右を見て、左を振り返る。前を見て、肩越しに後ろを見やって。そして最後に天井を見上げて、バカを名乗った少女は途方に暮れた声を上げた。釣られて天井を見上げる。

「はぐれちゃった」

一階の、廊下。その天井を睨みつつ、遥香は思いっきり心の底から呻く。

「……バカですかあなたは」

本心から呆れるしかなかった。が、彼女は特に何も思っていないのか、肩をすくめるだけ。殺人鬼がいるというのにあまりにも暢気すぎる反応だった。

それに毒されたのか、自分も人のことを言えるほど慌てたりはしなかったものの。

はぐれた。その過程をもう一度思い出す。その行為自体は必要でもなかっただろう。ただ単に沈黙を嫌っただけだ。何もしていない時の沈黙を。だから思い出す。

誰かの足音が響いて、優花と名乗った少女の、友達らしい女――が、逃げ出した。そして西階段のほうから追ってきた殺人鬼から逃げるために、東階段を下りていった。そこまではよかったのだ。そこまでは。

「というよりも、運動不足です。遅すぎです、いくらなんでも。だからはぐれるんですよ」

はぐれたというより、置いてかれたといったほうが正しい。彼女らが三階の踊り場にいた頃、彼女は階段を下りていなかったのだ。性格と運動能力は正しく比例するものなのだろうか。暢気だから遅いのか。考えてから否定する。だったら狂気の殺人鬼が一番足が速いことになりそうだった。

彼女は天井を見上げたまま、よくわからない文句をぼやいてくる。

「帰宅部なめるなー、運動至上主義はんたーい」
「私だって帰宅部ですよ」

間髪いれずに言い返す。と、彼女はそれで沈黙したようだった。特に文句を思いつかなかったらしい。それはどうでもいいことだったが。

(……何なんでしょうね、彼女)

違和感。彼女を見てると、まず真っ先にそれに襲われる。性格、感情、言動。その全てが、人としてどこかずれている。殺人鬼に怯えず、状況にひるまず、いつでもどこか他人事のように呟いている。行動だって正直おかしい。はぐれたのに、彼女はそんなことなどまるでどうでも良い事のように扱っている。

そもそも考えれば、あの時本気で走っていたのかどうかも怪しかった。教室から階段まで、百メートルもない。もし仮にあの子がオリンピック級の運動能力を持っていたとしても、見失うなどという事はないのだ。たとえ目で追えなくても、この静寂では音が響く。どこに行ったかくらいは見当がつく……

もし仮に。

(はぐれることが、目的だったとしたら?)

あの足の遅さも納得できるだろう。わざわざ早く走る意味もない。殺人鬼から逃げつつ、彼女らからはぐれる。はぐれることで得られるメリットは何だろうか。それがわからない。だから思考を保留して辺りに気を配る。追いかけてきた殺人鬼はもう足音も聞こえてこない。何処かに消えた彼女らを追っていったのだろうが。

(……え?)

殺人鬼。ふと思いついたのは、あまりにも馬鹿馬鹿しい答えだった。それは真の意味で、命を天秤にかけた賭けでもあった。

二兎を追うものは一兎も得ず。殺人鬼の矛先を、彼女らか自分、そのどちらかに向けさせようとしたのかもしれない。いや、もし殺人鬼が狙うなら、確実に数の少ないほうからだろう。それに、遅れていた。殺人鬼からすれば、彼女は格好の獲物だったはずだ。

(標的を、自分に向けさせようとしていた?)

「まあ、それはいいんだけどさ」
「はい?」

突然彼女が呟いてきた。返事をして視線を彼女に戻すと、未だに彼女は天井を睨み続けていた。今度は意識的に、その先を見上げる。灰色の天井。浮かび上がったのは一部で、その大半は闇に飲まれている。反響しているように聞こえる声は、本当はその闇の声なのではないか。その夢想を振り払うことはできなかったものの。

声帯と反響。二重の声音で、彼女は闇と共に問いかけてきた。

「わたしが遅れてることに気づいてたのはともかく、なんで君まで彼女らからはぐれたのさ?」
「……はい?」

わけがわからず訊ね返す。と、彼女はようやく天井から視線をこちらへと向けてきた。薄闇の中に浮かぶ彼女の顔には、若干の戸惑いと怪訝が浮かんでいる。眉根を寄せて、彼女は本当に理解できなさそうに呟いた。

「いや、だからさ。遅れてたわたしとは違って、君は普通に彼女らと一緒に走ってたじゃん。つまり、君がはぐれる……理由、じゃないな。意味とも違う……えーと、君が選ばない限り、彼女らとはぐれることはなかったわけだ」

適切な言葉を思いつかなかったのか、彼女は困ったようにお茶を濁して、別の言葉を選ぶ。だが言いたいこと事態はそんなに変わってないようだった。

「まあ、単刀直入に言うと……なんで彼女らについていかなかったのかって聞きたいんだけどね……んー、やっぱりニュアンスが違うんだよなあ。なんて言えばいいんだろ」
「なんで、彼女らではなくあなたを選んだのか?」
「……それ、なんかラブコメくさい」

呆れというよりは苦いものを食べた子供のような顔で、彼女は呻いてくる。ラブコメが嫌いなのかもしれない。その少し子供らしい反応に苦笑しつつ、遥香は視線を彼女以外の何かへと泳がせた。

確かに、今となっては疑問でもあった。

メリットデメリットの話で考えるのであれば、まず人数が多いほうが安全でいられる。殺人鬼と対峙してしまった時、明らかに二人よりも三人のほうが有利だ――逃げるにしても、闘うにしても。それに、彼女はあまりにも貧弱のきらいがある。武器も持っていない。いざという時に彼女が役に立つかと問われれば、素直に首を捻るだろう。

人柄で考えたにしても、彼女を選ぶのはおかしな話だろう。彼女はどれだけ控えめに評価してもわけがわからない。何を考えてるのかわからないし、異常に適応しすぎている。それは本来なら不気味でもある。その不気味さは、彼女らにはないものだ。あの女にしても、優花と名乗った少女にしても。

では、何故そんな彼女を選んだのか。それにまた苦笑する。彼女にではなく、自分にだった。

(それしか思いつかなかったんです)

彼女が遅れていると気づいたときには、自分も彼女らから離れていた。それがもっとも自然だと思えたのだ。もちろんそんなこと声には出さないし、出せない。それこそどこかのラブコメだった。何故彼女を選んだのか。今となっては疑問であり――それでも、同時に答えのない確信だけはあった。

たぶん、彼女と一緒にいたほうがいいのだと。

「気にしないでください。特に理由はありませんから」
「……まあ、いいけどさ」

憮然とした面持ちで、彼女はふてくされたように呟いた。そのまま昇降口のほうへとテクテク歩き出す。暗闇のせいか、速度はそんなに早くなかったものの。

「……彼女たちとは合流しないんですか?」
「捜して見つかるものでもないでしょ。適当に歩いてれば見つかるかもしれないし」
「まあ、そりゃそうですけど……どこに行く予定なんですか?」
「別棟。昇降口経由しないと」

言われて、校舎の地図を頭に浮かべる。タの字と9の字を足してちょうど二で割った形。昇降口を経由しなくても、真ん中の廊下から行けると思うのだが。

疑問を察知したのか、彼女は質問よりも先に答えてきた。

「実を言えば、職員室にも寄りたいんだ。だから、昇降口」

昇降口の隣に、職員室はある。確かに職員室が目的なら、昇降口経由のほうが近いのだろう。それについて異論はない。

問題は、何故職員室に寄っていこうとしているのかということだった。それを訊ねる。

「何でです?」
「マスターキー。隠れるにしても何にしても、入れる教室が多いことに越したことはないでしょ」
「……職員室も鍵かかってるのでは?」

それは当然の疑問だったが。彼女は肩をすくめて、どうでもよさそうに答えてきた。

「外に電話繋がるかどうか試した時に入り込んだから、それは大丈夫だよ。まあ、その時はマスターキー拝借する予定もなかったんだけどね」

そういえばさっき、彼女らと一緒にいたときにそんな会話をしていたような記憶がある。合流する前、彼女はいろいろと動いていたらしい。それを聞きたいとは思わなかったが。

聞かなきゃいけないことはある。それを思い出して、遥香は声を上げた。

「ところでですね」
「ん?」

声に反応して、彼女は足を止めて肩越しにこちらを見やる。顔に表情という表情はなく、どこかのほほんとした顔が見えた。今は特に何も考えていなさそうではあったが。

「本当に殺人鬼なんているんですか?」

あのメールを受け取ってから今まで、ずっと疑問だったのだ。悪魔。別段それについて口論するつもりはない。証明することが不可能な存在についての口論は不毛だ。たとえ胡散臭くても、意味のない事は考えないことにする。問題は殺人鬼だった。

人を殺す前の存在は、予備軍であっても殺人鬼ではない。人を殺したから殺人鬼なのだ。それについては疑うべくもない。殺人鬼。人を殺したからそう呼ばれる。だけど、殺された人はどこにもいない。死体はもとより、その痕跡も。

だが彼女はそんなことなどどうでもいいのか、暢気にきっぱりと告げてきた。

「いたじゃん、今」
「私たちみたいな……えーと、犠牲者? かもしれませんよ?」
「……犠牲者が逃がさないなんて叫ぶかなあ、普通。常識的に考えるなら、待ってくれとかだと思うけど」
「そこは……ああ、ほら。ホラー映画ですよ。幽霊でもゾンビでも何でもいいですけど、逃げ出した友達に置いてかれた人が叫ぶじゃないですか。逃げないでー、とか。あんな感じで」
「………………心からそう思ってる?」
「……すみません、思ってないです」

だろうねと、彼女はため息を吐く。そしてそのまま歩き出した。置いてかれないようについていく。それでも足取りは慎重だったため、置いてかれることもないだろうとは思えたが。

「……あ、そうだ」

突然彼女はそんなことを呟いて足を止めた。それからキョロキョロと辺りを見回す。見えるのは結局ただの細長い教室棟の廊下だっただろうが。

「どうかしたんですか?」

そう聞かれることを想定していたのかもしれない。彼女はちょうど隣にあった一年一組の教室を指差して、呟いてくる。

「いや、蛍光灯を取りに行こうかと」
「蛍光灯?」

繰り返すと、彼女は感情のない声で答えてきた。

「蛍光灯なら簡単に割れる。武器にもなるしね」
「割れたら武器にならないと思うのですが。普通は竹刀とか……せめてモップとか」
「いいんだよ、武器なんてオマケなんだから。簡単に割れるから欲しいの。竹刀もモップも簡単には割れないし。そもそも大きな音でないし」
「……?」

思わず眉根を寄せる。蛍光灯を割るのが主目的ということなのだろうが、その理由が思いつかない。武器よりもそちらのほうに重きを置く理由は。

訊ねるよりも早く、答えは簡単に帰ってきた。

「割れば、危険があるって知らせられるでしょ?」
「助けを呼べばいいじゃないですか。叫ぶとか、悲鳴を上げるとか」

わざわざ蛍光灯を割る必要があるとも思えない。言い返すと、彼女はあからさまに苦笑したようだった。

「さっきも言ったけどさ。悲鳴を上げるのは重労働なんだよ。思いっきり息吸って、思いっきり吐く。そんな面倒するよりも、蛍光灯地面に叩きつけたほうが早いよ」
「……そういうものですか?」

問いかけるが、彼女は肩をすくめるだけだった。話はそれで終わりというように、教室の扉を開けて、中に入っていく。

「……」

が、突然彼女が立ち止まる。何かを見つけたのか、青白い光に照らされた表情は険しい。中を見てみるが、ここからでは闇が濃くて見えなかった。彼女には見えているのだろうが。

数秒、不自然な沈黙が訪れる。何か見つけたのかと声をかけるよりも早く、沈黙を破って彼女は呟いていた。

「ああ、そうそう……そうだった。殺人鬼だけどさ」

殺人鬼。唐突な切り出しと共に、彼女は闇の中へと消えていく。

「知りたいなら、この中に入ってくるといい。知りたくないのなら、来なければいい。選択肢くらいはあげるよ。ご自由にどうぞ」
「……? 何を言って」

その声を、遮って。

やっぱりいつもと変わらぬ暢気さで。

「死体。ネクタイがない。首切られて死んでる」






苦しい。走るのが辛い。それでも止まる事はできない。逃げなければならない。握り締めた手の暖かさが、なくならないように。階段を駆け降りる。一階。すぐそこの教室に飛び込んで、優花が入ってきてから扉を閉める。さっきの女たちとははぐれてしまったのか、姿は見えなかった。

息も絶え絶えな優花の声が、鼓膜を振るわせる。また泣き出したのか、きらりと頬を何かが伝っていた。立っていることもできず、さっきみたいに腰を抜かして倒れこむ。

「と、十夢……」

声に応えることはせず、十夢は閉ざした扉を凝視する。自然とモップだった棒を握る手に力が篭るのを感じた。浅く早い呼吸を、意識的に深く遅い深呼吸に切り替える。目は閉じなかった――閉じれば、その一瞬に対応することができなくなる。

静寂はなかった。殺人鬼の足音が掻き乱すように辺りに慌ただしく響く。逃がさない。響いたあの咆哮を思い出す。足音が近づいてきていた。それを理解した瞬間、心臓がドクンと跳ね上がる。気づけば棒を握る手が、じっとりと濡れていた。

殺人鬼がいる。殺人鬼が追ってきている。それだけで心臓が痛み出した。何度も何度も胸の内で暴れている。もしかしたら、次の瞬間には破裂してしまうのかもしれない。それほどまでに、心臓がドクドクと脈を打つ。

「………………!」

何かを堪えるように、優花は息を押し殺す。それは今まで聞いた事のない幼馴染の声だった。それが、彼女を守らねばならないのだと自覚させる。

守らねばならない。何があっても、絶対に。そう意識して、十夢は扉を凝視する。

開かない扉。開いた時には殺される。死は最低の理不尽だった。それを振り払うためにも、戦わなければならない。息を殺す。ずっと扉を睨みつける。音は止まない。慌ただしく走り続けている……音が響く度に、優花の体が強く震える。

「絶対、守るから」

小さな声で本心から囁く。優花の震えが一瞬治まったような気がした。心でもう一度繰り返す――守らねばならない。こんな理不尽で、失いたくはない。そのためなら、何だってしてやる。

響く足音が、突然止まる。階段を降りきったのだろう。恐らく、得物がどこに行ったのかを捜している。逃がさない。そう殺人鬼は叫んだ。息を殺す。扉を睨み続ける。乾燥し始めた眼球に、うっすらと涙が溜まり始める。それでも目を閉じることはしなかった。瞼を閉じた瞬間に来る。絶対に。それは考えるならあまりにも馬鹿げた話だったが、それでもそうなる確信があった。

相手は悪魔が呼んだ殺人鬼。それを肝に銘じる。殺すためだけに生まれた鬼。

静寂だけが、ずっとずっと辺りに落ちる。息の音すら、ほとんど聞こえない。

カツン。

「………………!」

心臓が飛び出そうになる。それを堪えるように扉を凝視した。来るか。来ないか。それとも焦らし続けて、こちらが痺れを切らした瞬間に殺しに来るか。

死にたくない。だけど、死なせたくない。その思いだけを抱えて、十夢は扉を睨み続けた。

静寂は長かった。何分経ったのか、何十分経ったのか、何時間経ったのか。永遠とも思える長い数瞬を忍び続ける。

やがて、歩き出した。

こちらとは、逆方向へ。昇降口のほうへと、殺人鬼は歩き出した。ゆったりとした間隔。体重はないが、足取りは重い。誰かを探しているのか、見失って途方にくれているのか。確かめたくなる。殺人鬼が誰なのか。凶器は何なのか。何で殺そうとしているのか。それら全て、扉を出て確かめたくなる。それでも十夢は感情を押し殺した。

「………………」

ずっとずっと、待ち続けて。足音が聞こえなくなるまで、ずっと息を殺していた。足音が消えても、しばらくは喋ることができなかった。

「……はあ」

五分数えても音は聞こえない。ようやく十夢は深く息を吐いた。助かったのだろう。足音は昇降口へと向かっていた。反響していた音の弱まり方からしても、もう近くにはいないだろう。床に棒を突き立てる。それに全体重を預けて、十夢は脱力した。

「……どうする?」

どうするか。そう誰にでもなく問いかける。さっきまでいたバカや、話したこともない少女とははぐれてしまっている。彼女たちを捜すべきなのだろうか。それとも無視して殺人鬼から逃げ続けるのか。もし見えない何かが答えを教えてくれたのなら、自分は神だって悪魔だって信じてやれそうだったが。

「……ねえ、優花?」

ふと気づいて、背後を振り向く。優花が何も言ってこない。不自然なほど、彼女は口を閉ざしていた。こちらを見てすらいない。聞こえてすらいなかったのか。ただその顔はひどく無表情で、そのくせこれ以上ないほどに青ざめていた。

はたから見てもそうだとわかるほど震えている。その震える手で、彼女は教室の中を指差した。

「と、と、と、む……あ、アレ、アレ!」

歯の根が合わないのか、彼女の声は途切れ途切れに響く。何かに怯えている。でも何に――問いかけと回答は一瞬だった。声は出せない。その代わり、心の中で十夢は叫んでいた。

(敵か!?)

恐怖の源泉などそれしかない。理解と同時、その方向を反射的に睨みつける。

汗で濡れた棒を構え。指されたその先を凝視して。

そして彼女は絶句した。

死体が一つ。淡い闇に溶け込むようにして、眠っていた。






心臓が脈を打っているのか、それとも脳が脈を打っているのか。立っているのか、座っているのか。目を見開いているのか、硬く閉じているのか。様々な感覚の全てを失念して、それでも十夢は自分の手元を見ていた。脈動はもう収まっている。もう何もない……それでも、動けずにそれを見ていた。

自分の携帯。三年前、中学三年の春に買ってもらった旧式。使い勝手が悪く愛着もない、ただ見慣れてしまった携帯。何度も何度も見てきた、メールの着信を知らせる電光板。圏外。脳裏によぎり続けているのは、そんなごくごくありふれた単純な、それでも身近にはない異常を知らせる言葉だった。

息をするのが苦しい。気管には何も詰まっていない。なのに、息ができない。心臓が熱い。何故かはわからないが、それでも汗をかくほどに熱い。

メールを見るべきなのに、見てはならないと何かが叫んでいた。本能だったのかもしれない。理性だったのかもしれない。或いは心そのものだったのかもしれない――それでも、いつかは開かねばならない。決心が先か、妥協が先か、逃走が先か。見ないという選択肢だけは、選ぶことができなかった。

誰も動かない。死んでしまったかのように、音が聞こえない。空気が動かない。きっかけがないと動けないのに、そのきっかけが見つからない。あまりにも異様な空気に、完璧に呑まれてしまっていた。誰も動かない……

いや。

「……ふむ」

女が一人、そんな声と共に入り口へと歩き出していた。足音が響く。空気が少しずつ動き出す。女を追うように、全員の視線が集まっていく。女は優花と少女、二人のところに歩いていく。視線は優花ではなく少女に――より正確には少女の持つ女の携帯に向かっていた。女は少女に手を伸ばす。

「携帯。ちょっと貸して」
「あ……えと」

少女はおずおずと携帯を女に渡す。それを受け取って女は、無関心に携帯を操作し始めた。マナーモードなのか、操作音は聞こえてこない。無音のまま時間が過ぎていく。女の指は、五秒も立たずにピタリと止んだ。

沈黙。女はただ、ずっと画面を睨んでいる。その姿は退屈そうでもあり、どうでもよさそうでもあり――そのくせ何故か、どこか何かを楽しんでいるようにも見えた。

「……へえ。なかなか凝ってる」

ため息。次いで、ポツリと一言。何が凝っていたのか、何にため息をついたのか。その声に反応したのは、怪訝を浮かべている優花だった。

「……何が?」
「自分の見ればわかるよ、たぶん」
「たぶんって何よ」
「内容が違うかもしれない。まあ、たぶん一緒だろうけどね……ああ、ありがと」

そう言って女は、少女に携帯を渡す。またおずおずと、少女は携帯を受け取った。そのついでか何かで、訊ねる。

「……見てもいい、ですか?」
「ああ、どうぞどうぞ……というか、君あてなんだけどね、さっきの」
「……え?」

少女が呟き返す頃には、女はもうどうでもよさそうに天井を見上げていた。完全に興味がなくなったのか、それとも何かを考えているのか。どちらにしろ、その頃には十夢にも決心できていた。

いつの間にか口内に溜まっていた生唾を嚥下し、手元の携帯を見やる。メールを表示する操作など、もう体に染み付いている。それでも十夢は、ゆっくりと携帯を操作した。

表示されるメール欄。未開封が一通。送信者は。

「………………………………」

その文字を理解するのに数秒を費やした。表示されていた名前が、あまりにも馬鹿げていたからだ。そしてその名前が、いつの間にか携帯に登録されていたからだ――登録されていないメールは、送信者の名前をメールアドレスで表示する。

このメールは、見知らぬ『登録された』誰かからのメールだった。

「………………何、これ」

優花の声が聞こえる。震える声――恐怖とも驚愕ともつかぬ、そんな声で優花は呟いていた。優花が呟かなければ、きっと自分が呟いていた。遅れて、少女の息を呑む音が響く。闇の中、二人の表情は見えない……それでも、気配は怯えるウサギによく似ていた。

「……ようこそ、この素晴らしき遊戯の時間へ」

感情のない、それは女の声だった。読み上げていくのは、メールに書かれていた文章。

「殺人鬼が一人。この世界で飢えている。飢えた猫は獲物を殺す。最後には自分でさえ殺す。誰も残らない、誰も残さない。例外なく、誰一人として生きてない。殺人鬼が一人。猫が一匹。誰もを殺す、猫が一匹……殺される前に猫を当てよう。それとも、殺される前に自殺するか。どっちでもいい。どちらか一つ。猫を探すのは一人だけでもいい。見つけたら君たちの勝ち。殺されたら、君の負け」

ただ淡々と、女はその先を呟いていた。自然と、視線がその文章を追う。彼女以外、誰も口を開くことはなかった。

「負けたら君をいただこう。君の魂をいただこう。我が名は悪魔。絶望の果てに『まるまる』。君を待っている……『まるまる』には自分の名前かな。あってる?」

全てを読み上げて、女は暢気に問いかけてくる。だが、優花も少女も答えない。ただ震えながら携帯を見つめていた。

間違いはなかった。文章は全て読み上げたとおり。『まるまる』と読み上げられた部分には『武藤十夢』の文字が入っている。誰かに名乗ったわけでもない。それでも、悪魔は名前を知っていた。

心臓はもう熱を発さない。熱を欲するほどに冷え切っている。それが身から来る寒さなのか、心から来る寒さなのか。どちらかから逃げるように、十夢は問いかけた。

「……なんで、見ないで読めるの?」
「暗記科目は得意だからね。一度見たものなら長文でも五分くらいは覚えてられる」

女は、こちらからすればどうでも良い事を自慢するように胸を張る。それがこの空気には、あまりにも異質だった。闇の中、女は肩をすくめる。

「ま、そんなことよりも問題は名前なんだけどね……君、悪魔なんて知り合いいる?」
「いるわけないでしょ」

険悪な響きを持たせて呻く。と、女はやっぱりとでも言いたげな声を上げた。

「だよねえ。いたらLFが始まってる」
「LF?」
「ロウ・ファンタジー。現代を舞台にしたファンタジーのことね」

どうでも良い事を呟いて、女はため息をつく。

「にしても、悪魔と猫……殺人鬼ねえ。最悪だね、どうも。いっその事さっさと自殺しちゃう? そうすれば終わるけど」

本気ではないだろう。おどけた調子で女は笑う。それは苦笑にもよく似た、やせ我慢のようにも思えたが。もはや言い返す気力もなく、十夢は黙り込む。

反論の声は、予想通りに少女が上げた。

「冗談でも……そういうこと言うの、やめてください」
「ん、わかった」

女も抵抗せず、素直に応じる。それ以上言うこともなくなったのか、女は黙り込んだまま天井を見上げた。何かを考えているのか、それとも時間を潰したいだけなのか。

沈黙だけは、嫌というほどに長かった――いや、そう長かったはずはない。それでも長く感じたのは、ただずっと何も考えることができずにいたからか。

「……逃げなきゃ」

その沈黙を破ったのは優花だった。焦っているのか、声が引きつっている。半狂乱なのか、それとも冷静なのか、よくわからなかったが。そんな声で、優花は告げてくる。

「逃げなきゃ。一箇所に留まってると、きっと来る」

何が、とは言わなかった。そんなことなどもう言わなくてもわかっている。悪魔が来るのか、殺人鬼が来るのか。その二つよりも明確な存在が、近づいてきている。敵だ。悪魔と殺人鬼、その二つの内のどちらでもあるもの。ゲームの立案者と、実行者。最低な二つ。

賛成したのは、やはり幼馴染みの女だった。

「まあ、そだね。わざわざ死体鑑賞のためにここに残るのもどうかと思う。これからどうするかは置いといて、どこか安全な場所でも目指そうか」
「安全な場所?」

訊ねてみる。心当たりがあるのなら、どこでもよかった。

が、何も考えていなかったのか、或いは本気だったのか。よくわからない調子で女は答えてくる。

「実際廊下が一番安全なんじゃないかなーとは思うけどね」
「何で」
「だって、逃げられる。廊下なんだから、わざわざ追い詰められることもない。逃げ続ける自信があれば、の話だけどね」

それは確かにその通りなのかもしれない。だが、それを安全といっていいのかどうかは甚だ疑問だった。危険から逃げられるというだけだ。決して安全というわけではない。

「……安全って――」

反論しようとした、その直後だった。

――カツン。

「………………え?」

足音。その呟きは誰のものだったのか。考える余裕を捨てて、十夢は教室の外へと飛び出した。女も後を追うようにのんびりと外に出てくる。廊下には静寂が落ちていた。音は聞こえない。気のせいだったのかと思うほど、辺りは静まり返っている。だが、耳を澄ませば、それを否定するのは無常にも容易なことだった。

――カツン。カツン。カツン。

止まらない。近づいてくる。どこかから。教室から優花と少女も出てくる。表情が見えた。二人とも、寒さと共に怯えに震えている。女は相変わらずどうでもよさそうに闇を見ていた。闇。携帯で照らしても、遠い。響く足音。誰の。誰も歩き出してない。

誰の? 考えるまでもない。考える必要もない。携帯を畳み、ポケットに入れる。気づけば、優花の手を取っていた。聞こえたのは、間延びした声。

「え?」

それに答えずに――いや、答えたのかもしれない。どちらにしろ、十夢は叫んでいた。いや、叫ばなかったのかもしれない。ただ、突きつけるような鋭さで言葉が吐き出されたことだけはわかっていた。

「逃げるよ!」
「あーあ、気の早い」

答えたのは、優花ではなく女だったが。

優花の手を引いて、走る。もう何も聞く必要はない。考える余裕もない。走り出す。逃げるように、闇の中を。続く足音は三つ、いや四つ。

逃がさない。

そう、誰かが叫んでいた。震える声で、叫び続けていた。

絶叫は、反響して無限に増える。

ひび割れた声で。ただ延々と、その叫びは響き続けた。






一つ、二つ、四つ、八つ。増えて十六、二倍して三十二。二の六乗で六十四。さらに増やして百二十八。数字を数えることで、無理やり思考する。考えるのをやめた時、人は獣に成り下がる。それは死と同義だ。だから考える。状況を理解するために、何度も何度も思考を走らせる。思考はすぐさま長い長いランニングとダッシュを開始する。小休止でさえ必要ない。休憩など寝るときだけで十分だ。だから彼女は見た。

闇。真っ暗闇ではない。背後からは自分の携帯が、前方では二つの携帯が辺りを照らしている。薄闇。背後からは息遣い。化石少女のだろう。眼前に机とイスの森。黒板。教室。暗い。中央に一つ、テルテルボーズ。縄は見えない。ここでもまた闇。死体が一つ、天井からぶら下がっている。それを呆然と見ている、二人の少女。気の強そうな女の手には長い棒。二人とも、テルテルボーズを見つめている……ふと思考が迷う。テルテルポーズ。

(それ、どんなポーズさ?)

そのままのポーズなのだろう。不謹慎だが、自問自答する。思考はそこで終わりを告げ、代わりに平常が戻る。冷却された脳は、いつもどおりに暢気な言葉を唇に喋らせていた。

「……まったくもって、何が何なんだか?」

暢気というよりは、白けきった声が漏れた。呟いたことで視線が集まる。薄闇に輪郭が溶けている。だから、二人の少女が今どんな表情を浮かべているのか、判断はできない。どちらにしろ、誰も何も言いはしない。話は何も進まない……

だったら、今は平常な自分が進めるしかないのか。ため息混じりに、彼女はその役割を受理することにした。

「君たち、第一発見者?」
「……あ、アンタたちは?」

質問に答えない、女の声。聞き覚えのないものだ。知り合いではない。化石少女が何も言わないことからして、化石少女の知り合いでもなかったようだ。つまりはまったくの赤の他人。なんで知り合いが一人もいないのかと、彼女はため息を吐いた。

今度生徒会長でも目指してみようか。それならこんな事態でも、声くらいは覚えていてもらえるだろう。不純な動機だが、別に生徒会長だって本気で学校を変えるためになるものでもないはずだ。せいぜいが大学への宣伝にしか使えないのだし。

「この学校の生徒です。悲鳴を聞いてここに来ました」

一秒くらいだっただろうか。何も言わないこちらの代わりに、背後の化石少女が代弁してくれた。そしてそのまま、疑問を呟く。

「……これは?」

彼女の呟きと共に、死体に自然と視線が集まる――この人は、ではない時点でこれはもう物なのか。死体を人として扱っていいものなのかどうか。声には出さずに悩む。

が、そんなことなどどこ吹く風、女はいまだ消沈した意気のまま答えてきた。

「自殺……したんだと思う。人を捜してた。どこかに行けば、いるかもしれないと思って。そしたら……」
「見つけてしまったというわけだ」

口ごもった女の代わりに、その先を続けてみる。女は何も言わなかった。当たりなのだろう。顔が青ざめているのは、死体を見たからか、はたまた自殺に怯えたか。どちらにしろ、その程度で意気消沈するのはあんまり理解できないことだった。

死なんて簡単に生まれる。闇の中ならそれはこの上なく顕著だ。わざわざ驚くことでもない。死体だって、もともとは自分たちと同じ、生きている者だ。つまり、必然的に自分たち生き物はどんなに抗おうともあの死人のように死ぬことになる。いつ自分がああなってもおかしくはないわけだ。可能性があるのなら、それに怯える必要性はない。

(まあ、死んだら怯えも何もないんだけどね)

ため息を吐いて彼女は死体に近づいた。女といまだ放心したままの少女を通り抜け、死体にお目通り願うことにする。死体に近づくにつれて光量は減っていったが、それでも見ることには不自由しなかった。

何の変哲もない、ただの死体だ。白目を剥いて、息一つせず。苦しそうに血の気のない顔を歪めている。見覚えのない顔なのは、顔が苦痛で歪んでいるせいか、ただ単に記憶にないせいか。ごくごく一般的な首吊り死体である――少なくとも、そのイメージ、というべきか。日本に死体は溢れていない。

ふと思いついて、彼女は呟いてみた。

「外国の映画って、これくらいしてくれそうだよね」
「……映画?」
「ハリウッドの特殊メイクとかさ。映画同好会ってあったっけ、この学校。もしかしたら、そういう連中のいたずらかもね」

たぶん、なかったはずだが。なかったとしたら、このテルテルポーズな死体はメイクなしでここに存在していることになる。死は間近で身近というわけだ。自殺する理由が何なのかは、保留するにしても。

「……何でアンタ、そんなに冷静なの」

女が呻くのが聞こえてきた。頭でも冷えたのか、或いは環境に適応したのか。底冷えするほどに冷たい声だった。

「だって、他人事だし?」

呟いてから、振り向く。死体の隣から入り口のほうを見ると、ここにいる全員の姿を見ることができた。ジトっと睨みでも効かせているような気の強そうな瞳をした少女と、肩までの髪をそのまま下ろした、化石少女。そして、特に特徴のない――強いて言うなら女子高生の平均身長よりもいくらか小さな自分。と同じくらいの小さな髪の長い少女。遠い薄闇の中では、表情は見えない。ただ幽鬼じみて見えるだけだった。

四人。今ここにいる、生きている人間の数。

これで全員と見るべきか、それとも他にまだ巻き込まれた人がいると考えるべきか。思考材料は当然のように欠けている。小学校の時に習った虫食い算よりもひどい。どんな言葉も嘘になるし、どんな言葉でも本当にできる。そもそも何を考えればいいのかもわからない。まさにお手上げだった。

「……さて、これからどうしたものかな」

独り言の雰囲気を漂わせつつ、視線で問いかけてみる。何も考えが思いつかないというのは、あまりにも間抜けなことだった――誰か答えを持っていれば、それについて考えられるというのに。沈黙の中、ふと時計を思い出す。時計だったら、考えなくても自分のするべきことはわかっている。それは羨ましいことだった。

もしかしたら時間戦争は、そんな時計に嫉妬した人が起こすものなのかもしれない。それこそ神のみぞ知る未来の、この上なくどうでもいい与太話だったが。

沈黙の中、ハッと気づいたように女が声を上げた。

「警察」
「警察?」
「呼べばいいんだよ。そうすれば終わり。それだけの話だったんだ」
「どうやって呼ぶのさ?」
「携帯持ってるじゃない!」
「君もね。ああ、あとわたしは今持ってない。そこの化石少女が持ってる」

怒鳴り声を適当に流して、ため息を吐く。携帯なんて、今更見る気もしなかった。明かり以外に役に立つわけがないのだ。本当に今更だった――またハッとした声。たぶん、携帯という言葉に反応した化石少女のものだろうが。

「なんで……!?」

驚愕の声もまた、化石少女のものだった。女はその反応を予期していたのか、してなかったのか。舌打ちしてから、八つ当たりのように叫んでくる。

「何でよ……!? 何でこんな場所で圏外になるわけ!?」

その八つ当たりにも無頓着に、どうでもいい答えを返す。

「さて、それについての答えは……考えるのも面倒だなあ。答えが出ないの、わかりきってるし。職員室の電話も試したしね。回線繋がってるのに外に繋がらないんだから、どうしようもないよホント」

警察を呼ぶなんて考えは、当の昔になかったのだ。目覚めて最初に携帯を見たときから、それはわかっていたことだった。たぶん女もわかっていたのだろう。携帯を明かりにして歩いておいて、わざわざ外に電話しない道理もない。

「にしてもなあ……人を見つけたのはいいんだけどさ。これで打ち止めなんだよね、どう考えても。これから何して暇潰せばいいのさ?」

ため息を吐く。馬鹿馬鹿しい思いで彼女は苦笑した。本当に、これで終わり。

何もすることがない。何もしていないのにチェックメイト。将棋で言うところの詰み。あまりにも理不尽極まりない終わりだった。後できることといえば、死体鑑賞と時計考察だけ。時計考察はともかく、死体鑑賞はまったく楽しくなさそうだった。

と。

「暇、ですか?」

さっきの化石少女だ。本当に疑問だったのか、はたまた死体から少しでも離れたかったのか。答える必要があるのか疑問だったが、とりあえず答える。

「だって、事態が何も進展しない。閉じ込められて、自殺者一名。それでお終い。やることがないよ。これじゃあ生殺しだ」
「……何であなたは、そこまでわかってて暢気なんですか?」
「そう? 君だってわたしと同じくらい暢気に見えるよ」

言い返すと、一瞬少女はたじろいだようだった。が、すぐに平然と言い返してくる。

「私は……冷静な、だけです。驚いて悲鳴を上げるタイミングは、もう逃してますし」
「じゃあわたしもそんなものなんだろうね、きっと」
「………………あなたの場合は、根本からぶれてる気がします」

ため息の音。それ以上話す気が起きなかったのか、彼女は腰を抜かしたままの少女に近寄る。それから彼女は子供をあやすように少女に話しかけた。最初は当たり障りのない言葉から……自己紹介を始めた辺りで、女は彼女たちから視線を外した。そういう話は当事者以外は聞かないほうがいいのだ。

そう決め付けて、女はため息をつく。泣き出したのか、そんな声まで聞こえた気もしたが、まったく気にしなかった。

視線を死体に戻す。苦しそうにだらりとぶら下がる肉体。肉体の呪縛から解放され、魂だけが悦楽の中にいると思うと、なかなかに羨ましいものがないわけでもない。少なくとも、死んでしまえばこの重苦しい意味不明さを味わわなくてもいいのだろうから。魂を持つ前の時計と、死んで肉体から解放された魂。もしかしたら、死人が時計に宿るのかもしれない。だとしたら、時間戦争も単にただの戦争と一緒ということになるが。

手持ち無沙汰になったのか、女もこちらに近づいてくる。その女へと、彼女は呟いた。

「女の子同士が抱き合うと絵になるのに、男同士が抱き合っても絵にならないのって、ちょっと不思議だよね。同じ人間なのに」

抱き合いたいとは思わなかったが。というか御免被りたかったが。女は苦笑交じりに呟いてきた。

「……なんで、本当に暢気なんだよアンタは」
「ここで慌られてもうざいだけじゃない?」
「……正論なだけに、ほんとうざい」

まあ、そんなことはどうでもいい。とりあえずの問題は、この死体だった。

この死体から何を考えて、どこに結論を持っていくのか。この死体には何の意味があって、何の価値があるのか。名探偵ならここでビシッと何かを見つけるのだろう。実はこれ、他殺なんですよーとか。死体はまだ生きてるんですよーとか。異常が日常な彼らの観察力が、今だけは羨ましい。危険を呼び寄せる超運だけはいらないが。

どうでも良い事に脱線した思考を戻しつつ、彼女は死体の顔を見た。特に特徴のない顔立ちだ。すれ違っても、たぶん気づかない顔。アウトオブ眼中な顔立ちだった。記憶に残す価値以前に、記憶に残す方法がない。そんな顔。呆れるしかなかった。

「……本当に没個性な顔立ちだよね。何かすぐ忘れちゃいそうな顔というか……絶対に覚えられなさそうな顔というか」
「……不謹慎。同意はするけど」

女も同じ事を考えていたらしい。気が合うのは良きことなのだろうが、本当に不謹慎極まりない。だが、やはり覚えられないものは覚えられそうになかった。何度見ても、記憶にも残らない。

死んでいたのが誰だったのか、これでは誰も覚えていられない。

と。突然女が何かに気づいて声を上げた。

「……あん?」
「何? 何かあった?」
「いや、この死体。カフスボタンがない」

言われて裾を見る。二つあるべきボタンが一つとしてついていなかった。引きちぎられたようなほつれだけが、痕跡として残っている。もう片方の腕にもついていないようだった。それが意味することといえば。閃くと同時、彼女は適当に呻いていた。

「……何なんだかね。何のために、誰が奪ったんだか?」
「奪った?」
「だって、ほつれがあるし。不自然でしょ」
「私の知り合いには、それが格好いいと思ってる人もいたけど。ワイルドだとか」
「うーん……ワイルドが自殺するかなあ?」
「するんでしょ。現に今、してるんだし」

とりあえず、納得しておくことにする。特に気にするべきポイントではないのだろうし。

「あ」

ふと気づく。死体は、その手の中に何かを持っていた。ノートの切れ端のようにも思える、それをその手から引きずり出す。破れるかと危惧したが、大した抵抗もなくその手からそれは出てきた。

「……紙切れ?」

女の呟きに答えず、畳まれていた紙切れを開く。

そこには文字が書かれていた。そして数秒後、それが遺書なのだと気づいた。女が覗き込んでくる。文字は乱雑で、読みにくいことこの上なかった。

赤い文字が、照らされている。

血文字だった。おどろおどろしさをアピールしたかったのか、それともペンがなかったのか。自殺。遺書。自分で死んでおいて、メッセージを残している。

自殺に対して毎回毎回感じるのは、何故自分で死ぬという方法で現世から離れておいて、それでも現世にメッセージを残そうとするのかという疑問だ。死んだのなら、もう何も気にしなくていいというのに。放っておいてももう何も思えないのに。

読み上げるのはあまりにも愚かだったかもしれない。それでも彼女は、呆れながらその遺書を読み上げていた。

「これは悪魔のゲーム。誰も、生きて帰れない……」

読み上げてから、はたと気づく。

「これ、本当に遺書なの?」

違う物にしか思えない。が、誰も答えを返してくれない。沈黙は長かった。もしかしたら誰も聞いていなかったのかもしれない。どちらにしろ、もう一度読み上げようとは思わなかったが。

「………………でしょ」

やや経ってから、女はそれだけを呟いた。

そして。本当に愚かだったのは、読み上げたことでもなかったような気がする。本当の意味で愚かだったのは、何も変わっていないのに気を緩めたことのように思える。

時間戦争の始まりだって、きっとその隙をついて起こるのだ。静寂に響かない時計の長針。振り子時計もここにはない。静寂を強調するものは何もない……

強調するものは。それを彼女は、ため息をついて否定した。静寂を壊してなお、静寂を意識させる音。それは明確に耳に届いていた。三つ。光が規則正しく変化する。それは見慣れていた光景であり――この場においては、あまりにも非現実的な光景だった。

彼女以外の誰もが、息を殺していた。否、息をすることができなかった。

――携帯が、まるで生きているように脈動している。

いや、実際生きているのかもしれない。時計より若いからといって、携帯に魂が宿らない道理はない。むしろ同じ無機物として、宿ってしかるべきだろう。日ごろ酷使されているのは時計よりも携帯だ。なら、恨みを先に抱くのも携帯だということなのだろう。

どちらにしろ。本当にどうでもいい気分で、彼女はその事実を呟いていた。

「――メールの着信だね、どうも」

しかも、自分を除いて全員。いや、携帯は自分のだから、化石少女を除いて三人か。それはともかく、遺書を読み上げたタイミングでメールが来るとは。そのあまりにも狙ってましたと言わんばかりの悪質さに、彼女は表情には出さないように苦笑した。

「圏外なのに」

そう誰かが呟いていた。






息を吸う。限界まで吸って、そして吐く。吐く時に声帯を震わせて、その息は初めて声になる。その声が叫びとなるか、それとも悲鳴になるか。それはその声を発した当人の心境次第だろう。個人的には、どちらも大差ないように思えたが。

「これは、考える必要もないね」

悲鳴だ。それも長い。取り繕う必要も、捏造する理由も感じない。紛うことなく悲鳴だ。女の。目の前の化石少女ではない。それはつまり。

考え終わるよりも早く、化石少女がうろたえる。声は震えていた。どうやら悲鳴に恐怖を覚えたらしい。長い髪が、彼女の動作に合わせて揺れた――先ほどのように、腰を抜かしたわけではなさそうだったが。

「な、何であなたはそう暢気なんですか……!?」
「だって、当事者じゃないし」

とは言いつつも、考える。悲鳴の聞こえた方角。悲鳴の聞こえてきた場所。悲鳴の理由。悲鳴を上げた存在のその後。

考えなければならないことは多々あるが、とりあえずの問題は。

「どこに行くの?」

その悲鳴の方角に歩き始めた、彼女だった。暗いせいで、走りたいのに走れないのだろう。その気配は背中からでもわかる。その背中を追いかけるように、彼女も歩き出した。

足を止めることもこちらを振り向くこともせずに、女は言う。

「悲鳴です。誰かいます……知り合いかもしれません」
「まあ、そうだね。それで?」
「助けに行くべきです。今は異常事態です。知り合いじゃなかったとしても、協力し合えるかもしれません」
「危険に巻き込まれるかもしれないね」

失言だったかもしれない。そう思ったのは、彼女が不自然に足を止めたからだった。肩越しにこちらを見てくる。その瞳はぼうぅと照らされ、幽鬼じみていた。

声はそれよりかははっきりしていた――つまりは怒気を含んだものだったが。

「……何が言いたいんですか?」
「いや、別に? ただ、猪突猛進はいただけないなあって話さ」
「……見捨てる気?」
「冷静になれって言いたいの。とはいえ……」

ため息を一つ。空気を改めるためのその息が消えてから、女は問いかけた。

「声のした方角、どっち?」

悲鳴は反響していた。が、だからといっておおよその見当がつかないわけではない。少なくとも悲鳴を上げた一瞬だけは、その方角がはっきりしているのだから。最初の音を記憶に残すことに成功させられていれば、反響など気にしなくてもいい。

戸惑いと怪訝を潜ませて、彼女は答えた。

「三階。たぶん……教室」
「理由は?」
「声の方角です。この上の遠くからでした。だけど、少しくぐもっていたように思います。廊下からならもっとはっきりしているはずです」
「………………ふむ」

思考を閉じて、頷く。そして地図を思い浮かべた。角張った『タ』の字。今いるのは教室棟の一階だ。一年棟ともいう。そして三階は三年棟。放送室などは別棟だ。あの悲鳴は教室からだというのなら、何も問題はない。断言できた。

「なら、十中八九危険はないよ。行こうか」

そう告げて、女は彼女の横を通り過ぎる。ポカンとした顔は、何かに驚いていたようだった。或いは、突然の断言に反応できなかったか。

やや遅れて、彼女の声が足音と共に聞こえてきた。

「……何故、断言できるんです?」
「悲鳴だよ」
「……悲鳴?」
「そ。普通は危険と取るんだけどね……今回ばかりは、たぶん違う。悲鳴を上げる時の動作を考えればいいんだ」

きっと、今の自分はしたり顔なのだろう。今は鏡を見たくないなと思いつつも、続ける。

「普通に喋るのとはわけが違う。まず、息を吸わなきゃいけないんだ。大声出す時の基本だね。で、その後吐く。思いっきり。吐くんだけど……あの長さだ。三秒かな? 思いっきり吸って、三秒息を吐く。近くに危険があったのなら、三秒も悲鳴は上げられないよ」
「………………」
「それに、悲鳴は重労働だよ。危険に対して上げたのだとしたら、あれだけの時間悲鳴を上げる余裕はないはずだ。三秒は長すぎる。本当の危険を前にしたとき、大概の人間は逆に息を止めるものだしね」
「……何でそんなことを知ってるんですか?」
「いろいろとあってね。今度試してみなよ。わたしだって体験談なだけだし……とはいえ」

考える。確かに、教室に危険はないだろう。それだけは断言できる。言い換えるなら、それ以外は何も断言できない。道中に危険があったとしても文句は言えない。

ため息を漏らして、女は背後を振り向いた。

「……?」
「はい」

怪訝を浮かべている少女に、携帯を投げる。

「え……わ!?」

突然物を投げられて、少女は驚いたようだった。慌ててキャッチする。それを確認してから、女は階段付近に設置されている掃除ロッカーに手を伸ばした。開ける。箒、モップ、箒、箒、モップ、バケツ、雑巾……大して目ぼしい物は入っていない。

「……何してるんです?」
「いや、武器くらいは持ってたほうがいいかなーと思ってさ」

が、モップは先端が外せない旧式のものだ。箒は先端がさばけていて武器にならない。バケツも雑巾も武器としては言わずもがな。結局やめておくことにした。

「……まあ、いいか。行こうか」

そう告げて、また歩き出す。それと同じくらいのタイミングで、気遣うような声が聞こえてきた。

「……携帯、私が持ってていいんですか?」
「うん、いいよいいよ。わたし、夜目はいいほうだから」

答えてから、苦笑する。暗いところは得意なつもりだ。わずかな明かりさえあれば、後はイメージで何とかなる。明かりがなくても、イメージだけで歩くこともできないわけではない。闇は嫌いではない。だから大して何も気にせず、階段を上がる。足音の音色が変わる――いや、反響が変わったのか。どちらにしろ、階段を上りきるまでは無言だった。

「そういえば君、何か武道やってたりする?」
「……何故そんなことを?」
「いや、武道経験者なら、もし仮に危険があっても楽になるかなと思って」

あくまで気だけ、だが。彼女を守る義務などないが、守らなくてもいいのだとしたらそれでいいのだ。危険な目にあってる人を前にして見捨てて逃げるなんてかっこ悪い。どちらにしろ、彼女は答えてこなかった。が、やっているのなら、闇の中で腰抜かしたりはしないだろう。たぶんやってない。偏見でそう判断する。気が重くなった。

「………………」

気づけば息遣いが増えていた。近い。

自然と足音も忍ばせている。もしかしたら、彼女はもう背後にいないのではないか。そう危惧するほどに、足音は小さかった。ただ、隠し切れない呼吸の音だけが薄闇の中にある。

(……さて。この状況下で、いったいどんな危険がある?)

否定したことをもう一度掘り起こす。教室。悲鳴を上げた場所。そこで悲鳴を上げる理由は。それは知っている。だからいい。悲鳴を上げて……その後の危険性は? 何が危険になる? 道中に、危険はなかった……

(……結局は、人災かな。それ以外はありえない)

やっぱりモップくらいはあっても良かったかもしれない。時間戦争の役にはたたないだろうが、喧嘩程度なら有効ではあった。後悔というほどではないが、悔いる。ため息は漏らさなかった。

その教室にたどり着く。三年二組。扉は二つあった。小学校の時、教室の扉は一つしかなかった。中学に上がってから、入り口が二つに増えたのだと思う。黒板側と、その反対。どちらからでも出られる。

どちらからでも、逃げることも進入することもできる……

呼吸の音も二つあった。浅く、速い息。これは知っている。焦りや恐怖の前になす術もなく、思考が圧倒されている時の息だ。思い出したのは、遊園地のお化け屋敷だった。意気揚々と中に入っていった友人が、数秒後には顔を青くして震えていた。怖いと思わなかった自分は、彼女の顔を面白そうに眺めていた記憶がある。その時の呼吸と同質のもの。

扉は開いていた。そこから中へ入る。

そして、女は見た。

腰を抜かしたのか、座り込んでいる女と。

驚いているのか、ただ呆然としたもう一人の女。

「……!?」

背後から息をのむ、彼女の音。それを聞きながら、女は見ていた。

教室に。その中央にぶら下がる、人型。無感動にそれを見て。

やっぱりお化け屋敷みたいだと思いながら、女は安穏と呟いた。

「……明日は晴れても、気は晴れないだろうね」

テルテルボーズ。

死体が、ぶら下がっていた。

やっぱり、悲鳴は聞こえてこなかった。上げる気もなかったのかもしれないが。

どちらにしろ、静寂だけは耳に痛かった。時計の振り子と同じように。