しい。彼女らが三階の踊り場にいた頃、彼女は階段を下りていなかったのだ。性格と運動能力は正しく比例するものなのだろうか。暢気だから遅いのか。考えてから否定する。だったら狂気の殺人鬼が一番足が速いことになりそうだった。
彼女は天井を見上げたまま、よくわからない文句をぼやいてくる。
「帰宅部なめるなー、運動至上主義はんたーい」
「私だって帰宅部ですよ」
間髪いれずに言い返す。と、彼女はそれで沈黙したようだった。特に文句を思いつかなかったらしい。それはどうでもいいことだったが。
(……何なんでしょうね、彼女)
違和感。彼女を見てると、まず真っ先にそれに襲われる。性格、感情、言動。その全てが、人としてどこかずれている。殺人鬼に怯えず、状況にひるまず、いつでもどこか他人事のように呟いている。行動だって正直おかしい。はぐれたのに、彼女はそんなことなどまるでどうでも良い事のように扱っている。
そもそも考えれば、あの時本気で走っていたのかどうかも怪しかった。教室から階段まで、百メートルもない。もし仮にあの子がオリンピック級の運動能力を持っていたとしても、見失うなどという事はないのだ。たとえ目で追えなくても、この静寂では音が響く。どこに行ったかくらいは見当がつく……
もし仮に。
(はぐれることが、目的だったとしたら?)
あの足の遅さも納得できるだろう。わざわざ早く走る意味もない。殺人鬼から逃げつつ、彼女らからはぐれる。はぐれることで得られるメリットは何だろうか。それがわからない。だから思考を保留して辺りに気を配る。追いかけてきた殺人鬼はもう足音も聞こえてこない。何処かに消えた彼女らを追っていったのだろうが。
(……え?)
殺人鬼。ふと思いついたのは、あまりにも馬鹿馬鹿しい答えだった。それは真の意味で、命を天秤にかけた賭けでもあった。
二兎を追うものは一兎も得ず。殺人鬼の矛先を、彼女らか自分、そのどちらかに向けさせようとしたのかもしれない。いや、もし殺人鬼が狙うなら、確実に数の少ないほうからだろう。それに、遅れていた。殺人鬼からすれば、彼女は格好の獲物だったはずだ。
(標的を、自分に向けさせようとしていた?)
「まあ、それはいいんだけどさ」
「はい?」
突然彼女が呟いてきた。返事をして視線を彼女に戻すと、未だに彼女は天井を睨み続けていた。今度は意識的に、その先を見上げる。灰色の天井。浮かび上がったのは一部で、その大半は闇に飲まれている。反響しているように聞こえる声は、本当はその闇の声なのではないか。その夢想を振り払うことはできなかったものの。
声帯と反響。二重の声音で、彼女は闇と共に問いかけてきた。
「わたしが遅れてることに気づいてたのはともかく、なんで君まで彼女らからはぐれたのさ?」
「……はい?」
わけがわからず訊ね返す。と、彼女はようやく天井から視線をこちらへと向けてきた。薄闇の中に浮かぶ彼女の顔には、若干の戸惑いと怪訝が浮かんでいる。眉根を寄せて、彼女は本当に理解できなさそうに呟いた。
「いや、だからさ。遅れてたわたしとは違って、君は普通に彼女らと一緒に走ってたじゃん。つまり、君がはぐれる……理由、じゃないな。意味とも違う……えーと、君が選ばない限り、彼女らとはぐれることはなかったわけだ」
適切な言葉を思いつかなかったのか、彼女は困ったようにお茶を濁して、別の言葉を選ぶ。だが言いたいこと事態はそんなに変わってないようだった。
「まあ、単刀直入に言うと……なんで彼女らについていかなかったのかって聞きたいんだけどね……んー、やっぱりニュアンスが違うんだよなあ。なんて言えばいいんだろ」
「なんで、彼女らではなくあなたを選んだのか?」
「……それ、なんかラブコメくさい」
呆れというよりは苦いものを食べた子供のような顔で、彼女は呻いてくる。ラブコメが嫌いなのかもしれない。その少し子供らしい反応に苦笑しつつ、遥香は視線を彼女以外の何かへと泳がせた。
確かに、今となっては疑問でもあった。
メリットデメリットの話で考えるのであれば、まず人数が多いほうが安全でいられる。殺人鬼と対峙してしまった時、明らかに二人よりも三人のほうが有利だ――逃げるにしても、闘うにしても。それに、彼女はあまりにも貧弱のきらいがある。武器も持っていない。いざという時に彼女が役に立つかと問われれば、素直に首を捻るだろう。
人柄で考えたにしても、彼女を選ぶのはおかしな話だろう。彼女はどれだけ控えめに評価してもわけがわからない。何を考えてるのかわからないし、異常に適応しすぎている。それは本来なら不気味でもある。その不気味さは、彼女らにはないものだ。あの女にしても、優花と名乗った少女にしても。
では、何故そんな彼女を選んだのか。それにまた苦笑する。彼女にではなく、自分にだった。
(それしか思いつかなかったんです)
彼女が遅れていると気づいたときには、自分も彼女らから離れていた。それがもっとも自然だと思えたのだ。もちろんそんなこと声には出さないし、出せない。それこそどこかのラブコメだった。何故彼女を選んだのか。今となっては疑問であり――それでも、同時に答えのない確信だけはあった。
たぶん、彼女と一緒にいたほうがいいのだと。
「気にしないでください。特に理由はありませんから」
「……まあ、いいけどさ」
憮然とした面持ちで、彼女はふてくされたように呟いた。そのまま昇降口のほうへとテクテク歩き出す。暗闇のせいか、速度はそんなに早くなかったものの。
「……彼女たちとは合流しないんですか?」
「捜して見つかるものでもないでしょ。適当に歩いてれば見つかるかもしれないし」
「まあ、そりゃそうですけど……どこに行く予定なんですか?」
「別棟。昇降口経由しないと」
言われて、校舎の地図を頭に浮かべる。タの字と9の字を足してちょうど二で割った形。昇降口を経由しなくても、真ん中の廊下から行けると思うのだが。
疑問を察知したのか、彼女は質問よりも先に答えてきた。
「実を言えば、職員室にも寄りたいんだ。だから、昇降口」
昇降口の隣に、職員室はある。確かに職員室が目的なら、昇降口経由のほうが近いのだろう。それについて異論はない。
問題は、何故職員室に寄っていこうとしているのかということだった。それを訊ねる。
「何でです?」
「マスターキー。隠れるにしても何にしても、入れる教室が多いことに越したことはないでしょ」
「……職員室も鍵かかってるのでは?」
それは当然の疑問だったが。彼女は肩をすくめて、どうでもよさそうに答えてきた。
「外に電話繋がるかどうか試した時に入り込んだから、それは大丈夫だよ。まあ、その時はマスターキー拝借する予定もなかったんだけどね」
そういえばさっき、彼女らと一緒にいたときにそんな会話をしていたような記憶がある。合流する前、彼女はいろいろと動いていたらしい。それを聞きたいとは思わなかったが。
聞かなきゃいけないことはある。それを思い出して、遥香は声を上げた。
「ところでですね」
「ん?」
声に反応して、彼女は足を止めて肩越しにこちらを見やる。顔に表情という表情はなく、どこかのほほんとした顔が見えた。今は特に何も考えていなさそうではあったが。
「本当に殺人鬼なんているんですか?」
あのメールを受け取ってから今まで、ずっと疑問だったのだ。悪魔。別段それについて口論するつもりはない。証明することが不可能な存在についての口論は不毛だ。たとえ胡散臭くても、意味のない事は考えないことにする。問題は殺人鬼だった。
人を殺す前の存在は、予備軍であっても殺人鬼ではない。人を殺したから殺人鬼なのだ。それについては疑うべくもない。殺人鬼。人を殺したからそう呼ばれる。だけど、殺された人はどこにもいない。死体はもとより、その痕跡も。
だが彼女はそんなことなどどうでもいいのか、暢気にきっぱりと告げてきた。
「いたじゃん、今」
「私たちみたいな……えーと、犠牲者? かもしれませんよ?」
「……犠牲者が逃がさないなんて叫ぶかなあ、普通。常識的に考えるなら、待ってくれとかだと思うけど」
「そこは……ああ、ほら。ホラー映画ですよ。幽霊でもゾンビでも何でもいいですけど、逃げ出した友達に置いてかれた人が叫ぶじゃないですか。逃げないでー、とか。あんな感じで」
「………………心からそう思ってる?」
「……すみません、思ってないです」
だろうねと、彼女はため息を吐く。そしてそのまま歩き出した。置いてかれないようについていく。それでも足取りは慎重だったため、置いてかれることもないだろうとは思えたが。
「……あ、そうだ」
突然彼女はそんなことを呟いて足を止めた。それからキョロキョロと辺りを見回す。見えるのは結局ただの細長い教室棟の廊下だっただろうが。
「どうかしたんですか?」
そう聞かれることを想定していたのかもしれない。彼女はちょうど隣にあった一年一組の教室を指差して、呟いてくる。
「いや、蛍光灯を取りに行こうかと」
「蛍光灯?」
繰り返すと、彼女は感情のない声で答えてきた。
「蛍光灯なら簡単に割れる。武器にもなるしね」
「割れたら武器にならないと思うのですが。普通は竹刀とか……せめてモップとか」
「いいんだよ、武器なんてオマケなんだから。簡単に割れるから欲しいの。竹刀もモップも簡単には割れないし。そもそも大きな音でないし」
「……?」
思わず眉根を寄せる。蛍光灯を割るのが主目的ということなのだろうが、その理由が思いつかない。武器よりもそちらのほうに重きを置く理由は。
訊ねるよりも早く、答えは簡単に帰ってきた。
「割れば、危険があるって知らせられるでしょ?」
「助けを呼べばいいじゃないですか。叫ぶとか、悲鳴を上げるとか」
わざわざ蛍光灯を割る必要があるとも思えない。言い返すと、彼女はあからさまに苦笑したようだった。
「さっきも言ったけどさ。悲鳴を上げるのは重労働なんだよ。思いっきり息吸って、思いっきり吐く。そんな面倒するよりも、蛍光灯地面に叩きつけたほうが早いよ」
「……そういうものですか?」
問いかけるが、彼女は肩をすくめるだけだった。話はそれで終わりというように、教室の扉を開けて、中に入っていく。
「……」
が、突然彼女が立ち止まる。何かを見つけたのか、青白い光に照らされた表情は険しい。中を見てみるが、ここからでは闇が濃くて見えなかった。彼女には見えているのだろうが。
数秒、不自然な沈黙が訪れる。何か見つけたのかと声をかけるよりも早く、沈黙を破って彼女は呟いていた。
「ああ、そうそう……そうだった。殺人鬼だけどさ」
殺人鬼。唐突な切り出しと共に、彼女は闇の中へと消えていく。
「知りたいなら、この中に入ってくるといい。知りたくないのなら、来なければいい。選択肢くらいはあげるよ。ご自由にどうぞ」
「……? 何を言って」
その声を、遮って。
やっぱりいつもと変わらぬ暢気さで。
「死体。ネクタイがない。首切られて死んでる」
「はぐれちゃった」
一階の、廊下。その天井を睨みつつ、遥香は思いっきり心の底から呻く。
「……バカですかあなたは」
本心から呆れるしかなかった。が、彼女は特に何も思っていないのか、肩をすくめるだけ。殺人鬼がいるというのにあまりにも暢気すぎる反応だった。
それに毒されたのか、自分も人のことを言えるほど慌てたりはしなかったものの。
はぐれた。その過程をもう一度思い出す。その行為自体は必要でもなかっただろう。ただ単に沈黙を嫌っただけだ。何もしていない時の沈黙を。だから思い出す。
誰かの足音が響いて、優花と名乗った少女の、友達らしい女――が、逃げ出した。そして西階段のほうから追ってきた殺人鬼から逃げるために、東階段を下りていった。そこまではよかったのだ。そこまでは。
「というよりも、運動不足です。遅すぎです、いくらなんでも。だからはぐれるんですよ」
はぐれたというより、置いてかれたといったほうが正しい。彼女らが三階の踊り場にいた頃、彼女は階段を下りていなかったのだ。性格と運動能力は正しく比例するものなのだろうか。暢気だから遅いのか。考えてから否定する。だったら狂気の殺人鬼が一番足が速いことになりそうだった。
彼女は天井を見上げたまま、よくわからない文句をぼやいてくる。
「帰宅部なめるなー、運動至上主義はんたーい」
「私だって帰宅部ですよ」
間髪いれずに言い返す。と、彼女はそれで沈黙したようだった。特に文句を思いつかなかったらしい。それはどうでもいいことだったが。
(……何なんでしょうね、彼女)
違和感。彼女を見てると、まず真っ先にそれに襲われる。性格、感情、言動。その全てが、人としてどこかずれている。殺人鬼に怯えず、状況にひるまず、いつでもどこか他人事のように呟いている。行動だって正直おかしい。はぐれたのに、彼女はそんなことなどまるでどうでも良い事のように扱っている。
そもそも考えれば、あの時本気で走っていたのかどうかも怪しかった。教室から階段まで、百メートルもない。もし仮にあの子がオリンピック級の運動能力を持っていたとしても、見失うなどという事はないのだ。たとえ目で追えなくても、この静寂では音が響く。どこに行ったかくらいは見当がつく……
もし仮に。
(はぐれることが、目的だったとしたら?)
あの足の遅さも納得できるだろう。わざわざ早く走る意味もない。殺人鬼から逃げつつ、彼女らからはぐれる。はぐれることで得られるメリットは何だろうか。それがわからない。だから思考を保留して辺りに気を配る。追いかけてきた殺人鬼はもう足音も聞こえてこない。何処かに消えた彼女らを追っていったのだろうが。
(……え?)
殺人鬼。ふと思いついたのは、あまりにも馬鹿馬鹿しい答えだった。それは真の意味で、命を天秤にかけた賭けでもあった。
二兎を追うものは一兎も得ず。殺人鬼の矛先を、彼女らか自分、そのどちらかに向けさせようとしたのかもしれない。いや、もし殺人鬼が狙うなら、確実に数の少ないほうからだろう。それに、遅れていた。殺人鬼からすれば、彼女は格好の獲物だったはずだ。
(標的を、自分に向けさせようとしていた?)
「まあ、それはいいんだけどさ」
「はい?」
突然彼女が呟いてきた。返事をして視線を彼女に戻すと、未だに彼女は天井を睨み続けていた。今度は意識的に、その先を見上げる。灰色の天井。浮かび上がったのは一部で、その大半は闇に飲まれている。反響しているように聞こえる声は、本当はその闇の声なのではないか。その夢想を振り払うことはできなかったものの。
声帯と反響。二重の声音で、彼女は闇と共に問いかけてきた。
「わたしが遅れてることに気づいてたのはともかく、なんで君まで彼女らからはぐれたのさ?」
「……はい?」
わけがわからず訊ね返す。と、彼女はようやく天井から視線をこちらへと向けてきた。薄闇の中に浮かぶ彼女の顔には、若干の戸惑いと怪訝が浮かんでいる。眉根を寄せて、彼女は本当に理解できなさそうに呟いた。
「いや、だからさ。遅れてたわたしとは違って、君は普通に彼女らと一緒に走ってたじゃん。つまり、君がはぐれる……理由、じゃないな。意味とも違う……えーと、君が選ばない限り、彼女らとはぐれることはなかったわけだ」
適切な言葉を思いつかなかったのか、彼女は困ったようにお茶を濁して、別の言葉を選ぶ。だが言いたいこと事態はそんなに変わってないようだった。
「まあ、単刀直入に言うと……なんで彼女らについていかなかったのかって聞きたいんだけどね……んー、やっぱりニュアンスが違うんだよなあ。なんて言えばいいんだろ」
「なんで、彼女らではなくあなたを選んだのか?」
「……それ、なんかラブコメくさい」
呆れというよりは苦いものを食べた子供のような顔で、彼女は呻いてくる。ラブコメが嫌いなのかもしれない。その少し子供らしい反応に苦笑しつつ、遥香は視線を彼女以外の何かへと泳がせた。
確かに、今となっては疑問でもあった。
メリットデメリットの話で考えるのであれば、まず人数が多いほうが安全でいられる。殺人鬼と対峙してしまった時、明らかに二人よりも三人のほうが有利だ――逃げるにしても、闘うにしても。それに、彼女はあまりにも貧弱のきらいがある。武器も持っていない。いざという時に彼女が役に立つかと問われれば、素直に首を捻るだろう。
人柄で考えたにしても、彼女を選ぶのはおかしな話だろう。彼女はどれだけ控えめに評価してもわけがわからない。何を考えてるのかわからないし、異常に適応しすぎている。それは本来なら不気味でもある。その不気味さは、彼女らにはないものだ。あの女にしても、優花と名乗った少女にしても。
では、何故そんな彼女を選んだのか。それにまた苦笑する。彼女にではなく、自分にだった。
(それしか思いつかなかったんです)
彼女が遅れていると気づいたときには、自分も彼女らから離れていた。それがもっとも自然だと思えたのだ。もちろんそんなこと声には出さないし、出せない。それこそどこかのラブコメだった。何故彼女を選んだのか。今となっては疑問であり――それでも、同時に答えのない確信だけはあった。
たぶん、彼女と一緒にいたほうがいいのだと。
「気にしないでください。特に理由はありませんから」
「……まあ、いいけどさ」
憮然とした面持ちで、彼女はふてくされたように呟いた。そのまま昇降口のほうへとテクテク歩き出す。暗闇のせいか、速度はそんなに早くなかったものの。
「……彼女たちとは合流しないんですか?」
「捜して見つかるものでもないでしょ。適当に歩いてれば見つかるかもしれないし」
「まあ、そりゃそうですけど……どこに行く予定なんですか?」
「別棟。昇降口経由しないと」
言われて、校舎の地図を頭に浮かべる。タの字と9の字を足してちょうど二で割った形。昇降口を経由しなくても、真ん中の廊下から行けると思うのだが。
疑問を察知したのか、彼女は質問よりも先に答えてきた。
「実を言えば、職員室にも寄りたいんだ。だから、昇降口」
昇降口の隣に、職員室はある。確かに職員室が目的なら、昇降口経由のほうが近いのだろう。それについて異論はない。
問題は、何故職員室に寄っていこうとしているのかということだった。それを訊ねる。
「何でです?」
「マスターキー。隠れるにしても何にしても、入れる教室が多いことに越したことはないでしょ」
「……職員室も鍵かかってるのでは?」
それは当然の疑問だったが。彼女は肩をすくめて、どうでもよさそうに答えてきた。
「外に電話繋がるかどうか試した時に入り込んだから、それは大丈夫だよ。まあ、その時はマスターキー拝借する予定もなかったんだけどね」
そういえばさっき、彼女らと一緒にいたときにそんな会話をしていたような記憶がある。合流する前、彼女はいろいろと動いていたらしい。それを聞きたいとは思わなかったが。
聞かなきゃいけないことはある。それを思い出して、遥香は声を上げた。
「ところでですね」
「ん?」
声に反応して、彼女は足を止めて肩越しにこちらを見やる。顔に表情という表情はなく、どこかのほほんとした顔が見えた。今は特に何も考えていなさそうではあったが。
「本当に殺人鬼なんているんですか?」
あのメールを受け取ってから今まで、ずっと疑問だったのだ。悪魔。別段それについて口論するつもりはない。証明することが不可能な存在についての口論は不毛だ。たとえ胡散臭くても、意味のない事は考えないことにする。問題は殺人鬼だった。
人を殺す前の存在は、予備軍であっても殺人鬼ではない。人を殺したから殺人鬼なのだ。それについては疑うべくもない。殺人鬼。人を殺したからそう呼ばれる。だけど、殺された人はどこにもいない。死体はもとより、その痕跡も。
だが彼女はそんなことなどどうでもいいのか、暢気にきっぱりと告げてきた。
「いたじゃん、今」
「私たちみたいな……えーと、犠牲者? かもしれませんよ?」
「……犠牲者が逃がさないなんて叫ぶかなあ、普通。常識的に考えるなら、待ってくれとかだと思うけど」
「そこは……ああ、ほら。ホラー映画ですよ。幽霊でもゾンビでも何でもいいですけど、逃げ出した友達に置いてかれた人が叫ぶじゃないですか。逃げないでー、とか。あんな感じで」
「………………心からそう思ってる?」
「……すみません、思ってないです」
だろうねと、彼女はため息を吐く。そしてそのまま歩き出した。置いてかれないようについていく。それでも足取りは慎重だったため、置いてかれることもないだろうとは思えたが。
「……あ、そうだ」
突然彼女はそんなことを呟いて足を止めた。それからキョロキョロと辺りを見回す。見えるのは結局ただの細長い教室棟の廊下だっただろうが。
「どうかしたんですか?」
そう聞かれることを想定していたのかもしれない。彼女はちょうど隣にあった一年一組の教室を指差して、呟いてくる。
「いや、蛍光灯を取りに行こうかと」
「蛍光灯?」
繰り返すと、彼女は感情のない声で答えてきた。
「蛍光灯なら簡単に割れる。武器にもなるしね」
「割れたら武器にならないと思うのですが。普通は竹刀とか……せめてモップとか」
「いいんだよ、武器なんてオマケなんだから。簡単に割れるから欲しいの。竹刀もモップも簡単には割れないし。そもそも大きな音でないし」
「……?」
思わず眉根を寄せる。蛍光灯を割るのが主目的ということなのだろうが、その理由が思いつかない。武器よりもそちらのほうに重きを置く理由は。
訊ねるよりも早く、答えは簡単に帰ってきた。
「割れば、危険があるって知らせられるでしょ?」
「助けを呼べばいいじゃないですか。叫ぶとか、悲鳴を上げるとか」
わざわざ蛍光灯を割る必要があるとも思えない。言い返すと、彼女はあからさまに苦笑したようだった。
「さっきも言ったけどさ。悲鳴を上げるのは重労働なんだよ。思いっきり息吸って、思いっきり吐く。そんな面倒するよりも、蛍光灯地面に叩きつけたほうが早いよ」
「……そういうものですか?」
問いかけるが、彼女は肩をすくめるだけだった。話はそれで終わりというように、教室の扉を開けて、中に入っていく。
「……」
が、突然彼女が立ち止まる。何かを見つけたのか、青白い光に照らされた表情は険しい。中を見てみるが、ここからでは闇が濃くて見えなかった。彼女には見えているのだろうが。
数秒、不自然な沈黙が訪れる。何か見つけたのかと声をかけるよりも早く、沈黙を破って彼女は呟いていた。
「ああ、そうそう……そうだった。殺人鬼だけどさ」
殺人鬼。唐突な切り出しと共に、彼女は闇の中へと消えていく。
「知りたいなら、この中に入ってくるといい。知りたくないのなら、来なければいい。選択肢くらいはあげるよ。ご自由にどうぞ」
「……? 何を言って」
その声を、遮って。
やっぱりいつもと変わらぬ暢気さで。
「死体。ネクタイがない。首切られて死んでる」